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地球の終わりも近い――。
そう思わせるほどに、年々厳しくなる夏の暑さ。
「真夏でも風は涼しいから北海道にエアコンなんて必要ないね」なんて会話が、札幌の街のそこかしこで聞こえていた頃は、遠い昔だ。かつて夏の盛りでも窓全開で街を走っていた自動車は余程のマニアではない限りクーラー付きのものに替わり、ヒッチハイカーなんてもってのほかとでも言いたげに、窓をがっちり閉ざして走っている。
空気の質もがらりと変わった。
からりとして爽快な夏など何処へやら、住宅の裏ではエアコンの室外機が昼カラオケに勤しむ女たちのように湿気の籠る中で唸り続け、隣家の壁に向けて夥しい熱量を伴った空気を朝から晩まで放ち続けている。
そんな灼熱化した札幌の夏に抗う男が、一人。
どう見ても、夏が来たことに気付かない振りをしているとしか思えない。室温二十八度に設定された会社で、袖を捲るでもなく長袖のワイシャツを平然と着続けている。おまけに会社から支給された紺色の作業着まで重ね着しているのだ。
もしかしたら本当に夏の到来に気付いていないのかもね――そんな疑いまで、周りの同僚に起こさせてしまっている。
名前は永浦和宏といった。
札幌の東部、白石区に居を構える食品卸会社「道央食品」の営業部営業課の課長補佐。市内の文系大学を卒業してすぐにその会社に就職した彼は、以来二十数年間、この会社の営業を生業として生きてきた。今年、四十五歳になる。
ならばその会社の様子は、会社に忠実な彼が暑さなど気にせず黙々と仕事に精を出しているせいなんだろう――などと考えるのが普通だ。けれど、どう見てもそれとは違っていた。百七十センチそこそこの上背で中肉中背、顔は決して二枚目ではないがそれほど醜男とも言えず、日本人の中年男性としてごくごく平均的な彼がそう思われてしまう問題は、その身形にあった。
何日着続けているのか判らないほど襟首の汚れたワイシャツに、重力にほど好く逆らってくにゃりと曲がりながら首からぶら下がるネクタイ。そして、センターの折り目など随分前に跡形も無く消え去ったらしい灰色のスラックスには縦横無尽に皺が寄っている。顔にはじゃりじゃりと硬そうな無精髭が疎らに生い茂り、いつ床屋に行ったのか判らないほどぼさぼさに伸びた髪の毛が印象的だ。
だが、何より彼を特徴付けていたのは、その目の虚ろさだった。
まるで、自分の意思では動くことのできないブリキの玩具のよう。朝、誰かに背中のネジを巻かれ、仕方なく会社に出ているといった風に見える。
(壊れたのは温度センサーじゃなくて、感情のセンサー?)
そう考える会社の同僚がいたとしても、決して不思議なことではない。
それにしても今年の夏は暑過ぎる。
幾ら温暖化って言ったってお盆を過ぎればちょっとは涼しくなるよ、北海道だし――という巷の人々の期待をあっさりと裏切った夏の後半戦、八月二十五日の朝。
窓際に置かれたダブルベッドの真ん中で、もうすぐ生まれる胎内の赤ちゃんのように小さくなって睡眠を続ける永浦和宏がいた。
目の周りの窪みもくっきりと目立つ、中年男の疲労顔。それを、窓に懸かる薄手のカーテン越しに朝から強烈な陽射しが照らしだしている。そんな折、購入して軽く二十年は経つであろうプラスチック製の黒いアナログの目覚し時計が、鐘を叩くような前世紀的音色で朝の七時を告げたのである。
深い溜息を洩らし、まだ開けきらない目で確認した目覚しのボタンを押す。
「もう……朝なんて来なければいいのに」
築七年と、比較的新しい分譲マンションの五階にある一室。
妻と子ども二人――かつては家族が存在した彼が、妻と相談し、三十五年という長期ローンで購入した新築マンションだ。まさに、四人家族の未来と夢の象徴だった。
ミミズのように這いつくばるような動きでもぞもぞとベッドから抜け出した彼は、青いパジャマ着のまま、一人暮らしには無駄に広い十畳ほどのリビングへと移動した。上から二つ目のボタンが取れたパジャマは歩くたびに胸が開けっ広げになり、その隙間から血色の悪い肌がちらついている。
そんな服装でも彼を咎める人など、誰もいない。
そのことが、今の彼にとって一番辛いことだった。
リビングへと移動したものの、彼に朝の食事を摂る気など更々なかった。
ソファー前に鎮座する硝子のローテーブルに置かれたリモコンを手に取った彼は、すぐさま五十インチの液晶テレビの電源を入れた。溢れ出る雑音の中、プログラミングされたような機械的な動きでインスタント珈琲をマグカップに溶かすと、ソファーに腰を下ろした。程好く冷めた珈琲をちびちびと喉に押しやりながら、暫くの間、テレビ画面に見入る。
それが、ここ数ヶ月間の朝の時間帯に、繰り返されてきた彼の動きだった。
テレビの映像は僅かに和宏の網膜を刺激するだけで、彼の意識にまでは刺激を与えない。
彼にとってみれば、そこに映るものは時間さえ稼げるなら何でも良かったのだ。
やがて珈琲を飲み干した和宏は、ソファーから思い腰を上げ、洗面所に向かった。
洗面所の棚には、幾つものコップと何本もの歯ブラシが並んでいる。ある日突然に主を失い、どうしたらよいか分からずに立ち竦んだままの歯ブラシたち。
線をなぞる感じでざっくりと髭を剃った彼は、今度は毛先のだいぶくたびれた歯ブラシで口内を雑に突っつくようにして歯を磨いた。
あっという間に、洗面所の用事が終わる。
薄汚れたタオルで顔を拭いた彼は、重い足取りで再びリビングへと移動した。
部屋のそこかしこに散らばった、ワイシャツやスーツにネクタイ。昨日、彼が会社で身に着けていたものだった。それらを順番に拾い集めた彼は躊躇いもなく身に纏うと、鏡を一度も見ることなしに玄関へと進んだ。
最寄駅の階段を降り、地下空間へと潜る。
地下鉄車両が、抜け殻同然の彼の体を運んでゆく。
――どんなに新しく立派な車体でも、魂までは運べない。
和宏の大して広くもない背中は、そう語っていた。