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すべての葬儀を終え、斎場を出た和宏を待ち構えていたのは、マスコミからの取材攻勢と容疑者が取り調べで語ったというマスコミから漏れてくる事故当時の様子のコメントだった。
警察署に出頭したという男が葬儀の間に逮捕され、容疑者と称されるようになっていることに少し戸惑う。
(そうか容疑者なのか。ならばこれは事故ではなく、事件なんだ!)
改めて気付く。
現場から逃亡したばかりではなく長男をひき逃げした時点で、これは事件だったのだ。
マスコミの「容疑者が出頭したそうですが今のお気持ちを」という質問に対し、カメラ前で一言、「今は何も答えられません」とだけ言い残し、自宅へと向かう。どこから自宅住所を聞きつけたのか、マンション前でもマスコミがたむろしていた。
それらを掻き分けて入った自宅玄関扉の前に、見覚えのある男が立っていた。
捜査担当の警察官、高田だった。
「お疲れの所、押しかけて申し訳ありません。葬儀後に話を聞きたいと仰ったので……」
リビングテーブルの椅子に和宏と向き合うようにして腰掛けた刑事は、そう言って話を切り出した。
「麦茶しかないですけど……」
「いえ、どうかお構いなく」
ここ数日、開けることのなかった冷蔵庫の中身を思い出して和宏が勧めた麦茶を慣れた様子で断ると、多忙で自宅に戻っていないのか、高田は皺だらけの背広の胸ポケットから一冊の黒革手帳を取り出した。
「出頭してきたのは由仁町の隣町、栗山町に住む無職の男で、葛沢竜男、二十六歳。一昨日の晩、札幌の飲食店から自宅のある栗山町に向けて大型RV車を運転している途中、由仁町の交差点で軽自動車にぶつかったことを認めています。その場では怖くなって逃げてしまったが、一晩が経過してニュースで相手側が亡くなったことも知り、やってしまったことの恐ろしさを感じたので出頭したとの説明でした」
相も変わらず、抑揚のない落ち着いた口調だ。
その冷たい口調に抵抗はなかったと言えば嘘だが、ここまで徹底していると、今の自分の感情にしっくりとくる――そんな妙な感覚すら芽生えつつあった。他人のちょっとした表情や言葉の起伏で、感情を爆発させてしまいそうになる遺族の神経を逆撫ですることのない、魔法のしゃべり方なのだろう。
そんなことを考えていた矢先。
ごつごつした造りの刑事の目尻に、暗い影が射した。
「ただ……ですね」
「ただ、何ですか?」
喪服姿のまま顔をしかめた和宏に、刑事は一度深呼吸して“間”を整えた。
「ただ、息子さんを引き摺ったこと――意図的なひき逃げを彼は認めていません。気が動転していてそのときは気付かなかった、そのことはニュースで知ったと言っています」
「そんなバカな!」
熱り立った和宏は黒ネクタイを襟から剥ぎ取って、フローリングの床に叩きつけた。
「だって、道路に残る引き摺った跡が蛇行してるんですよ。そんなの素人の私にだって、犯人が意識的に振り落とそうとしていたってことが分かりますよ!」
意図的に犯人という言葉を使った、和宏。
「ええ、私もそう思います。思いますが、詳しくはこれからの捜査で――」
「これからって、そんな!」
過呼吸気味になった呼吸と嵐のように荒れ狂いそうな気持ちを抑えようと、和宏はキッチンへ行って冷蔵庫の扉を開けた。LEDの妙に青っぽい明かりが庫内を照らしだす。と同時に、この家特有の、懐かしさまで感じる匂いが彼の鼻孔を包みこんだ。その匂いは、紛れもなく数日前まで存在していた家族たちの生きた証なのだ。
生まれて初めて匂いに愛しさを感じた瞬間が、そこにあった。
「……」
水出し麦茶の入ったガラスポットを、冷蔵庫の棚から取り出した。
想い出すのは、いつも風呂上りに喉を鳴らして麦茶を飲んでいた宏太や絵美の姿だった。二人とも、麦茶が大好きだった。そんな二人のため、季節に関係なく飲めるようにと妻の麻帆が常備していた麦茶ポットなのだ。
和宏は、台所に転がっていた綺麗なのか汚れているのかもわからない適当なガラスコップに琥珀色の液体を注ぐと、それを一気に飲み干した。
