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 それからの数日間、和宏は時間と空間をコピーしたのかと思えるくらい、日々同じ生活を送った。

 朝七時に目を覚まし、直ぐに机のパソコンに向かう。

 午前中に一杯、午後にコーヒーカップ一杯のインスタントコーヒーを喉の奥に流し込み、その中間に、備蓄品のカップラーメンを(すす)る。

 端的に言えば、起きてから寝るまでの間、生活のほとんどが自宅にあるパソコン画面に釘づけ、という状態だったのだ。


『ヤリキレナイ川の意味』


 そんなキーワードでネット検索をしてみれば、出るわ出るわ……。

『ナイ』が『川』という意味だということはすぐに解った。だが、どのサイトでもヤリキレナイの意味の核心部分はぼやけている。


(ヤンケ・ナイ――が、どうして『魚のいない川』って意味になる?)

(イヤル・キナイ――が、何故に『片割れの川』という意味になる?)

(二つ書いてあるけど、ヤンケナイ、イヤルキナイ、本当はどっち?)


 芽生えた探究心と湧き上がる疑問はどんどんと肥大化していった。

 しかし、ネット検索レベルではそれらはほとんど解消されなかった。

 調べていくうち、“ヤリキレナイ川”が過去にテレビなどで意外と多く紹介されていて、全国的にもそこそこ有名な川であることを知った。彼にとって、この川こそが名前の由来もあやふやなか細くて怪しい存在だったのに、ずっと北海道に住んでいながらそんなことも知らなかった自分自身の方が、よっぽど正体不明で嘘っぱちな存在のように思えてくる。


(これは、アイヌ語そのものから勉強しなければなるまい)


 そう思ったときだった。

 久しぶりに、部屋のインターホンの呼び出し音が鳴ったのである。ゆったりとした足取りでモニター画面を覗いてみると、そのカラー画面に映し出されたのは母親の雅代の顔だった。


