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公判前整理も終わり、八月末日になった。
少しは暑さも和らいだかといえば、今年の場合はそうとも言えなかった。
そんな中、会社に出社した和宏がまるでルーチン作業のように外回りすると周りに告げて席を立ったときだった。
遂に、主任の鈴木が彼の中に鬱積した不満を和宏に直接ぶつけたのだ。
「永浦さん、ちょっと待ってくださいよ! また今日も空知方面ですって? いつもいつも同じ方向に営業に行くっておかしくありません? ウチのお客さんは、空知だけじゃないんですから」
一瞬、凍ったように固まった社員たち。
穏便にことを済ませたい女子社員たちも含めて営業部の人間の視線が集中するも、和宏は動じなかった。
「ああ、分かってるよ、鈴木。すまんな」
「いえ。すまん、とかじゃなくてですね――」
鼻息を荒くして自分の席から立ち上がろうとした鈴木を、一番奥の席の中村課長が普段より迫力の増した声で制した。
「鈴木君! いいから行かせてやれ」
「でも、課長。今のままでは、永浦さんが……」
「いいから。な?」
二人のやりとりを他人事のように聞いていた和宏が、そこへ口を挟んだ。
「それじゃあ、出かけてきますね」
逃げるように、和宏が部屋から出て行った。
それを呆れ顔で見届けた鈴木が、今度は頬を真っ赤にして怒り出した。そして、中村にすごい勢いで突っかかる。
「確かに、永浦さんは大変だったと思いますよ。僕なんか、想像もできません。でも、もうあれから一年以上も経つんです。今後の永浦さんことを考えれば、自分は今の永浦さんの状況に納得できないし、不満です」
「君の言うことも重々分かる。だが、そろそろ裁判も始まることだし、もうちょっと――あともうちょっとだけ、温かい目で永浦さんを見守って欲しいんだ。頼む、このとおりだ」
「……」
少し薄めの髪の頭を深々と下げる課長。
それを前にして、これ以上の文句を鈴木は吐けなかった。不貞腐れて、叩きつけるようにパソコンのキーボードを操作する。
緊迫感の薄れた雰囲気を敏感にキャッチした女子社員たちが、安堵の息を吐き出した。
それから暫くして、ヤリキレナイ川付近に和宏が営業車で到着した。
出掛けに鈴木主任に呼び止められたこともあって、彼の気持ちが激しく波打っている。体が痺れた感じになり、どうにもライトバンから出られない。
「ふう……」
和宏が、肩で大きく呼吸した。
停めた車のウインドウ越しに見えるのは、ヤリキレナイ川の流れ。それをぼんやりと眺めながら、彼は想い出したくもない重たい記憶を辿るしかできなかった。
――それは、一年と二ヶ月前の六月六日、北海道が初夏を迎えた頃の夜の事だった。
永浦和宏の家族――妻と息子と娘の三人――が、彼ひとりを残し、不慮の死を遂げたのだ。外国製の大型RV車両との車同士の衝突事故だった。
彼ひとりだけがとり残されたのには、理由がある。
三人が車で出かけて行ったあの日、和宏は休日出勤をしたのだ。ルート営業を生業とする彼は普段、土曜日は普通に休めることが多かった。けれどその日は、どうしても彼自身が処理しなければならないクライアントからの依頼案件があったのだ。
事故に巻き込まれた車両は、永浦の所有する普通乗用車ではなかった。車体が軽い、白の軽自動車。強度が普通乗用車に劣ることは否めない。それは、少し前から所有車のサスペンションがギシギシと不協和音を出すようになり、ようやく修理に出した際の代車だったのだ。
車を修理に出したのは妻の麻帆だった。
普段から自家用車のメンテナンスは夫の和宏の仕事だったが、忙しさにかまけ、修理に出すことを後回しにしてしまっていた。それに痺れを切らした麻帆が、近所の修理工場に持ちこんだという訳である。
そんな状況にあった家族の元に一本の電話があったのは、事故前日の夜の事。
由仁町にある麻帆の実家からの電話だった。明日、実家の家業である農作業の手伝いに家族皆で来てもらえないだろうか、という内容だった。
電話を受けた麻帆は、すぐさま「自分は行けるけど」と承諾した。そして、同行メンバーを募るべく、家電の受話器を耳に当てながら家族に向かってアピールする。
「由仁のおばあちゃんから電話なんだけどさ、私と一緒に明日、農作業のお手伝いできる人いる?」
夕食後の家族の団らん時間。
リビングで寛ぐ家族の中で、間髪入れずに「はい、はーい!」と元気よく手を挙げたのは、中学二年生の長女、絵美だった。
「私、行くよ!」
そう発言する彼女のDNAには、農家の祖父や祖母から受け継いだ土の記憶が刻まれていたのかもしれない。絵美は小さな頃から農家の仕事が好きだった。彼女の申し出の返事として微笑みを返した麻帆は、次にリビングでソファーに横になる残り二人の男性にターゲットを絞って声を掛けた。
「じゃあ、絵美は参加ね。他に行ける人はいないの?」
