Black Demon ~黒い悪魔~
その男は、あと〇、八秒後に死ぬ。
正確には〇、七九二秒後。
死んだ。まるで雑音に溶かされるように消えていった。
その迎撃システムをかいくぐった女が、巨大なパイプのようになっている通路をさらに走る。
彼女の目の前を寸断するシャッター。ギロチンのような鉄扉に躊躇もせず飛び込んだボディスーツの女は、寸でのところで足を抜き転がると、息をつく間もなく走り出す。胸の銃弾ポケットから炸薬を取り出して後ろに投げつければ、先ほど彼女を殺しかけたシャッターが轟音と共に崩れ傾いた。
途端、その隙間からまるで決壊したダムから濁流が流れ出すように、彼女と同じようなボディスーツに身を包んだ男女が一気になだれ込んだ。
この日、殺されたデーターの数は五十万人に及んだ。
データーとはこの世界に生きる住民の種別をいう。つまり、実世界で言うところの"人間"という言葉が"データー"という言葉に置き換わっている。姿かたちは人間と同等だが、人間は彼らの存在を知らない。
データーたちは今や地球のあらゆるところに住み、まるで太古に精霊たちが人間たちの周りを飛び回っていた頃のように、姿は見えずとも寄り添っている。
この日、それが五十万人殺された。先ほどの女が到達した基地で無差別に放たれた銃弾に、彼らは抵抗する術を知らなかった。
彼らデーターに血液はない。血も飛び散ることのない大殺戮が、光の速さで行われたのである。
彼女は限りなく速く、あらゆる攻撃に対して優秀で、しかも容赦がない。
動機も分からなければ、背後関係も分からない。
世界をひたすらに駆け、到達した基地に生きるデーターたちを片っ端から殺している。
傘の通用しないスコールのようなもので、皆、一たび対峙すれば、濡れるに任せて殺されるしかなかった。
彼女の名を、クローラという。
世界は今、彼女の侵入を如何に阻止してデーターたちを護るかが急務とされている。
「来たぞ!!」
迎撃する試みも繰り返されてはいる。
データーたちは各自マシンガンを持ち、悲鳴に似た発見の報と共に、一斉に銃口をまだ見ぬ彼女の方へ向けた。土塁を積み上げ、簡単に突破されないよう、固い防備を作り上げての迎撃。
……しかしボディスーツの女は、まさしく電光石火だ。一瞬、はるか向こうに黒い点が見えた次の刹那、
「え……?」
首に冷たい感触が走った。振り返れば、金髪を三つ編にした女の、冷たく据わった瞳が男を映している。
「うわぁぁぁぁ!!!」
今ので何かを埋め込まれたらしい。じわりと首元が濡れた感覚とともに、男はまるで木が枯れ逝く姿を早送りされたかのように、急激にしぼんで消えた。
その頃にはすでに土塁周辺は大々的に侵され、マシンガンを持つデーターたちは、その一切が消え去っている。
前線は、文字通り一瞬で崩壊し、彼女はすでにさらに奥へと破壊の種を撒きに移動を開始していた。
しかしその先……基地(人間の言葉で言えばサーバーであるが、彼らはそう呼んでいる)を数十メートル手前にして、彼女は何かに弾かれた。
まるで突風に煽られた空き缶のように音を立てて転がった後、女は腕をバネのようにし、勢いで立ち上がった。進路上に何かいる。
「どうも」
紫色の髪を逆立て、縁のないスクエア形のメガネをした男が、ほんの数センチ浮いたまま、すらりと立って紳士的な会釈をする。
「エージェント……」
抑揚のない音で、そう発音するクローラ。ホストのような派手目のスーツに身を包んだ男は不敵に笑い、「ま、そうとも言われる」と含む。
「賞金首クローラ。ちょっと遊んでちょうだいな」
言葉と共に右手首をぱっと払うと、彼の正面の風景が爪で引っかかれた紙のように、三本の線となって斬り裂かれた。その風景の一つとなっている女を狙ったものだが、すでに彼女の姿はそこにはない。
ただ、男の目は反応していた。
左腰のホルスターから抜いたリボルバー式の拳銃を、あらぬ場所へと向け発砲する。
クローラの頬をかすめる銃弾。しかし彼女は表情一つ変えずにパイプ上に伸びる通路の壁を蹴って、角度のついたメガネをかけた男に肉薄する。反射的に跳躍した彼は、からくも彼女に首を掻き斬られずに済んだ。
そのまま、十メートルほど先へ男は降り立つ。
(やれる)
言葉にはしなかったが、今の一連の動きで彼は悟ったらしい。首だけ振り向いた目元は確信に満ちていた。
クローラは確かに速いが、追えない程ではない。彼は所属エージェントの中では最速の男だ。
しかし、身体ごと向き直ろうとした男は凍りついた。
(か……)
必死にきびすを返そうとする足が、まるで自分のものではなくなったように動かない。
声すら……でない。
顔だけは振り向いている。動かぬ瞳に、クローラの影が大きくなっていく様が見え、男は次第に自分の置かれている窮地に気付き始めた。
(ま……まて……!!)
