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地下鉄に揺られること約二十分、会社最寄り駅に到着する。
地面に体を押し付けられそうな強烈な陽射しが街を襲う中、道端に浮かぶ陽炎に同調するように体を揺らしながら五分ほど歩く。そこに、三階建てのこじんまりとした佇まいの自社ビルがあった。
一階の社員通用口の壁に、タイムカードがずらりと並ぶ。
もう何十年と、見慣れた風景だ。
自分の名前の書かれたカードを手に取った和宏は、経年劣化で全体的に黄ばみ感のある時計文字盤付き機械にそれを通した。ガチャリという二十世紀的機械音とともに、タイムカードに現在時刻が刻まれる。
黒の革靴から下駄箱に用意してあるサンダルに履き替えると、階段を三階までゆっくりと上ってゆく。
階段の先に現れたのは、営業部という黒文字が刻まれたプラカードの貼られた古びたドアだった。ドアノブを回して扉を開け、和宏が窓際の席に着く。普通ならすぐさま机上のノートパソコンの電源を入れるところであるが、彼はそうではなく、間髪入れずに「客先周りしてきます」と周囲の同僚に宣言した。
鉄板のように硬い意思を伴った彼の言葉は、さざ波のようになってフロア全体に伝搬した。そして、それはすぐさま営業部の面々の表情をどんよりと暗くした。どの顔にも「またいつものが始まった」という文字が書かれている。
部屋に充満した彼を押し潰さんとでもする尖った雰囲気に、和宏は抗わない。
やがてそれが諦めにも似た無音の叱責に代わるまで、無表情のまま、数秒間ほどじっと待つだけだ。
不満の波が収まったことを確認した和宏が、壁にぶら下がった社用車のライトバンの鍵を取ろうと入り口付近へと移動した。と、そんな和宏の背中に向かって声を掛けた者がいる。直属の上司で課長の、中村洋二だった。
和宏より三つほど年下で元々は後輩の立場だったが、今は上司という間柄だ。
「今日はどこを周るんですか、永浦さん?」
年下、ということもあって中村は和宏に敬語を使っている。
やや小太りな体から出る、ビブラート気味の太い声。その声の主の表情をじっと覗き込んだ和宏は、その目の中に怒気が含まれていないことを見て取ると、力無く答えた。
「……空知方面です」
「空知ですか……。うん、分かりました。いってらっしゃい」
「夕方に戻ります」
軽く頭を下げた和宏が、部屋を出る。
その直後、今まで横で二人の様子を見ていた若手社員が課長に食ってかかった。中村とは対照的なひょろりとした体型のその男は、海の岩場に貼り付くフジツボのように尖った口を中村へと向ける。
今年三十歳になる、鈴木岳という名の営業主任だった。
「課長、行かせていいんですか? 永浦さんにもそろそろしっかりしてもらわないと――」
「まあまあ。そう、口を尖らせるな、鈴木君」
「課長がいいなら、いいんですけどね……。でも、客先からのクレームとかフォローしなきゃならないこっちの身にもなって下さい」
「そのことは本当に済まないと思ってるよ。でも、あともう少しだけ大目に見てやってくれ。俺もできるだけフォローするから。しかし、外出前に客先からのメールくらいは確認して欲しいよな……」
「ええ、まったく困ったものです」
まだまだ不満を大いに残したままの鈴木だったが、仕方なく話を切り上げる。
耳をそばだて、男たちの会話を心配そうに聞いていた周りの女子社員たち。一様にその肩を竦めた後、ようやく今日の仕事に取り掛かったのだった。
※
白いライトバンに乗り込んだ永浦和宏が、最初に向かった先――それは、会社の近所にある小さな花屋だった。店の前に路上駐車し、忙しそうに店先に置かれた鉢植えの世話をする中年女性に向かって声を掛ける。
「すみません……花束を二つ、お願いします」
「あら、永浦さん! 花束ですね。いつもの感じでいいですか?」
「ええ、お願いします」
数分の後、慣れた手付きで花束を造ったその店員は、全体的に田舎の花畑のように可憐な印象の花束――カスミソウ多めでピンクのユリがメインの素朴な花束――を二つ、和宏に手渡した。
「本当は、永浦さんから御代なんか頂きたくないんですけどね……」
「いえ、とんでもないですよ。どうもありがとう」
一瞬、表情を曇らせた女性に和宏が作り物のような笑顔で答える。
胸ポケットから長年使い続けてくたびれた感じの革財布を取り出し、支払いを済ます。そして、ハザードランプが点滅し続ける社用車に駆け足で乗り込んだ。
花束を助手席にそっと置いて、運転再開。
暫くして国道十二号線へと入り、東へと向かう。
向かう先は勿論決まっている。彼にとっては行き慣れた、因縁の場所だ。目を瞑っていても大丈夫――とまではいかないが、カーナビなど不要だった。
やがて車は国道十二号線から国道二百七十四号線へと進み、さらに東進。町並みから高い建物が徐々に消えてゆき、札幌市の市町村界を越えて千歳川に架かる橋を過ぎた頃、Y字路を北に折れた。道道三号線だ。地域的には、長沼町となる。
刹那、彼の顔の筋肉が心なし引き締まった。
それも無理はない。この道路こそが、彼にとって因縁の場所の一部なのだから――。
当然ながら、その道が極端に狭いとかすごいカーブが多いとか、構造的に特異的な道路ということではない。北海道のどこにでもあるような、片道一車線のごく一般的な道路である。
やがて長沼町を過ぎ、車は由仁町へと入った。
暫く進み、信号交差点の手前でライトバンは減速を始める。信号の青を確認した和宏が、十字交差点を右にハンドルを切った。するとそこに、ちょうど車一台が収まるようなスペースが道脇にあった。
和宏はその場所に会社の営業車を停め、エンジンのスイッチを切った。
助手席の花束を抱えてドアを開け、外に出る。
「みんな……今日も来たぞ」
夏の暑く湿った風に、花束が揺れる。
花を包む透明なビニールフィルムが、カサカサと乾いた音を立てた。