「ところで、刑事さん。昨日から気になっていることがひとつあるんです」
「気になること……ですか?」
「はい。妻の荷物なんですけど」
「荷物?」
「ええ。妻はベージュ色のハンドバッグを持ち歩いているんです。私が妻へあげたプレゼントなんですが……。それが、遺品の中に見当たらないんですよ」
手帳を左手に持ったまま腕を組み、高田が首を傾げた。
「ハンドバッグ……。確かに、現場からは見つかってませんね。衝突した時に車の中で潰れてしまったのかもしれません」
「潰れて無くなった?」
「いえ、可能性を言ったまででして。後日解体する予定の車の部品に紛れて見つかるかもしれませんよ」
「バッグの中には、それなりの金品とかスマホとか貴重品もあったはずなんです。事件を起こした犯人が持ち去ったとは考えられませんか?」
「うーん……それはどうでしょうか。なにせ車が大破したほどの酷い状況でしたし、暗い夜道でしたしね……。葛沢、もしくはその後に訪れた誰かが冷静に盗みを働くとは考え難いです」
「ならば、何処かにはあるだろうということですね。兎に角、あのバッグは私にとって大事な物なんです。捜索、お願いします」
「勿論です。きちんと捜しますから」
言葉とは裏腹に、弱々しい表情を残した高田。その後、二人の間に沈黙が続いた。
高田が和宏に伝えられる内容が、既に品切れ状態だったのだ。
「何か判り次第、お話できることであれば、またご連絡させていただきますので」
そう言い残し、高田は玄関扉の向こうに去って行った。
だが意外にも新しい情報は、翌晩にもたらされた。
家の電話が鳴り、「捜査段階で詳しいことまでは言えないが」と前置きをした上で、高田が話し始めたのだ。
「葛沢は事件当日、繁華街で飲酒をし、その後に女友達を助手席に乗せた状態で車を運転していたらしいです。飲食店の従業員と助手席にいた女性からの証言が取れました。恐らく葛沢は、事件当時、危険運転致死を免れようと現場を立ち去ったものと思われます」
「危険運転……ですか」
「それに同乗者の女性から、信号は葛沢側が赤だったとの証言も得ました」
「えっ! ということは、妻の車は信号が青の状態で交差点に進入したんですね?」
「ええ。彼女の証言が正しければ、そういうことになります」
それまで和宏の心の片隅にあった懸念――もしかしたら、妻が信号を見落としたのかもしれないということ――が、一瞬で払拭された。
妻には何も悪いことはしていなかったのだ。
葛沢という男を、心の底から憎んでいいのだ!
タールのように黒く粘性度の高い感情が、彼の心の中に沸々と湧き上がった。
だが今は、それを爆発させるときではない――。
そう思った和宏は、感情を無理矢理封じ込めようと体の内側で奮闘を続けた。そんな和宏に、高田が言葉を続ける。
高田の口調は、今までのそれよりかは幾分か興奮度合いを増したものだった。
「葛沢のRV車は、本人の供述通り、自宅の車庫に置いてありました。自宅に向かったところ、酷く血だらけの状態でブルーシートを被せてありました。これで、ひき逃げも葛沢の犯行だと証明出来ます。洗車して血を洗い落とそうとしたものの、あまりの量の血の付着でそれは無理だと判断し、自分の血中アルコール濃度を落としたうえで出頭すると決めたものと思われます。あくまでも現段階での見解ではありますが」
「血を……宏太の血を洗い落とそうとした、ですって?」
その瞬間、和宏の中で何かが弾けた。
もう、高田が何を言っているのかも解らなくなった。言葉が意識に届かないのだ。ただ受話器を握りしめ、部屋の中で立ち尽くすばかり。
そんな状態が一分ほど続いた後の事。
次の高田の一言が、和宏を再び|現実に呼び戻したのである。
「それから、昨日お話のあった奥さんのハンドバッグなのですが――」
「見つかったのですか?」
「いえ、それがまだなんです、すみません……。それについて葛沢に問いただしてもみたのですが、葛沢からは何も情報を得られませんでした。彼は知らないようです」
「そうですか……。分かりました」
「では、また何か判り次第連絡します」
それから警察から何度か連絡があったが、結局そのほとんどを上の空で聞き流してしまった和宏なのだった。