すると、仰向けの姿勢で野球漫画を読んでいた高校一年の長男、浩太が照れくさそうに言う。
「そうだな……明日は野球部も休みだし、俺も行こうかな」
「ホント? ありがとう、宏太。これで三人ね。パパは?」
視線の先をテレビから麻帆に移動させた和宏が、右手で拝むように麻帆に言う。
「御免……。明日、客先から依頼があって、どうしても休日出勤しなきゃならないんだ」
「そうなの。うん、わかった。じゃあ明日は、三人で手伝いに行ってくるね。遅くなりそうだし、パパは適当に夕飯を食べてもらってもいい?」
「ああ、勿論だよ。そうする」
左手から右手に持ち替えた受話器を自分の右耳に押し当て、麻帆は受話器に溌剌とした声を出した。
「聞いてた、母さん? 明日は、絵美と宏太と三人で行くからね!」
そんな、普段と特別に変わったところの無い会話があった、次の日。
水やりや草刈りなどの農作業を終えた後、一家は三世代で夕食を囲んだ。お腹いっぱいに御馳走になり、夜の九時過ぎに実家を出た三人は町外れの信号交差点で事故に遭った。
そしてそのまま、還らぬ人々となったのだ。
妻、永浦麻帆。専業主婦、享年四十一。
長男、永浦宏太。高校一年生、享年十五。
長女、永浦絵美。中学二年生、享年十三。
翌日、夕方になって警察署から自宅近くの葬儀場に移された遺体を前に、ごく近親者だけの通夜が行われた。
白壁の部屋に、真新しい三つの棺が整然と並べられている。
背中を百歳の老人のように丸め、瞬きも忘れて呆然とパイプ椅子に座る和宏の横で、彼の義父、高橋幸三は枯れ木の如く辛うじて立ちながら「昨日家を出たときは普段と何も変わらない様子だったのに」と涙を押し殺した。
その言葉が義母の美智子の感情の堰を切った。
美智子は「手伝いに来てくれなんて言うんじゃなかった……。全部、私のせいだ!」と声を張り上げ、椅子に突っ伏したのだ。
「お前のせいなんかじゃない」
幸三は、枯れ木に残った僅かな水分を絞り出すように呟いた。しかし、その言葉に相槌を打つものは部屋の中に誰もいない。
近親者の中で最後に駆けつけた和宏の両親も、棺を前に絶句したままだった。
不意に立ち上がった和宏が、息を飲んで棺桶の中を覗き込む。
あんなに元気だった妻や育ち盛りの息子と娘が、今や無言のまま横たわっている。体を覆い尽くさんばかりの包帯が、妻や息子そして娘に襲い掛かった昨晩の出来事を彼に想像させた。今もまだ現場に置き去りにされたままであろう、彼女たちの感情や思い、そして痛みまでも――。
警察から説明された事故の内容は、彼にとって俄かには信じ難い壮絶なものだった。
とても現実とは思えないのだ。
運転席の麻帆と右側後部座席にいた絵美は、右からぶつかって来た車に潰され、即死した。
一方、助手席にいた宏太は即死ではなかった。ぶつかった衝撃で車外に放り出され、路上に倒れているところを車に引っ掛けられたらしい。そのまま二百メートルほど引き摺られ、命を落とした。長男の血で造られた路上の赤い痕跡は、かなり蛇行していた。
事故を起こした相手は救急車を呼ぶこともなく、そのまま逃げ去ったという。
昨晩の事を想像すれば想像するほど、長き眠りに就いた三人の姿を直視できなくなる。
(こんなんじゃ、ゆっくりと眠ることもできないよな)
そう思った途端、三人の痛みや苦しみが空気を介して和宏の皮膚に伝搬した。強烈な痛みが彼の全身に走る。すぐに痛みは自身の胃へと移動した。胃壁が裏返しになったのかと思うほどのキリキリとした痛みが、呼吸できないほど彼の胸の辺りを苦しくさせた。
(でも皆が受けた痛みは、きっとこんなものじゃない――)
痛みを堪え、顔をしかめる。
しかし、妻や子供たちが味わった痛みや苦しみには到底及ばないことは明らかだ。そんなことすら家族と共感できない自分に、無力さを感じざるを得なかった。
時間や空間、人や空気の動きまで通夜の会場は停止してしまっている。
そんな中、未来への思考も止まった和宏の携帯電話が鳴った。警察からだった。
「はい……」
廊下にも出ず、そのまま通話を始めた和宏。だが、誰もそれを咎める者はいない。
相手の声には聞き覚えがあった。「捜査担当の高田です」と名乗り、警察署で彼に事故の状況説明をした中年の男性警察官だった。強面ながら、冷静な話し方をする男だった。
「葬儀の最中にすみません。先程、事故を起こしたと思われる男が警察に出頭してきましたので、ご連絡させていただいた次第です」
「出頭ですって?」
「ええ……。まあ、自首ということです」
「そう……ですか」
警察ではこういうときに抑揚を抑えるよう訓練しているのかと思うほど、相手の声は淡々とした響きを持っていた。本当にそんな訓練を受けているのかもしれない。
そのせいもあって、今の和宏には何も響かなかった。
兎に角にも今の彼にとっての現実は、目の前に置かれた三つの棺に詰め込まれた死――それだけなのだ。
「葬儀後に詳しいことを教えてくれませんか」
震える指で電話を切る和宏だった。