元異世界ニートは登校する
「…暑い…」
その日の目覚めは最悪と言えた。
夏の生命維持装置であるクーラーの故障という天の悪意としか思えない現象によってもたらされたのは、暴力的すぎる朝日が差し込む部屋、汗と張り付く寝巻きの不快感、そして耐え難い喉の渇きであった。
「み、水…」
一歩間違えれば確実に昇天していた。
齢17にして脱水死なんてあんまりだ。
おぼつかない意識と足取りで部屋を出て、台所を目指す。
まだ水滴が乾ききっていないコップを手に取り、蛇口からぬるい水を汲むと、一気にそれを飲み干す。
「…ブハッ、あ゛~…生き返る…」
もう一杯水を汲み、ちびちびと喉を潤しつつ、部屋に戻りテレビをつける。
お天気お姉さんに癒やされつつ天気予報を聞く。
今日も最高気温は40度に迫るようだ。やるせない気持ちになりつつ、独り言つ。
「ったく、平成最後の夏くらい穏やかに過ごさせろってんだ」
この分だと、明後日の誕生日も灼熱の日となるだろう。
(もう、18年か…とうとう逆転するんだな…)
彼は18年前も、18歳であった。
その時の彼は今とは似ても似つかぬどころか、そもそも違う世界で生きていた。
その世界では魔法によって人々が栄え、その才能が将来に直結する社会が形成されていた。
膨大な魔力をその身に宿した彼は、裕福とは言えない家庭に生まれながらも、華やかな未来が確約されたようなものであった。
そこに、悪意が舞い込まなければ。
彼の持つ魔法の才能への嫉妬と、苛烈な悪意と権威に心を砕かれ、社会からの隔絶を望んだ彼は、その環境からの逃亡を図った。
それがまさか、世界そのものから逃げ出してしまうことになるとは思わなかったが。
(結局、なんで転移するつもりが転生、しかも異世界に来ることになったのかはわからないまま、か)
魔法により違う時間、違う場所に転移し、そこで新たな生活を始める予定だった彼が目を覚ましたのは、魔法のない地球という星だった。
しかもどういうわけか生まれたての赤ん坊の姿であったのだから謎である。
異界の記憶を持って生まれ、18年過ごしてきた彼は、自分の置かれた状況はほぼ正しく把握している。
現在の彼はエスカレーター式での進学が決まり、最近はネット小説を漁りつつ友人とテレビゲーム、深夜にアニメ鑑賞、たまに外でスポーツと、充実した日本人高校生生活を満喫している。
見事な順応っぷりである。
(漫画なら誕生日に力に目覚める、とかあるけど、さすがに現実的ではないよなぁ)
今の彼に魔法を行使する術はない。
もともと転移の代償に捧げるつもりだった魔力は、正しく代償として奪われたのかもわからないが、完全に失われていた。
(魔力は生まれた時点で血に宿る。その後変質することはない、だったよな)
創作の魔法知識ではなく、彼の実体験に基づく知識である。
地球には魔法がないのではない。
正確には、魔力の宿った血が途絶えているのだ。
転生直後の彼は、転移に成功したと思ったら赤ちゃんになってるし、自身の血に魔力は宿っていないし、周りの人間は魔法を使う様子もないし、と、混乱を極めた。
魔法が失われた世界だと把握するまでにどれほど頭を抱えたか、今となっては遠い記憶となりつつある。
「さて、そろそろ行かないとな」
受験はないかわりに宿題と定期試験は容赦なくこちらを苦しめてくる。
このうだるような暑さの中、自転車を20分も転がしてろくに冷房の効いてない学校に行くなど拷問に等しいが、悠々自適な一人暮らしを守るためには仕方がない。
今の彼の両親は共働きで、その生活のほとんどを仕事に費やしていた。
夫婦仲も親子仲も悪くなかったが、いかんせん一緒に過ごす時間があまり持てなかった。
前世の両親とはよく一緒に畑仕事をしていたし、部屋に引きこもってからは無償の心遣いで自分を支えてくれた。
こちらに生まれてからも忘れることなんて一度たりともなかった。
今の両親は嫌いではないが、説明の仕様がない後ろめたさに似た感情を、彼は持て余していた。
2年ほど前、家からさほど遠くない高校に合格したにもかかわらず、一人暮らしがしてみたいという彼のわがままを真剣に検討して許可してくれた両親。
成績の維持と定期的に自宅へ帰ってくることが条件であったが、願ったり叶ったりだった。
彼がなんとなく距離を取りたがっていることを察していたのかもしれない。
いつか、きっちりと恩返しがしたいと思う今日このごろだが、そのためにも学校には休まず通わなくてはならない。
「行ってきます、と」
手早く身支度をし、やや立て付けの悪いドアに鍵をかけ、2年半ほどの付き合いとなる中古のママチャリにまたがる。
早くも空気を揺らめかせるアスファルトの上を走らせ、まとわりつこうとする空気を振り切る。
7月上旬、平成最後の夏休みまで一週間、平成最後の誕生日まであと2日に迫る今日も、元異世ニートは現世で真面目な学生として過ごしている。
次はもうひとりを書きたい