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 地裁ではあったが、判決というひとつの区切りがついたのだ。

 ともなれば、和宏は会社というひとつの社会組織に本格的に復帰せなばならないのではあるが、数日前に検察から葛沢が控訴したとの連絡を受けてから、和宏はあらゆる面で“やる気”を失っていた。

 判決を聞き、我が事のように喜んでくれた会社の同僚たちも、以前より更に労働意欲を失った彼に対し、見る目が日に日に厳しくなった。

 勿論そんな社内の雰囲気については、和宏にも肌の感覚として充分に分かっている。

 だがそれでも、彼の体の芯の部分――言い替えれば、骨や肉でない柔らかい精神の部分が、どうしても動こうとしないのだ。


 そんな状態の彼の足が向く先は、やはり、ヤリキレナイ川だった。

 事件現場の傍を流れる、たった数メートルの幅の一級河川。そこに会社のライトバンで乗り付け、川の畔で日がな一日を過ごしてしまう。冬の訪れも近いその川岸では、夏にはあれほど繁茂していた雑草も色を失い、地面にしんなりと横たわっている。


(俺は人生に飽きてしまったのだろうか)


 帰りの車中、気も(そぞ)ろに運転する彼の脳裏に浮かぶのは、無表情で被告席に座る葛沢被告の横顔ばかりだ。


(過去ばかりが気になって、ちっとも前に進めてない――)


 このまま何処かに逃げてしまいたいのは山々だった。

 だがその気持ちを必死に(こら)えてようやく辿り着いた、会社事務所。そこでは、上司である中村が彼を待ち構えていた。

 いつもの柔和な笑顔が、水捌けのよい砂地に撒いた水のように何処かへと消え去っていた。今日ばかりは、理解のある後輩で上司――の顔を捨て、厳しさが優先した(まなこ)で和宏を見据えている。


「すみません、永浦さん。ちょっと話があります」


 中村が指差したのは、奥の方にある小会議室の扉だった。


「何でしょうか、課長」


 窓も無く長机が二つしかない小さな部屋で、和宏は入り口に近い方の長机を挟んで中村と向き合った。

 しかし、中村に怒気そのものは感じられない。

 内心、ほっとしたのも束の間、中村が咽喉を蓋していた栓を取り外すような大きな咳払いをし、場が一気に緊張する。ふっくらとした顔の輪郭に窮屈に収まった縁なし眼鏡を外した中村が、皺の寄ったハンカチでレンズを拭き拭き、口を開いた。


「実はですね……というか、もうご自身でもお気づきだとは思うのですが、課内からあなたの勤務態度についての不満がかなりあるんです。正直、私も困ってまして」

「ああ……そのことですか」

「ええ。簡単に言いますと、前にも増して最近の永浦さんは全然仕事に身が入っていない、という苦情と申しますかね――」

「すみません、課長。自分でも分かってるんです。分かってるんですが――」


 神妙に頭を掻く和宏の言葉を、中村が強い口調で遮った。


「申し訳ありませんが、永浦さん、もう抑えるのが限界なんですよ。特に鈴木主任……以前はあれほどあなたを慕っていた彼が、今では口を開けばあなたへの不満ばかりです。きっと、あなたを尊敬していた分、その反動が大きいのでしょう」


 眼鏡を元に戻した中村が、同意を求めるように和宏の目をじっと見た。


「さて……どうなんでしょうね」


 和宏は曖昧に返事した。他に返答のしようがない。


「一審とはいえ、もう裁判は終わったんでしょう? こう言っては何ですが、私もそれなりの区切りがつくまではと、辛抱強く待ち続けたつもりです。でも、一向に永浦さんの仕事に対する姿勢が前向きになる気配がない……。

 亡くなった家族の皆さんのためにも、そろそろ元の永浦さんに戻ることはできないのですか? 大きな事故でしたし、気持ちを戻すのが大変なのは分かりますが……」

「はあ」


 再び曖昧な返事をした和宏。

 内心では「あれは事件だ」と言い返したかったが、それを口にできる雰囲気ではない。

 代わりに強く出たのは中村だった。その目には、明らかにこれでも曖昧な態度を取り続ける和宏に対するイラつきがあった。


「本当のこと言いますとね――不満があるのは課内だけじゃないんです。『上』からも強く言われてるんですよ。客先から苦情が出ているようだが最近の永浦はどうなっているんだ、って感じでね。上も下も(なだ)めなきゃならない、私の身にもなってくださいよ」

