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(あれからもう、一年以上経ってるなんて……。あっという間だったな)


 ここ一年余りの記憶をひと通り思い起こし、和宏が重苦しい溜息を吐き出す。

 今の彼の目前には、情もへったくれもない不可視的な“時”の流れではなく、細く頼りなさげではあるがどこか温かい感じもするヤリキレナイ川の現実的水の流れがあった。

 気付けば彼の体から延びる影が大分長くなっている。

 もうそろそろ社に戻らねばならない時刻だろう。しかし、肝心の彼の体と心が動かない。


(なんかどうでもよくなっちゃったな、仕事なんて)


 どうせ、一人なのだ。家でも、会社でも――。

 ならば仕事なんかやる意味ないじゃないか、と赤みを増した空を見上げたときだった。

 彼の心中に、途轍もなく恐ろしい考えが()ぎったのだ。

 それは、もしかするとこの一年間、和宏が意識的にそう考えることを避けてきたかもしれないことだった。この夏の暑さで錆び付いて開かなかった心の鍵が壊れ、開いてしまったのかもしれない。


(もしかして――俺がもっと早く車を修理しておけば、こんな酷いことにはならなかったのか?)


 和宏は、まるで石膏で固められてしまったかのように自分の体が酷く強張ったのを、愕然とした気持ちとともに感じたのだった。


    ※


 そんな死んだ心を抱えて死んだように生きた和宏に、裁判の初公判の日が訪れた。

 十月十七日――彼の気持ちとは裏腹に、雲ひとつない澄んだ青空が朝から広がる日だった。

 雨の多い筈の十月に、これほど無駄で嫌味なものは無いだろうと思うほどだ。

 文句のつけようのない快晴。

 これから二週間ほど続く裁判の傍聴のため、会社から取得可能な有休の半分ほどを使って長期休暇を取った和宏は、朝の九時半過ぎに札幌地裁へ足を運んだ。


 生まれて初めて訪れた裁判所だった。

 自分が罪を問われている訳でもないのに、施設空間から滲み出る圧力にも似た雰囲気に緊張してしまう。見えないけれど人を委縮させる何かが、そこにはあった。遺族席へと係員に案内された和宏は、着席して公判の開始を待つ。

 やがて現れるであろう裁判関係者を待つ間も、権力の末葉に腰掛けているような気がして、椅子に触れている尻がむず痒かった。


 和宏は蚊帳の外だったが、マスコミ的には世間をかなり騒がせた事件なのだ。当然、裁判員裁判となる。

 正面に設置された横長の裁判官席に、目に痛いほどの圧力を感じた。

 中央に正規の裁判官が座り、それを挟むように裁判員が左右に分かれて着席する。左手には検察官席があり、その正面、和宏から向かって右手に葛沢自身が座る被告人席があった。

 そんな風に法廷を眺めている自分に対し、当初想像していたよりも冷静な心持ちでいることに和宏は自分で感心していた。

 だが、凪いだ海のような心を維持できたのも、ある瞬間――葛沢という男の実体を見るまでだった。


 手錠を掛けられた被告人「葛沢(くずさわ)竜男(たつお)」が、二人の係員に挟まれるようにして入廷する。下を向き、何処に視線を合わせることもなく葛沢が係員に促されて席に着く。

 昔よく見たおばさんパーマ、若しくは手入れをしていない天然パーマのような髪型。

 ぼさぼさ状態の茶髪と、無造作に伸びた無精髭が際立って目立っている。藪睨みした目は常に床に向いており、遺族である和宏のいる方向へは一瞬たりとも動こうとしない。


 不意に暴風雨を伴った嵐が彼の心の海にやって来て、彼の本体を激しく揺さぶった。

 深海から吹き上がるマグマのような怒りだった。さざ波が寄せる波打ち際のような、あんなにも穏やかだった彼の心持ちが、嘘のように消え去った。

 葛沢を罵る言葉が、不意に立ち上がった和宏の咽喉まで出かかった。

 法廷で毒を撒き散らそうとしている自分に、ふと気付く。

 そんな自分に驚き、恐ろしく呆れた。逆に心が立ち竦んで何も言えなくなった。


 なのに、和宏の両足だけは竦まなかった。

 勝手に動きだした両足が、二歩、三歩と彼を葛沢に近づける。そのときだ、正規の裁判官と、裁判員たちが法廷に姿を現したのは。心なし、裁判員の面々は緊張に目を泳がせているように見えた。