「ちょっといいかい」


 声に含まれているのは、明らかに苛立ちの感情。

 黙って、和宏が一階共同玄関の鍵の解除ボタンを押す。すると一分後、玄関に入って靴を脱ぐなり、雅代は捲し立てた。


「アンタ、会社を辞めちまったんだって? どうやってこれから暮らしていくんだよ」


 和宏のことが気になり、会社に電話でも掛けたのだろう。

 本人から直接ではなく間接的にそれを知ったという事実に、雅代は怒りを覚えている。

 肩で風を切るように廊下を突っ切ると、雅代はリビングテーブルの椅子にそのまま腰を下ろした。そして、自分の向かいの席に着くよう、その目で和宏に促した。


「どうやってって……。一人しかいないんだし、どうにかなるよ」

「アンタ、そんなことじゃ麻帆さんたちに顔向けできないと思わないのかい?」


 今にも手が出そうな勢いで、頬を紅潮させて雅代が叫ぶ。

 その光景は、まるで四十年前にタイムスリップしたかのようだ。彼女の息子は、口をツンと尖らせたまま背中を丸め、俯き加減に言う。


「顔向けって……俺は何も悪いことはしていないよ。だからいつだって俺は、皆に顔向けできる。でもね、母さん。もういいんだよ、俺は。もう――いいんだ」

「もういいって、それはどういう……」


 雅代の肩から、みるみると力が抜けていく。

 そして、彼女の背中が猫のように丸まった。やはり二人は紛れもない親子らしい。今の二人の背中の丸まり具合は、鏡に映したようにそっくりだった。

 二人してテーブルの天板上の同じ一点を穴の開くほど眺め続けた、その後のことだった。母が、唐突な提案を行ったのだ。


「……それなら、ワタシと一緒に暮らさないかね」

「暮らすって、どこで?」「アンタの生まれた家でだよ」「この家はどうする?」「売ったらいいじゃないか」


 返事ができずにいる和宏が、額に手を当てたまま唸り続けた。

 その返事を待たずに、雅代が畳み掛ける。


「部屋も散らかり放題だしね……。こんなんじゃ、一人暮らしは無理だよ」


 それは大げさではなく、雅代の言ったとおりだった。

 カーテンが閉め切られ、何日も前から同じ空気の滞留する床の上には、プリンター出力後のA4コピー用紙がそこかしこに散らばっている。


「今、ヤリキレナイのことをパソコンで調べてるんだ」

「やり……きれ……ない? よく分からないけど、仕事もしないでパソコンばっかりやってるってのはどういうことなんだい? やりきれないのはワタシの方だよ!」

「ヤリキレナイってのは川の名前だよ、母さん。麻帆の生まれた由仁町の――」

「もういい、わかった。川の名前なんかワタシはどうでもいいんだ。それより、さっきの話はどうするんだい。一緒に暮らすのかい、暮らさないのかい?」


 物事をはっきりさせるのが好きな雅代が、来たときよりも更に苛立ちを募らせながら返事を迫る。逆に比較的おおらかな性格の和宏は、椅子に深く座り直すと、ゆっくりと言葉を噛み締めながら答える。


「すまない、母さん。俺はもう暫く、一人で生きていくよ。亡くなった麻帆や子どもたちの思い出が詰まった、この場所でね」


 彼女の表情からすれば、その返事は雅代の期待通りのものではなかったらしい。

 だが何故か、雅代の目に安堵の色が見える。

 生きるという彼の言葉に、ほっとしたのだろう。


「……そうかい、わかった。ここに住むことが亡くなった人たちのためだと思うなら、それもいい。だけど、気が変わったらすぐに言ってよな」

「うん……。ありがとう、母さん」


 この会話の後、雅代は用事があると言って慌ただしく帰って行った。

 そんなことがあった夜でも、ヤリキレナイに関する調べものは休まず続けた。そして深夜、日付が変わる頃のことだ。血走った目の目頭を指で押さえつつ、


「やっぱり専門書を読まなきゃ進まないな。明日、古本屋にでも行ってみよう」


 と呟いたのである。

 いよいよ和宏が、アイヌ語地名にのめり込むこととなったのだ。



 そんな夜も、必ず明けるものだ。

 ここ数日間、生えるに任せていた髭を時間をかけ丁寧に剃刀(かみそり)で剃った和宏は、目玉焼きひとつとコップ一杯の牛乳だけの簡単な朝御飯を済ませて外出した。


 久しぶりに触れた、外の空気。

 世の中はいつの間にやら、師走(しわす)に突入していた。

 クリスマス商戦真只中という慌ただしい雰囲気に溶け込むように、街は既に冬を迎えていた。

 冬ジャケットの厚い布地をものともせず地肌へと浸み込んでくる風の冷たさ、そして、やがて牙を剥き出しにするであろう冬の雪が、まだその実力をひた隠しにしているかのように小さくまとまって道端の日陰部分に()まっている状況が、和宏にそれを実感させる。


 『札幌堂(さっぽろどう)古書店(こしょてん)


 白い息を吐き出しつつ、小声で表看板の文字を読んでみる。

 小さな一軒家風の古書店入り口のサッシドアを横スライドし、店舗の中へと進む。


 そこは大きな煙突付き石油ストーブで温められた、部屋二つ分くらいの小さな空間だった。背の高い本棚が人ひとり分の狭い通路を作りながら所狭しと並べられており、それぞれの本棚には、数えきれないほどたくさんの本がぎゅうぎゅう詰めの状態で陳列されていた。

 大学生の頃に感じて以来の、少しかび臭いアカデミック的雰囲気に圧倒される。


 その雰囲気は、この店がかつて農学校だった総合大学の比較的傍にあるという位置関係に拠るものなのかもしれなかった。

 が、それよりも強い印象的だったのは、店を支配する不思議な時間の流れだった。どう考えても、この建物の中だけ、ある瞬間(とき)から時間がゆっくりと進んでいるとしか思えない。

 そんな奇妙なノスタルジーに浸っていると、店の奥から年配の女のしゃがれ声がした。


「いらっしゃい……」


 しゃがれ声の方向に向く。

 するとそこには、店の(あるじ)らしき小柄な老婆の姿があった。無造作に束ねられた白髪のほつれが目立つその老婆は、背筋をピンと伸ばして立っていた。


 「どうも……」


 とだけ言って、小さな会釈で挨拶を済ませた和宏は、カオス渦巻く書棚の世界に埋もれたアイヌ語地名関連の本を自力で探し出そうとした。が、数による暴力とでもいうべきか、眼球をぐいぐいと押してくるような妙な圧力に負けて、なかなか探せない。


