3 minutes ~三分間~
交渉は難航している。
アイアンウィル側からしてみると意図はこの交渉自体ではないので、難航してくれることはむしろ好都合なのだが、ジレンマの只中に突き落とされている本来のシャドウイージスの意思にとっては、その一秒一秒が地獄であった。
指に歯を立て根元から噛み千切れば正気に戻るならそうしたい。胃の腑に穴を開けて内臓をすべて引きずり出せば正気に戻るのならそうしたい……!
静かな無念が、交渉の水面下……深遠で煙っている。誰も知らない。誰も気づかない中で、一人の男が胸を引きむしられるような苦しみの中にいる。いや……
誰も気づいていない……わけではなかった。
「首領」
紛糾している交渉に割って入る声。他の二人の視線がそちらに移れば、声を発した女はポツリ……呟いた。
「……死んで」
「まて!!!」
刹那にいろいろなことが起きる。
まずクローラが跳んだ。ついでそれを諌めるディザスターが叫び、彼女を追って飛び出したが神官までの距離が彼女の方がはるかに近い。独楽のように回転力を加えて跳ぶ彼女の腰から繰り出される蹴りの一撃が、己の首領の頭部を狙う。それはさながらゴルフのスイングのようで、一瞬にして首元をさらっていったように見えた。
しかし実際は、到達の直前で神官の両腕が一撃を防ぎ、勢いに負けて数回転しながら吹っ飛んで、そのまま器用に受身を取って立ち上がった。鈍重そうなその容姿からは思いもよらない体術である。
理由は分からない。
しかし、彼女には聞こえた。シャドウイージスの深遠の呻きが、生みの親の苦しみが、あるところから耳朶に流れ込んできていた。
ディザスターがどのような事態にも対応できるよう模索していた頃、彼女の奥底も揺れていた。どうすべきなのか……と。
状況は飲み込めた。やはり、首領は己の意思ではない何かに冒されている。では、自分はどうするべきなのか。
……セキュリティエージェントとして、自分はどうあるべきなのか。
首領に牙を向けることなど本来あってはならないことだ。そもそもAIエージェントデーターが死ねば自分も生きていくことはできない。
しかしエージェントとして、この世界を護るものとして生きて死ぬにはどうしたらいいか。……この場合、彼を殺すことが、世界を、そして主君を護ることではないか。
(自分はエージェントとして死ぬ。何かを護って、死ぬの……)
彼女はディザスターほど激しくはないが、まるで地殻変動であるかのように静かな……静かな葛藤の中で、そういう結論に達していた。
しかし、クローラは追撃に入る直前で、腕を一人の男に掴まれる。
「待てクローラ! 殺しちゃなんねぇ!」
……そう叫びたかっただろう。しかし彼が口を開いた時には、クローラの拳はその口を貫こうとしていた。
寸ででかわすディザスター。クローラはなおも止まらず、繋がった腕をそのままに、数個の打撃で彼を襲う。その外輪からシャドウイージスの声がした。
「クローラ。血迷いましたか!」
それで一度、クローラは動きを止める。ふっと神官の方へ顔を向け、
「あなたの中のあなたが呼んでいるの。殺してほしいって。だから死んで」
彼女は合気の技でディザスターの手を外すと再び加速した。一撃、二撃、三撃、立て続けに拳と蹴りを加え、距離をとろうとする相手に、流れる手つきでホルスターから抜いた銃を乱射。数メートル級の跳躍をして避けた神官に向け、さらに距離を詰めるために跳ぶ。
驚くべきはその速さもそうだが、その速さに対応している神官の方だ。
彼はその一切を退けると、不用意に近づいた彼女に対して、胸にかかった十字架を投げつけた。それが触れるなり、光速で接近していた彼女の身体が急遽同じ速度で逆に飛び、床に突き刺さって地面を割り崩す。
「へぇ……」
感心しているのはディザスターだ。不敵に笑っている。
「強えんじゃねぇか……」
手をスプリングにして立ち上がるクローラ。ものすごい勢いだったが、受身を取ったかダメージはさほどではないらしい。
「おかしいな……戦えるAIエージェントってのはムサシが初だった気がしましたがね」
「我もエージェントの端くれですから、己を護る術くらいは身につけています」
「見上げた精神だ。うちの所長にも言い聞かせておきますよ」
軽言を並べ、しかしそんな事実があるわけがないことを、彼は知っていた。
東洋の島国が"ムサシ"という、自らの防衛を自らの手で行えるセキュリティシステムを発表した時、世界のインターネットセキュリティ業界は一様に舌を巻いた。
AIエージェントデーターというのは女王アリのようなものなのだ。知能に長けて数々のエージェントを生み出すことはできても、自ら矢面に立つことができないのはいわば常識であった。
一番老舗のアイアンウィルももちろんだが、すぐ背中を追ったシャドウイージスもそうであるはずで、一瞬でも戦闘用のデーターであるクローラに先んじることがあるわけがない。
どういうことか……。
……答えを知る少年が、まさにその時、部屋に飛び込んできた。
「サスケさぁん!!! 三分、僕を護ってくださいぃ!!!」
「できそうか!?」
「やってみますけどぉ!! ヒドい状態ですぅぅ!!!」
ランマルの表情に余裕はない。"初期化"というが、どういう状態が"初期"なのかが見当もつかない荒れようであり、これで本人が気付いていなかったとすれば相当長い時間をかけて"分からないように破壊されていた"ことになる。
「ランマル……!」
シャドウイージスの眉間が険しさを増した。なにをしに来たのか聞くまでもない。"自分"にとって、もっとも恐るべき存在であった。
「サスケさん!! その人はいつでも圧縮ファイルを自動でインストールして新たな力を得られる状態にあります! 能力はファイルの内容次第ですが、ひょっとしたらサスケさんより強くなっちゃうかもですぅぅぅ!!」
ぎゃあぎゃあと喚くその口を塞ぐかのような火の玉が、ランマルの頭上に突如現れ落ちた。彼は必死の悲鳴を上げたが、その身体は炎に包まれる前にディザスターにさらわれている。
神官の目がそれを追いかけた。彼の前後左右に先ほどよりもさらに大きな力が生まれ、ディザスターを覗う。
が、その動きが、突如別の力にさえぎられた。
「かっ……」
原因は知っている。視界の端に、三つ編の女が映った。
間髪いれずに飛び込んでくるクローラ。容赦のない蹴りの一撃がシャドウイージスを襲う。
が、動かないはずの神官はそのあからさまな一撃の力のベクトルを利用し、手を引っ掛けるとクローラを投げ飛ばした。
十数メートルも飛ぶ彼女が地面を跳ねて立ち上がる。声が、それを追いかけた。
「曲がりなりにもあなたの親です。"それ"は、すでに対策済みですよ」
「そう」
別段ショックを受けた様子もないクローラに、更なる声がかかった。
「クローラ。あなたは失いたくなかったのですが、今は邪魔をしてほしくない」
シャドウイージスが片手で中空のキーボードを叩く。……ペティルを屠った、エージェント消去の命令であった。
叩かれるEnterキー。クローラは、その意味を知った。




