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 次の晩も和宏の住む家に来客があった。

 二晩続けてというのは、今の彼にとってはとても稀有なことだと言える。

 訪問者は、亡くなった妻の実父、高橋(たかはし)幸三(こうぞう)だった。

 昨日ここを訪れた雅代が、約束通り連絡を取ったのだ。和宏がろくな食事をとっていないとも聞いたのだろう、盛り沢山の品が詰まったビニールの買い物袋を両手で抱えながらの訪問だった。


「よう、元気だったか?」


 流石は現役の農家。

 日焼けした黒い顔と白い半袖シャツのコントラスト、そして、シャツの袖から延びた筋骨隆々な腕が目に眩しい。

 一対一(サシ)で向かい合ったときの男同士は、得てして無口で無力だ。

 その雰囲気を打破しようと幸三が予め立てたらしい作戦なのだろう、テーブルの上に買い物袋の中身を景気よくぶちまける。冷えた缶ビールに缶チューハイ、それに大量のサキイカやししゃも焼、サバの塩焼まである。まるで居酒屋のメニューだった。

 髪をぼさぼさにした和宏が、素直に義父にお辞儀した後、缶ビールを一本だけ手に取った。


「お気遣い、すみません。本当は僕が、お義父(とう)さんの所にお伺いしなきゃならないのに」

「いや……。それは良いんだ、和宏君」


 あの事件以来、高橋の家でも義母の美智子(みちこ)の調子が良くない状態が続いていた。家の中に引き籠りがちになり、夫婦で生計を立てる農家としての生活が成り立たなくなっていたのだ。

 それでも義父は気丈だった。

 耕作する畑の面積を減らして農作業を一人でこなし、妻の美智子の調子が悪く塞ぎ込んだときは、二人分の食事の支度もした。

 和宏の母よりも若干若い、七十歳という年齢の義父。

 だが身長は和宏よりも五センチほど高く、足腰なら彼よりもよっぽど丈夫に見える。テーブルの上の焼シシャモを白く丈夫そうな歯で齧りながら缶のレモンチューハイをゴクリとやった幸三が、視線を伏し目がちに佇む和宏に合わせて話を切り出す。


「ところで、和宏君。君のお母さんから連絡があったんだが、本当に次の公判には行かない積もりなのかい?」

「はい……。誠に申し訳ないのですが、僕の代わりに遺族代表の言葉をお義父さんにお願いしたいのです」


 右手のチューハイの缶を静かにテーブルに置いた、幸三。

 目を瞑って腕を組みながら暫く考えていたが、不意に両眼を見開くと言った。


「でもな……。それは、家族で唯ひとり生き残った和宏君の役割――というか、責任だと俺は思うんだ」


 まるで、真夏の入道雲――。

 そんな、もくもくと沸き上がるエネルギーの塊のようなものが、義父の瞳の奥にあった。エネルギー密度の高い義父の目から思わず視線をずらた和宏だったが、何故か体はロックされたように動かない。言葉にならない呪文のような文言をもごもごと呟くのが精いっぱいだった。

(お義父さん、俺はあなたほど強くないんです)

 そんな意味を含んだかのような、殆ど生気を失った目で義父に哀願する和宏。

 幸三は、義理の息子の小さく萎んだ体から一ミリも目を背けず、こう言い放った。


「君の辛い気持ちもわかる。だがやはり、君が行って話すべきだと思う。俺も一緒について行ってあげるから」

「……僕にはもう、無理なんです!」


 義父の励ましに、間髪入れず反論する。

 そして、手にしていた缶ビールをテーブルに叩きつけた。飲み口から、音も無くブクブクと泡が噴き出してゆくのをじっと見守る。そんな泡の動きに呼応するかのように、和宏の右手がわなわなと震えた。

 トーンを一段階低くして、幸三が声を絞り出すように言った。


「何が無理なんだ? 葛沢が憎くないのか」

「憎いです。憎過ぎて頭がどうにかなりそうです。だから――耐えられないんです!」


 和宏が恐る恐る視線を上げると、そこには苦渋に満ちた表情で血の出るほど強く唇を噛み締める一人の老人の姿があった。

 だが、その眉間の皺には、

『どうしてお前だけが生き残っている?』

『何故ウチの娘が死ななければならない?』

『お前が車の修理さえ済ませていれば、あんなことにはならなかったろうに』

『――お前が死ねばよかったのに!』

 という、一種暴力的な言葉の数々が刻まれているような気がしてならなかった。

 でもそれを感じたのも、ほんの一瞬だった。

 すぐに幸三の目は生まれたばかりの子猫を見守る母猫のようになり、先程までの苦渋に満ちた表情が嘘のように消え去った。それがあまりに劇的な変化だったので、勝手な被害妄想だったのかと和宏が思い直すほどだった。


