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 花束を両手で抱えた和宏が信号交差点へと向かう。

 交差点で一度立ち止まり、信号を確認してから反対側へと渡る。歩道の端に花束をひとつ置き、肺の中身まで出てきそうなほど大きな溜息を吐いた。そこには、萎れかけた花束がいくつもある。和宏が頻繁にやって来ては、置き続けてきたものだった。


麻帆(まほ)の好きなユリだよ。綺麗だろう? 絵美(えみ)も元気にしてたかい?」


 彼の呼びかけに答える者など誰もいない。

 その代わり、新しい花束の中の花が直射日光を浴び、しんなりと勢いをなくしていくことで、何かを和宏に訴えているように見えた。

 もう一つの花束を左の脇に抱えて目を瞑り、手を合わせる。

 祈りを終えた和宏が、更に東に向かって歩き出した。

 歩みを進める彼の目には、ただ風だけが映っていた。辺りを覆い尽くすように茂った緑の木々や夏の象徴のように蒼く透き通った空、そして畑の脇で可憐に咲く野花たちも彼の意識の中では輝きを失っている。


 交差点から百メートルほど行った場所――川幅数メートルの、ややもすれば側溝に見間違えてしまいそうなほど小さな川が暗渠状に道路と交差している場所――そこが彼の二つ目の目的地だった。

 立ち止まった彼が、そこで再びもうひとつの花束を道端に飾る。

 谷地形の川上から吹いてきた風が、花束をかさりと揺らした。


宏太(こうた)……怪我の具合はどうだ? また野球ができるようになったか?」


 すると先程より強い風が吹き抜け、花束のビニールフィルムを激しく揺らした。がさがさと大きな音が立ったが、それはすぐさま風の中に溶けて無くなった。

 あの日からもう、一年以上が経っているのだ。

 だが、彼がこの場所に来て発する言葉は今も何も変わらない。和宏の時間は、あの日からずっと止まったままなのだ。


「俺はこれから何の為に生きればいい……? 誰か教えてくれよ」


 それもこの場所で幾度となく繰り返されてきた言葉だった。

 唇を噛み締め、ぼんやりと景色を見遣ったそのときだった。和宏が目を見開いた。それは、ようやく彼の意識に風以外の要素が加わった瞬間だった。何度もこの場所に足を運んだにも拘らず、新たな発見をしたといってもいい。

 その発見とは、河川管理者の北海道庁が建てたらしい看板に記載された文字の並びだった。


『一級河川石狩川水系 ヤリキレナイ川』


 畳一枚ほどのサイズの白地看板に、それなりの大きさの文字で書かれている。


「これが一級河川だって? 本当に……? こんなに小さいのに」


 三メートルにも満たない川幅で、人間の踝の位置ほどの浅い水深。

 貧弱な川の斜面状の岸辺は旺盛に繁茂する雑草などの侵入を好きなだけ許していて、今にも緑の植物に川ごと埋め尽くされそうだった。そんな小河川には到底不釣り合いなほど立派な肩書きに、奇妙な笑いまで込み上げて来る。

 だがもっと興味を惹かれたのが、その川の名称だった。


「この川、ヤリキレナイなんていう変な名前の川だったんだね。全然気付かなかったよ」


 最近、あまり動かしていなかった頬の筋肉を使ったせいか、ぎこちない笑みが浮かぶ。 人間、見えているようで見えていないことが多いものだ――と、ようやく和宏は気付く。

 しかし今の彼にとって、もっと見えていない切実な問題があった。

 それは、最近になって加速度的に進んでいる老眼のことだった。パソコン画面や会議のレジュメ資料、世の中のそこかしこに溢れる細かい文字が、どうにもぼやけてしまって仕方がない。

 看板に書かれた大きな青文字の『ヤリキレナイ川』までは見える。

 だが、そのすぐ下に小さな黒文字で書かれた二行ほどの文章がどうにも判読できなかった。和宏は生い茂る雑草を革靴で踏み分け踏み分け、文字が読めるまで看板へと近づいて行った。


「アイヌ語河川名、ヤンケ・ナイ又はイヤル・キナイ。意味、魚の住まない川又は片割れの川――だって。へえ、そうだったんだ」


 北海道生まれの道産子で、四十五歳。

 そんな境遇の和宏が、川の名前がアイヌ語、という事実に今更ながら衝撃を受ける。

 北海道には全国的に見ても変わった地名が多く、それにはアイヌ語が絡んでいるらしい――とまでは聞いたことがあった。けれど札幌という街で生活するうえでは実感に乏しく、それほど関心もなく過ごしてきた。

 だがここは、彼にとって因縁の場所なのだ。

 (いや)が上にも、彼の心の中心に割り込んで来るものがあった。


「ヤリキレナイか……。今の俺の気持ちとおんなじだな」


 何故か感じた、不思議な親近感。

 そんな思いで浅い川面を眺めていた和宏の胸の辺りが、不意にぶるぶると震えた。スーツ上着の内ポケットに放り込まれた、スマートフォンが振動したのだ。

 すぐさまスマホを取り出し、画面を食い入るように見つめた。何かを期待している目だった。だが彼の目は急にその色を失った。彼の期待した、妻の麻帆からのショートメールではなかったのだ。


 勿論、頭では判っている。

 彼女からメールなど来ることはない。来る訳もない。

 だが、帰宅時間の確認や帰りのちょっとした買い物の依頼など、かつては妻と頻繁に交わしたショートメールなのだ。二度と来る筈のない麻帆からのメールを未だ期待してしまう自分に愕然とし、嫌気がさしてしまう。


 振動の正体は、学生時代の親友、有賀(ありが)優斗(ゆうと)からのメッセージだった。

 中身は見なくても何となく判る。

 明日が裁判員裁判の『公判前整理手続き』の日だからだ。

 当初は和宏もその言葉の意味が解らず、調べた経緯がある。その後、『裁判を迅速かつ適正に進行するための裁判の争点や証拠を整理する手続き』のことだと知った。


【明日は公判前整理手続きだよね。大変だと思うけど、家族のためにも頑張って】


 どこでそのことを知ったのか、大学を卒業以来、数回会った程度の東京在住の友からのメッセージにはそう書かれていた。

 基本、有賀は心根の優しい友人だ。

 でもそれが空回りして、無邪気に和宏を傷つけることが学生時代にも何回かあった。今回も家族を亡くした自分を心底心配し、励ましてくれていることは理解できた。

 が、今の彼にとってそのメッセージの文字面は、辛い言葉の並びでしかなかった。


(残念だけど遺族は関われないんだよ、その手続きに……。頑張りようがない)


 申し訳ないと思ったが、返信する気は起きなかった。

 スイッチを押してスマホの画面を消すと、黙ってそれを元の位置にしまい込んだ。

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