「何か、お探しかね」


 そんな客には慣れっこらしい。

 いつの間にやら和宏の横に立った老婆が、少しはにかんだ笑顔でそう訊ねてきた。


「ああ……。えーっと、アイヌ語地名関係の本が欲しいんですが……」

「地名かい? それなら、あっちの本棚に並んでるよ」


 赤い薔薇の花が散りばめられた白っぽいワンピースに身を包んだ老婆が、その身長には不釣り合いなほど大きく右手を振りかざして、店の左手奥にある棚を指し示した。和宏は再び「どうも」と小声で答えると、そちらへ移動した。


「わあ……結構、あるんだな」


 店主の言うとおり、その棚には確かに地名関係の本がごっそりと並んでいた。

 が、兎にも角にも種類が多い。学術誌に地名解説にアイヌ語文法――地名研究者のエッセイ本まである。どれを参考にすべきかと途方に暮れていた和宏の傍に、再び店主がアドバイスをしようとやって来た。


「お客さん、アイヌ語地名をやっているのかい?」

「いえ、やってるというほどじゃなくて……興味があるってくらいです」

「そうかい。ならば、こんなのはどうかな」


 まごつく和宏の前で踏み台に乗った老婆は、百五十センチにも満たないその小さな体を目いっぱいに伸ばして、何冊かの本を和宏に手渡してくれた。


「アイヌ語の地名には、かつてその地に住んだアイヌが大切にしていた生活の知恵や教えが詰まってるんだ。だから本当に理解したければ、単純な文字面の意味ばかりじゃなく、アイヌの文化も学んだほうが良いと思うね」

「なるほど……確かにそうですね」


 改めて近くで見ると、彼女はまるで西洋の逸話に出てくる老婆のような風貌だった。

 そんな女性から出てきた重みのある言葉に、思わず感心してしまう。


 自分は地名の表面の部分しか見ていなかったかもしれないと、和宏が気付く。

 この島が北海道と呼ばれるずっと以前から、それぞれの土地や川辺にはそれぞれに生きた人間が住んでいた。そして彼等は、子孫や仲間に伝えるべき意味を込めた名前を土地や川に付けて、それらの名前を子孫に大切に伝承させた。

 特に文字を持たなかったアイヌにとって、その名前に込められた意味は現代の人間が考える以上に大きかったことだろうと容易に想像できる。


「まあ、こんなところだな。初心者にお勧めなのは」


 そう言って老店主が勧めてくれたのは、知里(ちり)真志保(ましほ)というアイヌ出身の言語学者が書いた「アイヌ語入門」という文庫本のほか、山田(やまだ)秀三(ひでぞう)という民間研究者が書いた「北海道の地名」という地名解説本に、アイヌ文化に関する基礎的な内容の書かれた本など、五冊だった。

 やや厚めの“アイヌ語辞典”もある。


「じゃあ、これ全部ください」

「ほう? 全部かね。そりゃ、どうも」


 店主はいつか雅代が見せたのと同じくらい深い皺を目尻に刻み、和宏に微笑んだ。

 代金を和宏から現金で受け取ると、幾つかの頑丈そうな紙袋に小分けして本を和宏に手渡した。


「失礼だけど、お客さん……迷ってるね。たくさんのことに」

「えっ……」


 全く予期していなかった店主の言葉に、思わず紙袋を落としそうなる。

 灰色がかった店主の二つの瞳が、じっと和宏の目を見据えていた。


「もしかして、お婆さん、俺の事を知ってるんですか?」

「いや、知らん。お客さん、有名人なの?」

「あ、いや、全然……。だったら、どうして?」

「そんなの、目を見りゃわかるよ。何年、あたしが生きてると思ってるのさ」


 老婆は、目を細めて笑いながら言葉を付け足した。


「まあ、ゆっくりやればいい。ゆっくりな」

「そうですね……ありがとうございます」


 ずっしりと重たい紙袋を両手にぶら提げ、店主に向かって深くお辞儀した。それに応えるように店主も軽く頷き、破顔した。


「では、また来ますね」

「ああ。そうすればいい」


 店外に出た和宏の頬を、恐ろしく冷たい風が無愛想に撫でてゆく。

 けれども何故か和宏の気持ちは軽く、そして温かった。

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