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第二回公判は、第一回公判翌日の十月十八日に行われた。
昨日とはうって変わっての、曇天。
今にも冷たい雨が落ちてきそうな空模様。昨日、乱れに乱れた己の精神力の弱さを反省しつつ、和宏は裁判所に出廷した。
亡くなった家族のためにも、泥濘に嵌ったまま一向に浮上してこない心と体を立て直さねば――。
そんな思いで自身の頬に平手打ちしてから、法廷に入る。
だが、裁判所での彼の気持ちはゆらゆらと波間に漂う漂流物の如く揺れ動き、お世辞にも落ち着いたものとは言えなかった。
そんな彼の前で証言台に立ったのは、衝突事故の第一発見者で三十代の男性だった。
時折苦しそうな表情をしながら、言葉を選び選び証言していく。
「あの晩、私は次の日の帯広での用事のため、自宅のある札幌から帯広に向けて事故現場付近を車で走っておりました」
「それは何時ごろの事ですか?」
間髪入れずに、検察が質問する。
「夜の……九時過ぎだったと思います」
「そのときあなたは、被告の運転する大型RV車に追い抜かれたのですね」
「ええ、そうです。自分は時速六十キロくらいで走っていたのですが、黒のRV車――葛沢被告の運転する大きな車だと思いますが、自分の倍くらいの速さで追い抜いて行ったのを見ました。すごく目立つ車ですし……よく覚えています」
「その後、どうなりましたか」
「追い抜かれてから、数分後……だったと思いますが、事故のあった交差点で軽自動車が大破しているのを見つけました。すぐに警察に連絡をし、救急車も呼びました」
「現場は、どういった感じでしたか」
「どういった感じ? ええっと、そうですね……交差点左手から出て来た軽自動車に、私と同じ方向に進んでいた車が突っ込んだ……ように見えました」
「事故が起きてから、どのくらい経ったようでしたか」
「パッと見、ほんの少し前に起こったんだなと感じました。ですが……」
証言者は遺族席の和宏をちらりと見遣った後、言葉を続けた。
「何と言いますか……生きた人間の気配みたいなものは……感じませんでした」
「そのとき、被告の車を付近で見かけなかったですか」
「見かけませんでした」
第一発見者が証言する間も、葛沢が顔色を変えることはなかった。まるで、自分とは無関係な話を聴くような表情だ。当然、反省の色など皆目見えない。
当日の夜に現場を覆っていただろう暗闇よりももっと暗い、絶望という名の暗闇が和宏の心を覆い始めていた。
※
それから連日続いた、公判の日々。
第四回公判では、葛沢被告が事故の翌朝に「もう酒も醒めたし、俺、酒は飲んでいなかったって警察に言うわ」と地元の友達に言っていたという証言があることを検察が明らかにした。また、事故直前に葛沢被告が酒を飲んでいた飲食店の女性店主が、「葛沢は女性と二人で店に現れ、ビールをジョッキを二杯、それから焼酎をボトル一本飲んで帰った」という旨の証言をした。
女性店主の証言は、法廷の傍聴席をざわざわとざわつかせた。
葛沢被告が裁判で話した「当日はビールを一杯飲んだだけだった」という主張を覆すものだったからだ。
そのとき、ほんの一瞬だけ葛沢の顔が歪んだのを和宏は見逃さなかった。
それ以後、公判全体で考えても、ポーカーフェイスを通した葛沢被告の心を最も乱したのは、十月二十一日の第五回公判だったといえる。事件当日、葛沢被告の運転する車の助手席に同乗していたという女性による証言だった。
水野佳織。事件当時二十五歳で、葛沢と同郷の恋愛関係にあったという女だ。
艶のない茶髪をポニーテールでまとめ、金色の一本線が入った黒ジャージに身を包んだ小柄な女が、今時の語尾を上げるアクセントで検察の質問に歯切れよく答えていく。
「札幌で食事して、お酒を飲んだ帰りでしたね。郊外の道に入った途端、葛沢が車のスピードをぐんと上げました。その加速の度合いが大きかったので、ちょっと怖いな、と思ったほどです」
「被告はそのとき、何か言ってましたか」
「ええーっと、事故を起こすちょっと前でしたけど、『もうこれ以上スピードが出ない』とか言っていたと思います」
あちらこちらでざわつく法廷。
今まで顔を覆っていた何かをかなぐり捨て、葛沢被告が元彼女の佳織を睨みつけた。葛沢被告にしてみれば、味方だと思っていた人間の予想外の裏切りだったのであろう。
「事故を起こした時の信号はどのようでしたか」
「こちら側が赤でした。間違いないです。だって私、『信号、赤だよ』って彼に言いましたもん」
「それに対して、被告は何と?」
「それには何も答えず、スピードはそのままで交差点に突っ込んでいきました」
「信号は赤の状態で、途方もないスピードのまま交差点に入った。そういうことですね」
「ええ、そのとおりです」
法廷が一瞬で安定を失った。
場に私語が溢れ、葛沢被告への怒号も飛んだ。
だが、すぐに裁判長の引き締めの言葉が炸裂する。ようやく静寂と安定を取り戻した法廷で、検察が質問を続ける。
「被告が否認している、ひき逃げについてはどうですか」
「ああ、そのことですね。私の感じでは、小さな段差を乗り越えたみたいでした。ムニュって感じ。それで私、怖くなって『さっきの場所に戻ろうよ』って言ったんです。だけど彼は、『とりあえず車を置きに行く』と言い張って、聞き入れてくれなかったんです」