「判った、もういい……。次の公判には俺が行く。罪もない麻帆たちの将来が無残にも奪われてしまったのだということを、精一杯、皆に訴えてやるさ」

「すみません、お義父さん……。よろしくお願いします」


 その後の二人に、親子としての会話は生まれなかった。

 いつまでたっても食べ物を消費する戦力にならない、和宏。

 彼を尻目に、持参したつまみを無理矢理に平らげた幸三はリビングのソファーに寝そべって一晩を過ごすことにした。

 最後に交わした二人の言葉は、実用的なものだった。


「悪いが、ここで一晩過ごさせてもらうぞ」

「僕は一向に構わないですけど……」


 翌日の早朝。

 和宏には挨拶もないまま、幸三は由仁の自宅へと車で戻った。



 数日後、そうして迎えた第六回公判の日。

 テレビを見ることもなく、朝からずっと部屋に佇んだままで和宏はぼんやりと時間を過ごしていた。

 陽が昇ると同時に人々が活動し始め、やがて人々が疲れ果てて陽が沈む――。

 といった世の中の繰り返し的出来事は、今の和宏にとって窓の外で粛々と行われている事象に過ぎなかった。夕方になり陽も沈み掛けた頃、色もなく動きも止まった和宏の世界を、携帯電話の呼び出し音がけたたましい音が打ち破った。

 彼の世界に、夕陽の赤が射した瞬間であった。


「とにかく俺は、力の限りを尽くして話したぞ。次は――君の番だからな」


 電話は、義父の幸三からのものだった。

 礼を言って、すぐに電話を切る。

 テレビをつけてマスコミの報道を確認しようとも思ったが、どうしてもリモコンに手が伸びなかった。結局、幸三が話した内容は翌日の新聞で知った。


『あの家庭は本当に仲の良い家庭でした。事件の日も、娘の麻帆と孫の絵美が私のやっている農園の手伝いに来てくれたのです。孫の宏太は、野球部の部活が偶々休みで一緒に来てくれて……。それを思うと、更に切なくなります。晩御飯を食べ、札幌の自宅に戻るために私の家を出た直後、彼等はこの事件に巻き込まれました。孫の就職や結婚式など、これから色々と楽しみにしていた私ですが、それらはすべて叶わぬ夢、幻となりました。本当に、本当に残念です』


 義父が世間へと発した、心の籠った言葉。

 それを呼んだ途端、和宏の世界が歪み、頬から零れた滴で濡れた新聞が波を打つようにふやけた。どうしようもないほど声が溢れ出し、暫くの間、嗚咽(おえつ)が止まらなかった。



 翌日の第七回公判は、母の雅代が遺族として出廷した。

 裁判の立ち合いを終えた雅代が、その足で和宏の自宅に立ち寄った。

 が、雅代は愕然とした。何せ、裁判を目撃した雅代に対し、和宏はその様子すら訊こうともしなかったのだ。そればかりか、雅代がコンビニで買ってきた差し入れを礼も言わずに勝手に(あさ)り、貪り食っている。

 床の上に足を投げ出した姿で、おにぎりやパンを幼い子どものようにがっつく自分の息子を雅代は悲しげに見おろした。


「和宏、明日は遺族の意見陳述の日なんだよ。分かってるのかい?」

「うん……」


 見た目のそのまんま、和宏の返事は幼児のそれだった。

 食べ物を掴む和宏の手は、一向に止まらない。


「アンタ、明日の公判だけは絶対に自分で行きなさいよね。今回の裁判で遺族が証言できる、最後の機会なんだから」

「へえ、そうなんだ……ふうん」


 かっとなった雅代が、息子の手に握られたおにぎりを勢いよく叩き落とした。

 和宏の手から飛び出したエビマヨのおにぎりはフローリングの床で跳ねることもなく、粘性の低いマグマを吹き出す活火山のように、ぐしゃりと横に広がった。


「アンタ、明日も行かない気かい? ならば明日は引き摺ってでも連れていくよ。泣いても喚いても、絶対に連れて行くからね!」


 それは、まるで幼稚園に行くのを渋る五歳児に母親が掛ける言葉だった。

 実際に今の和宏の様子は、数十年前に「今日は幼稚園に行きたくない」と彼が駄々を捏ねていた姿を雅代に彷彿とさせた。


「でも、俺……」

「和宏ッ!」


 口を尖らせ、今にも泣きそうな表情の和宏の言い訳を、雅代が強い調子で遮った。


「こんな機会、もう二度とないかもしれないんだよ。それに――」


 言葉を選ぼうとして、雅代が一瞬だけ口籠る。


「アンタ、このままだったら一生かかっても前に進めないよ。辛いことだけど、逃げちゃいけないんだ。今のアンタは、自分の心の内をあの場で曝け出すことでしか人生を前に進めることができないと思うんだよ、ワタシは」


 血反吐を吐く勢いで、雅代は心の奥から噴き出した言葉を丁寧に並べた。その様子を見た和宏は、法廷での葛沢の態度とは正反対のものだと感じたのだった。

 血の通った人間のそれも魂の籠った言葉は、どんな種類の人間の胸にも必ずや沁み込んでゆく――。

 大きな溜息を吐いた和宏が、遂に観念した。


「判ったよ、母さん。俺、明日は裁判所に行くことにするよ」

「そうかい、判ってくれたかい。うん、それがいい……それがいい……」


 言葉を詰まらせる母。

 その目尻に、彼の記憶より遥かに深い皺が刻まれていることに、改めて気付かされた和宏なのだった。

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