「それは申し訳ありませんでした、課長」


 本心からの言葉ではなかった。

 今の彼に、課長に身になって考える余裕などない。

 彼の心を占めていたのは、先程の中村の言葉に対する別の感情だった。亡くなった家族のためとか、大変なことは分かるとか――和宏に言わせれば、都合よく上っ面を塗り飾っただけの薄っぺらい言葉だった。

 思わず反吐(へど)が出そうになる。


(あんたに……あんたに、俺の何が分かるというんだ。裁判に勝ったところで誰ひとりとして還っては来ないんだ)


 一方で、中村の言葉には自分を罵倒しようとする悪気もないことは理解できた。どちらかと言えば、親切心なのだろう。

 結局のところ、人間なんて実際に自分がその立場になってみなければ本当のところは理解できない原始的なイキモノなのだ。勿論、想像すること、それ自体には意味がある。だが、人間の想像力など高が知れている。

 そのことが、彼を一層辛い気持ちにさせていた。

 もやもやと襲い掛かる思いを奥歯で噛み潰した和宏は、地面で(うごめ)く虫のように口をもぞもぞと動かした。


「これからは気を付けます」

「そうですか。ならば、兎に角頼みます。もうこれ以上、庇えそうもありませんから」


 中村はそう言って立ち上がると、逃げるようにして会議室から出て行った。

 ひとり残された和宏は、深呼吸してから部屋の電気を消して退出した。途端、彼の体全体に同僚たちの視線が突き刺さるのを感じた。特に鈴木主任からの視線は、和宏の存在意義を脅かすほどの破壊的威力があった。


「……体調が悪いので、今日はこれで上がらせていただきます」


 視線の渦から逃れることを選択したのだ。



 だが結局、その翌日も和宏の姿はヤリキレナイの川辺にあった。

 水の上に浮いているようなふわふわとした足取りで、以前見つけた、川の名前と由来の書かれた看板の前に立つ。


『一級河川 石狩川水系 ヤリキレナイ川

 アイヌ語河川名:ヤンケ・ナイ又はイヤル・キナイ

 意味:魚の住まない川又は片割れの川』


 川の名前がアイヌ語由来であるということに、改めて軽い衝撃を憶える。しかし、よく考えてみれば、日本語訳が意味不明だ。

(魚が住まない? 片割れ? 一体、どういうことなんだよ)

 和宏の内側に、無知の知に近い何かが拡がった。

(今、俺がやるべきことは、この川の名前の意味を詳しく調べることなのかも知れない)

 何故かそう思った、和宏。

 探求心とはいつの時代も人を動かす力なのか。彼の体全体から、活力のようものが噴き出した。


 翌朝。

 出社していきなり、和宏は中村課長に退職願を提出した。実の母にも義理の父にも相談せず、自分だけで決断したのだ。

 和宏から差し出された茶封筒を見て、中村が一瞬たじろぐ。

 が、素直に彼はそれを受け取った。すると話は、とんとん拍子に進んでいった。昼過ぎには役員達にも了承され、勤続二十年以上の彼の退社がすんなりと決まったのだ。

 引継ぎの話は、一切なかった。


「急なことで申し訳ありませんが、今月末をもちまして退社させていただくこととなりました。有休の消化もありまして、今日で皆さんとはお別れです。今まで、本当にお世話になりました」


 それが、営業部で行った、彼の同僚への別れの挨拶だった。

 セレモニーはたったそれだけだった。ぱらぱらと起こる乾いた拍手。抑揚のない「お疲れ様でした」という労いの言葉。

 だがそんな中、たった一人だけ、彼を見つめる目に悲しみの感情を湛えた者がいた。営業主任の鈴木だ。


(すまん、鈴木。結局俺は、お前を裏切ったのだ。お前だけが俺を心配してくれたのに)


 悔しそうに唇を噛む鈴木に、頭を下げた。

 鈴木は、小さく首を横に振っただけだった。

 中村が、直属の上司として差し障りのない言葉で和宏を送った。そのほっとした表情に込められたものは、社内で板挟みになった彼の切実な思いだったのだろう。


 和宏は無職になった。

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