先ほどのように空間を斬り裂こうともがくが、まるで全身を蝋で固められてしまったかのようだ。ゆっくりと近づいてくる女の無表情に、男は戦慄した。
(クソォォォォォォォォォ!!!!)
必死の形相からも、わずかなうめき声しか発せない。呼吸が聞こえるほどの距離に至った金髪の女は、思う以上に長身で、艶やかな目元を持っている。
ボディラインのはっきりとした服装に身を包んだ彼女の姿は非の打ち所のない芸術のようであったが、彼にとっては、そのような妖女が、死神となった。
この男……クローラの対抗手として送り込まれたこのエージェントに名前はなかったが、戦闘記録を元に新たな対抗策を練るために、便宜上ダムロアという名がつけられた。『damn roar(クソッと吼えて死んだ男)』という、なんとも不名誉な名だ。
しかしたとえ死後でも名がついただけ、他のデーターよりも特別だった。
そして、特記する点としては、この戦いを見ていた者は誰もいないのに、しかも「クソッ!!」という言葉は声にもならなかったのに、そのすべての記録が集計されていることだろうか。
彼らエージェントデーターの情報の戦闘時の一切は、集計されている。その情報を元に、新たな対策を講じる基地がこの世界には存在した。
通称"セキュリティベース"と言われ、いわば基地ぐるみで、世界の警護を請け負っている領域である。
昔こそ、人間がそれらを管理していたが、昨今のAIの進化は目覚しく、まだまだ過渡期とはいえ、人工知能が自ら判断して、警護や駆除に必要なデーターを作成し、電脳世界の秩序を護る役割を果たす時代となっている。
舞台となっているのは世界三大セキュリティベースと呼ばれる領域の一つ。通称"背水の陣"と呼ばれる基地で、アイアンウィルというAIエージェントが統括している領域である。
ここにも彼が自動作成したたくさんのデーターたちが住んでいるわけだが、彼らは食事も排泄も行わないので、その場所にいわゆる人間的な生活感はまったくない。家具一つない巨大な空洞の中に、この基地に住むデーターたちが必要とする数だけ部屋がある。イメージとしては、人間の住居を思い浮かべるよりもアリの巣を思い浮かべてもらうと近いかもしれない。
その"アリの巣"の一室で、ダムロアからの情報を受け取った男が、難しい表情を浮かべて立っている。
クローラの実力を元に、ダムロアは選抜された。敗れるにしても、こんな短時間であるはずがないのに。……葉巻をくわえ、湿り気を帯びた芳香と紫煙を纏いながら、このマフィアの頭取のような雰囲気の男は呟いた。
「何が違う」
この男こそ、セキュリティベース"背水の陣"の首領アイアンウィルである。容姿的には五十の年齢に差しかかろうか。
「速度には対応できていたはずだ」
「速度以外の部分があるということでしょう」
もう一人、浅黒い肌を持つ男が答えた。容姿的にはゆったりとしたサルエルパンツを足首のところでしぼっている、裸にチョッキ姿の青年だ。
「わかってる」
葉巻の男は苛立ちを隠せない。
アイアンウィルは、クローラのような危険分子を駆除するために作成された特殊なデーターだ。己で分析し、最善手を見い出して自動で行動することが期待されている男であるわけだから、"駆除できない"という状況は、無能の烙印を押されるに等しい。
不可解なのは、ダムロアの動作を、触れられてもいないのに完全に止められてしまったこと。これがわからない。
ダムロアの血液ともいえる内部数値の一つが異常値を示し、例えば赤血球を破壊された人間が貧血状態に陥るような、機能不全を起こしたことはわかる。しかし、そういう変動を、触れられてもいないに強制されるという現象は今までのどのような戦闘記録にもなく、もう少し情報を集めないことにはどうにもならない。
「人海戦術でいくっきゃないでしょう」
重苦しく思考をめぐらせている首領に比べ、青年は軽快だ。
「どうせ死んでもまた造りゃいいんだ。迷ってる暇があったら動いた方が早いってもんでしょう?」
「……」
しかし、そんな単純な理論が、この男には響かない。
すでにクローラの被害が大きく出始めている上、あの五十万人が殺された基地は、彼の管轄するユーザーの基地なのだ。実世界では信用問題に発展しているはずで、そうそう何度も失敗を繰り返すわけにはいかなかった。
「俺が指揮をするんで、兵隊を貸してくださいよ。一発で勝負を決めてやります」
「いかん」
アイアンウィルは、彼の向こう気の強さに対して咳払いをした。
今目の前で息巻いている青年は、ダムロアに並ぶトップエージェントなのだ。実力は折り紙つきで、クローラの情報が充分に揃っていない間に出動させ、彼を無駄に損耗するわけにはいかなかった。
「貴様にも必ず出動のチャンスを与える。命令が下るまで待て」
「そう言うと思いましたよ」
……のちに、サスケという名のつく男はこの時、エサを前にして鎖で繋がれているトラのような表情で言葉を吐き捨てた。
この首領の煮え切らない部分を、彼はよく知っている。