証言台に立つジャージ姿の若い女に対し、葛沢被告が目玉をひん剥いた。彼が初めて見せた、感情剥き出しの顔だった。しかし、それも少しの間だけだった。横に控える弁護士が一言二言、彼の耳に囁くと、すぐに元の無表情を取り戻す。
(これだけの証言があっても、まだ悪びれる様子はないのか)
和宏は、自分の全身から急激に力が抜けて行くのが分かった。
その晩の事だった。
同じ市内に住む和宏の母、雅代が、ふらりと和宏が一人で暮らすマンションにやって来たのだ。ぱんぱんに膨らんだエコバッグを左手にぶら提げ、玄関の扉を開けた和宏の挨拶もそこそこに、部屋の奥へと進んでゆく。
バッグは床に置いたまま、雅代はかつて和宏の妻の麻帆が座っていたテーブルの席に座った。やがて、のろのろとした動きで向かいに座った和宏と向かい合うと、雅代が会話の口火を切った。
「どうだい、元気にしてたかい?」
「うん……まあ」
付着した汚れが気になるような素振りをして、和宏がテーブル天板の一か所をじっと見つめる。
暫くの沈黙の後、会話は裁判のことになった。
裁判の様子を知りたい雅代の質問に対し、今日までの流れを咽喉の奥から絞り出すようにして説明する和宏。
途切れ途切れな和宏の説明がひと段落すると、雅代は息子の目を見据えた。
「それで……大丈夫なの?」
「大丈夫か、だって? ああ、判決のことかい。証言は葛沢に不利なことばかりだし、きっとこちらに有利な判決が――」
「違う、アンタのことだよ」
その目には、憂いと厳しさが同居していた。
つい少し前までは「とても七十代には見えないね」と言われるのが自慢だった七十三歳の母が、今ではとても七十代とは思えないほどに老け込んでいる。
油っ気のない白髪と深い皺の刻まれた目尻を和宏に向けて、彼女は言った。
「アンタ、大丈夫? 気持ちは保っていられる?」
「俺は母さんの方が心配だよ。最近、急に老け込んじまったじゃないか」
「ワタシのことなんて、どうでもいいんだよ!」
雅代が立ち上がり、肩を震わせた。
すると、能面のように動かなかった和宏の顔に何日振りかの表情が現れた。胸につかえたものを吐き出すように嗚咽が始まり、涙をぽろぽろと溢した。
母親に数十年ぶりに見せる涙だった。
「母さん……俺、本当は嫌で嫌でたまらないんだ。もう充分だよ。葛沢の顔なんて二度と見たくない」
突如息子からあふれ出た泣き言にも動じない。
雅代は即座に両手を広げ、泣きじゃくる和宏を彼の気持ちごと包み込んだ。そして、生粋の北海道女性らしいきっぱりとした調子でこう言った。
「和宏……。アンタの気持ちはよく判る。今まで、よく頑張った。でも……キツイこと言うようだけど、今投げ出してしまったら亡くなったお父さんも納得しないと思うんだ、ワタシは。麻帆さんや宏太、恵美のためにもならないし」
和宏の父、大輔は、麻帆たちの葬儀に駆け付けた後、三ヶ月も経たないうちに体調を崩し亡くなっていた。それはあたかも、生前の大輔が目に入れても痛くないほど可愛がっていた孫たちに呼ばれてしまったかのようだった。
葬式で見せた大輔の小さな背中が、和宏の脳裏に蘇る。
一瞬にしてすべてを無くしてしまったかのような大輔の落ち込みようは、傍から見ても尋常ではなかった。日に日にやつれていく大輔を近親者が心配していた、そんな矢先に大輔は倒れ、孫たちの許へと旅立ったのだ。
「頼むよ、母さん。俺の代わりに裁判所に行ってくれないか」
「でも、次はアンタが遺族代表として証言台に立つんじゃないのかい?」
四日後の二十五日。
和宏は、第六回公判の中遺族代表としてで意見陳述をする予定になっていた。
「もう、俺には限界だ。母さんが代わりに話してくれないか」
「和宏……ワタシにはそれこそ無理だよ。やっぱり、たった一人残った家族として、アンタが行くべきだと思う。けど、そんな気弱なアンタの姿を葛沢に見せたくはないのも確かだね……。分かった、麻帆さんのお父さんにワタシから裁判に出てもらうように頼んでおく。でも断られたら、アンタ、なんとかして自分で行きなさいよ」
「わかった。頼む、そうしてくれ、母さん」
「仕方ないね……」
置き去り状態だったエコバッグを持って、雅代が立ち上がる。
そのままキッチンへと移動し、男一人暮らしの散らかったキッチンを見て辟易としながら食事の支度を始める。予想通りほとんど蛻の殻だった冷蔵庫に、雅代は溜息をどっぷりと詰め込んだ。
「……アンタさ、色々と大変だろうけど食事ぐらいはちゃんとしなよ」
「ああ、できればそうする」
曖昧に答えた和宏だったが、やがて部屋に漂った久しぶりの家庭料理の香りに舌が疼いた。みりんと醤油と鰹だし。彼にとって、酷く懐かしい匂いだった。
やがて、所謂“お袋の味”がテーブル上に並んだ。
ホクホクの肉じゃがと若干賞味期限切れの味噌が溶かれた豆腐の味噌汁から、無数の湯気が舞い昇ってゆく。
「じゃあ、ワタシは帰るよ。バスもなくなるし、お父さんが家で待ってるからね……。アンタは、ゆっくりとお食べ。お代わりもあるから」
「うん、ありがとう」
「それから――どうしても耐えられなくなったら、ワタシに言いなさいね。頑張ってほしいけど、無理もしてほしくない」
「ああ、分かってるよ。本当にありがとう、母さん」
やがて雅代は和宏の自宅を後にした。
音のない、自分の母親もいなくなったリビングで和宏が声を殺して泣き続ける。食事が彼の咽喉を通ったのは、だいぶ料理が冷めてしまった後の事だった。