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翌日、久しぶりに早起きして髭を剃った和宏はクリーニング済みの紺色のスーツに手足を通し、地下鉄で札幌地裁へと向かった。
母親を同行させず、一人での裁判参加だった。降ろしたてのワイシャツの堅い襟が、首に擦れて痛い。
公判中は、気持ちを穏やかに保とうと被告席の葛沢の姿を見ないよう心掛けた。
しかし検察からの被告人質問など、どうしても葛沢被告の姿を見てしまう瞬間がある。そんなときはぎゅっと瞼を閉じ、何とかやり過ごした。
「では被告……。改めて問いますが、今でもあなたは、今回の衝突は前方不注意により起こったものと考えていますか?」
「ええ、勿論です。何度も言いましたけど、あれは煙草に火を点けようとしてライターを落としてしまい、それを拾おうとしたことで信号を見落としたことに拠ります」
相変わらず感情の籠らない声だ。
この返答も目を瞑ってやり過ごそうと試みる。
しかし、今度ばかりは無理だった。上目蓋を押し上げ、目の奥が痛くなるほどに力を込めて葛沢被告を睨み付けた。
(この男、あれから何も変わってない、ちっとも反省していない)
もうこうなると、感情の高ぶりを抑えるのは容易ではなかった。
今すぐにでもこの場から出ていきたい衝動に駆られた和宏だったが、兎にも角にも意見陳述まではと、岩にでもなった気持ちでそこに座り続ける。
「では最後に、被害者参加制度に基づく遺族からの意見陳述をお願いします」
葛沢被告によりかけられた岩石化魔法が解ける瞬間が来たのだ。
目を開けると、裁判長がやや熱の籠った目で和宏を証言席へと誘っているのが見えた。
紆余曲折を経て、ようやく巡って来た和宏の出番。
立ち上がった和宏が、証言台の前に立つ。裁判長は彼の発言を促すように、小さく頷いてみせた。
「まずは、このような機会を与えてくださった関係者に感謝いたします」
静まり返った法廷で、葛沢被告を除いた全視線が和宏に集まった。
岩のように冷え固まっていた彼が、今度は熱いマグマとなって吹き出す番だった。誰もいない方向をじっと見つめながらすまし顔で座る葛沢被告に、熱い視線を注ぐ。
「今、私は自宅にひとりで住んでいます。淋しくて淋しくて仕方ありません……。亡くなった三人の遺影を見る度に涙が込み上げ、『お前たちどこにいるんだ。父さんはどうすればいいんだ』と話しかけています。私が言えることは、たったひとつです。もう一度、家族のみんなに会いたい――それだけです」
耳鳴りがキンと響くほどの静けさが法廷を席巻した。
物音ひとつ立てる者もない。
「この裁判の間、私は被告の答弁を何回か聞きました。けれど、法廷で彼告から聞かされた言葉は弁解ばかりでした。私は大きなショックを受けてしまい、一時は出廷そのものを拒絶してしまいました。
ですが今日、改めて出廷して彼の言葉を聞いた私は、正直、煮えたぎる思いです。葛沢被告、あなたはまだ言い逃れするのですか? 危険運転もそうですが、ひき逃げに無罪を主張するなんてとんでもない! 夢も希望も奪われた家族たちの、悔しいと叫んでいる声が私にははっきりと聞こえます!」
和宏が再び葛沢被告を睨み付けた。だが、葛沢被告は決して目線を合わせない。
諦めたように小さく肩をすくめた和宏は、最後に一言、こう付け加えた。
「彼を刑務所から一生出さないで欲しい気持ちでいっぱいです。一番重い罪を切望致します」
誰もが言葉を失った。
啜り泣きも傍聴席から聞こえたが、和宏の最後の言葉も葛沢被告の視線を動かすことはできなかった。
「……本日はこれにて閉廷します」
裁判長の声は限りなく沈んでいた。
閉廷の言葉を聞いた渋沢被告の口元が、微かに歪んだようだった。
明くる、十月二十八日。
第九回公判で、葛沢被告へ検察より懲役二十三年が求刑された。
遺族席に座り、和宏は求刑の様子を確認した。だが、彼の心の中に浮かんでくるのは、“数字の妥当性”という五文字のことばかり。
現在の法律では、葛沢被告に求める罰としてそれが最長であることは分かっている。
だが、どうしても腑に落ちない。理性が混乱する。そして、気持ちが落ち込む。
求刑文の読まれる間、俯いたまま表情を変えなかった葛沢被告の姿が、彼を一層落ち込ませた。
十一月十日――判決の日。
朝から霙のような、痛く冷たい雨が降っていた。
前回の求刑から、約二週間。
この間、和宏は会社に出勤していた。でも、どう見ても彼の気は漫ろだった。仕事に身が入ることはなかった。裁判――法廷で見た葛沢被告の無表情の横顔の残像が、日々の彼を支配していた。
判決当日なのだ。
当然、法廷には和宏の姿が――と思うのが普通だが、そうはならなかった。朝から始まった、刺すような胃の痛みが彼に出廷を断念させたのだった。札幌地裁に向かおうと思えば思うほど、痛みが激しくなってゆく。時間が経つにつれて、それが体の痛みなのか心の痛みなのかの区別すらつかなくなる始末。