 裁判官たちの姿を見た和宏が、足の操縦権を回復する。体重をぐいと右足にかけて立ち止まり、ぎこちない足取りで元の椅子に座り直す。

 彼等は、和宏にとって救世主と言えた。

 だが、心中で荒れ狂う嵐が収まる気配はない。

 目の前で起こっている事象が少しも彼の中に入って来なかった。気付けば既に検察の冒頭陳述が始まっていた。

 若手の男性検察官だった。


「被告、葛沢竜男の運転する大型RV車は、事故当時、時速百三十キロメートルを優に超えるスピードで走行し、赤信号を無視したことは被害者家族が乗車していた軽自動車の破損の程度や飛ばされた距離、そして当時の同乗者等の供述などから明らかであり、彼の身勝手で危険な運転がこのような事故を起こしたのは明白です。ひき逃げ行為については、受けた衝撃や違和感からその認識はできた筈であり、また路上に残された車両蛇行の痕跡からも、被害者に長男を引き摺っていたという認識があったのは明らかであります」


 理路整然とした陳述を、和宏は目を瞑って聴き入った。

 至極尤もだと思った。これ以上は何の言葉も必要はなく、どんな阿漕な人間も納得して罪を認める筈だ、とも思った。裁判なんて必要ないじゃないか。

 ところが――。


「あの晩、車のスピードは制限速度に比べれば確かに出過ぎていたと思います。でも時速百キロあるかないかで、そんな滅茶苦茶にスピードを出していたことはなかったと思います。それに、故意に赤信号を無視したという意識もないです。煙草を吸おうとしたときにライターを落としてしまい、それを拾おうとして赤信号を見逃しました」


 悪びれる様子など、微塵も葛沢にはない。

 そればかりか彼の弁護人である老弁護士が満足げに頷くほどに、滑らかな証言が飛び出す始末。何度も練習した成果なのだろうか。

 だが彼の言葉に疑問を感じたらしい数人の裁判員が、首を傾げた。


「では被告人は、当時の状況は危険運転ではなく過失である、と主張するのですね」


 正面に並ぶ人々の中央に鎮座し、ひと際威厳を放つ裁判長。彼が、抑揚のない言葉でそう尋ねた。

 すると被告人は「ええ、勿論です」と、うっすらと笑みまで浮かべて頷いた。


「事故を起こした後、その場から立ち去ったことについてはどのように説明しますか」

「あの日、札幌でビールを一杯だけ飲みましたが、判断が鈍るほど酔ってはいませんでした。自分は無職で任意保険にも入っていなかったので、つい逃げてしまったのです」

「人を轢いた、という意識はなかったのですか」

「正直、車から人が飛び出してくるとは想像できず、気付きませんでした。自分がひき逃げをしてしまったらしいと判ったのは、翌朝のニュースをテレビで見たときです」


 和宏は隣の人が聴こえるほどの歯ぎしりをした。

 奥歯が砕けてしまいそうになるくらい、強く激しいものだった。


(そんな訳ないだろ……。お前は、宏太を引き摺っていることが分かっていた筈だ!)


 またも和宏は足の操縦権を失った。

 彼の右足が激しく上下し、がんがんと音を立てながら何度も床を踏みつける。

 その音は、今までどこか夢見がちだった裁判員たちの目付きを変えたようだった。彼等にとっては青天の霹靂(へきれき)であっただろう罪を裁くという重責を、思い起こさせたのだ。


「御静粛に願います」


 それはまるで、黒縁眼鏡が発したような角張った言葉だった。

 しかしそんな裁判長の言葉で、法廷内に落ち着きが戻る。

 怒りを通り越し、次に和宏に訪れたのは葛沢に対する“呆れ”だった。目の前で行われている裁判に対して和宏の気持ちが遠のいてゆく。

 自分を傷つけまいとする、逃避行動なのだろう。

 その後、和宏の意識が議事に戻ることは一度もなく、そのまま第一回の公判は終了したのだった。

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