結局、十六時に始まる裁判には出廷できず仕舞いだった。
二重窓のガラスに雨粒が叩きつけられる音が、和宏の世界のすべてだった。
そんな微かに響く音を耳にしながら、殻の中に閉じこもった蝸牛のように息を殺して時間が過ぎるのを待っている。
「何て情けない奴だ、俺は……。俺なりには頑張ってはみたけど、これが限界なのかもしれない。母さん、ごめん。どうやら俺は、まだ全然前を向けてないみたいだよ」
先日の遺族の意見陳述の際には、嘘偽りなく心境を吐露することができた自分がいたことは確かだった。そのことで、ほんの少しでも前に進めたと思っていたことが、実はただの思い過ごしであったことに愕然とし、自分に心底がっかりしてしまう。
和宏が佇む場所――それは、位牌の並ぶ六畳ほどの広さの日本間だった。
彼にとってそこは、暗く狭い、懺悔室に過ぎない。
がっくりと首を折り、仏壇の前でダンゴムシのように背中を丸め、煮凝りのような半固形物として胡坐を掻き続ける。
すべてが明け透けではなかったが、家庭内で隠し事はほとんどなかった事件前。
和宏にとってみても、自分というものを普通に出せるような、仲の良い家族だった。
とは言え、今日のように一日中何かに怯えたように閉じ籠り、ぶつぶつと弱音を吐くなどという姿を家族に見せたことなどはなかった。でも今の和宏は、家族の遺影の前で、自分の弱い部分を含めた彼の“すべて”を曝け出せている。
それが人生における前進なのか後退なのか――彼には判断できなかった。
だが、兎に角こうして、和宏は朝から仏壇の前にいる。
初雪というイベントを終えた札幌の街は、夕方も四時を過ぎればかなり暗くなる。
遺影の中の妻の表情がほとんど識別できなくなった頃、リビングにあるテーブルの上に置いてあった和宏の携帯電話がけたたましい音を立てて鳴った。
重たい腰を上げ、ゆっくりとした足取りでリビングに向かう。
もしかするとテーブルに辿り着く前に携帯が鳴り止むかもしれない、という淡い期待感からだった。が、その浅はかな目論見は達成しそうもなかった。辛抱強く、携帯が呼び出し音を鳴らし続けている。
舌打ちして、渋々それを手に取った和宏が画面に表示された発信元を確認した。途端、彼の顔つきが険しくなる。
妻の父、幸三からの電話だったのだ。
「……もしもし」
「ああ、幸三だ。どうだ、少しは体調が良くなったか?」
「ええ、少しは……。それよりお義父さん、今日は行けなくてすみませんでした」
「まあ、体の調子が悪かったのだから仕方ないが――」
その口調には和宏を咎めるような、先の尖った棘のようなものがあった。それに自ら気付いた幸三が、すぐに声の調子を和らげる。
「ところで和宏君、判決が出たぞ。検察の求刑通り、懲役二十三年の実刑判決だ。我々からすれば短すぎるっていう気持ちもあるが、まずは勝利といったところだな」
「勝利ですか、ね……」
こういう裁判で勝利者は存在するのか、と和宏は思った。
例えそれが、死刑判決だったとしても――。
「どうした、嬉しくないのか? そりゃあ当然、俺も不服だよ。釈然としないよ。だけど今の法律ではこれが最高刑だということだしさ、そう考えなきゃやってられないじゃないか」
「……そうですよね」
和宏は、義父に調子を合わせることにした。
娘や孫を失った幸三だって、荒れ狂う気持ちを安定させるために、自分を無理矢理に納得させているのであろうから。
「ところで和宏君、裁判所の出口でマスコミにコメントを求められたよ。コメントを出すにしても、君が話すのが筋だとは思ったんだが、とりあえず俺の方で対応しておいた。まずかったかな?」
「いえいえ、そんなことありません。却って、すみませんでした」
「そうか……ならば良しとしよう。今後、葛沢も控訴するだろうし、まだまだ気は緩められないぞ」
鼻息が加速度的に粗くなる、幸三。
義父とは、もう二、三の会話を交わした後に電話を切った。
晩になり、和宏は珍しくテレビの電源を入れ、ニュース番組を見ることにした。幸三のコメントが、日本中を駆け巡っていた。
『刑も決まり少し安心しましたが、犠牲になった娘と孫たちは還ってきません。この悲しみは一生忘れることはできませんし、多分死んでも忘れることはないでしょう』
このコメントに、不満はない。寧ろ和宏の気持ちに近いと言えた。
義父に、感謝した。
そう思った途端、和宏の腹がぎゅるると鳴った。
朝からの緊張感が解け、胃袋も安心したのだろう。朝から何も食べていなかったことを不意に思い出す。
(こんな俺にも、まだ食欲はあったんだ)
だが、食べ物を口の中に入れることは躊躇われた。
食べる勇気がなかったのだ。
仕方なくソファーに身を深く沈めた彼は、電気も消さず、そのまま眠りについた。
やがて、吐息を立て始めた和宏。
彼の体から少し離れたフローリングの床上に、ナイフが一本、無造作に落ちている。その刃はLED照明の光を反射し、青白く冷たい光を放っていた。
ナイフを使う勇気すらなかったのだ。