龍に導かれ前世を旅する少年が、国の歴史を紐解く
最終章 希望
続き
「これからの君は、記憶を洗って洗い続けて、ユシムという名の人生を創り上げて行くんだ。その先には大きな喜びがあるよ。
記憶を洗って。おいらを洗って。」
「記憶を洗う?あなたを洗う?」
「足りないものを見るのではなくて、あるものに目を向けるんだ。そうすると自然にありがとうが出てくるよ。
君の中のおいらはいつも金色でいることができるよ、ありがとう。」
「それができたらいいなあ・・・でも難しそう・・・僕できるかなあ。」
「大丈夫だよ。『ありがとう』という想いを忘れなければ。
でも、もしそう思えなかったら、その時は言葉に頼るといいよ。言葉は思いを手繰り寄せるんだ、生命そのものだから。
『ありがとう』っていう言葉が、君の中の、想いの泉に働きかけるよ。愛が目覚めて君から溢れる、そして君を守る。」
「『ありがとう』という言葉・・・・・・・・」
「時が来たよ。記憶を洗って、いつもだよ・・・ありがとうって・・・・・」
龍の声がだんだん小さくなり、やがて消えていった。
「待って、待って、龍さん、どこへ行くの?待って、行かないでーっ」自分の叫び声がユシムの身体を包むように聞こえている。
身体がぐるぐると回転し、何か大きなものから放り出されるような衝撃が走った。
自分の心の奥に光を感じる。これが龍なのか。
今熱いものが溢れだしそうなくらい満ち満ちている。指先まで届いている。
それが何かわかる。自分を信じる力。
ありがとうという気持ちになると、自分を好きになる。
自分を信じること、自分を好きと思えることは、僕が今までほしくても手に入らないいものだったんだ。
僕、わかったんだよ。龍と話していて気付いたんだ。
感謝を分けたいんだって。ありがとうを言いたいし、ありがとうと言われたい。
魂が龍として出てきてくれたんだ。知らなかった力を使いなさいって。
僕は生きたい。
そう思う。
ニ
ユシムが手を上げた、その手をアリ―が掴んで両手で包み握りしめた。ユシムが笑っている。母のアリ―が救急車に乗り込み、病院へとむかった。
アリ―はほっとして、涙をぬぐった。
「神様、ありがとうございます。私の大切な息子ユシムをお助けくださり、有り難うございます。」アリ―は車中ずっと両手を組んで目を閉じ、礼を言い続けた。
一日前夕刻
ユシムの隣人であり、ボスの飼い主ワルト氏は、飼い犬のボスがずっと落ち着かず小屋の回りをぐるぐると何度も回っていることに気がついた。
いつもなら隣家の少年が来て、ボスと共に森に行っているはずの時間だ。
その少年が今日は来ない。
近頃、家の周辺を、ユシムと同じか少し年上かというくらいの少年が数名うろついているのは、ワルト氏も知っていた。ボスも彼らの存在を察知すると、興奮している様子があった。ボスは人をみる。こういう時の興奮は、ボスにとって招かざる客に示すものだった。
何かが起きている。ワルト氏は確信した。
ボスはユシムと出会う前は、自分で森に入っていた。黒の森は夕暮れになると人は入らない。ボスは、人を襲うことはない。吠えて威嚇することはあっても何もしない者を襲わない犬なのだ。
しかし、大型犬を簡単に放すことはできない。
医療機器を扱う会社経営に携わるワルト氏が森の入り口に暮らすようになったのは、ボスを自由に森に放してあげるためだった。
その後、すこし離れたところにユシム一家は越してきた。
ユシムが学校に上がり、家の前を通るようになった。
小さなユシムがボスを見ると、ボスはユシムに関心を示した。珍しいことだった。
ユシムが通りかかると、ボスは喜びを表すようになっていた。
その一方家の前を通りかかるユシムの表情は暗くなっていくように見えた。
ワルト氏は、この少年にボスの散歩を託してみようと考えた。
そう思っていたら、その日はやってきた。
こうしてユシムとボスの散歩が始まった。
ボスはユシムとの散歩が楽しくて仕方がないようだった。
自分が走り、ユシムを待つ。
かくれんぼのようなこの散歩は、きっとボスにとり最高の遊びだったろう。
今、ボスがこれだけ騒ぐということは、ユシムに何か危険が迫っているに違いない。
ワルト氏はボスを放してみることにした。
どんどん日は落ちている。
「ボス、行け。探して来い。」
三
その頃、ユシムの家では、いつもの時間にユシムが戻らないことに、父のク―ラが気付いた。
「いつもいる。」それが息子たちレシムとユシムだった。
関心を向ける必要などないぐらい、それは当り前のことだった。
二人には友だちもいない、できないのだ。自分と同じだ。
クーラは笑った。
「俺たちは似たもの親子。一人働くアリ―の背中に三人が乗っている。もしアリ―が倒れたら、俺たちはどうなるんだ。」
必ずいるはずの息子がいない。帰ってこない。
ク―ラは胸騒ぎがした。
ク―ラは隣の家に行ってみることにした。外に出るのはどれくらい前だろう。それすら思い出せない。
なぜこんなに胸がばくばくしているのだろう。
外に出たとたんに、森の方から猛スピードで走り抜けてきた自転車数台があった。
前方で犬が激しく吠え、自転車に向かっているのが見えた。
「わーっ、助けて―、ごめんなさい、ごめんなさい。」と叫ぶ声とともに
続けざまに自転車が倒れ、「ウウウッ」という鋭い犬のほえ声が響く。
しかし犬はそのまま自分がいる方向へものすごい勢いで走ってきた。
一瞬襲われるのかと身構えたが、その時犬は自分の横をあっという間にかけ抜けていた。
前を行く少年たちは、茫然と転ぶがままになっている。
散乱した自転車、青ざめる少年や泣き出す少年もいて、そこに我が子ユシムが関わっているのではないかと感じた。
ク―ラは少年たちに駆け寄ると、
「どうしたんだ。」と自分でも驚くほどの大きな声で尋ねた。
一人の少年が
「な、何でもありません。ぼ、僕たち森で遊んでいて、帰りが遅くなってしまって、急いで、か、帰るところです。犬がいきなり吠えてきたから、び、びっくりしてしまって・・・・・」
「本当にそうなのか・」他の少年たちにも聞いた。
「そ、そうです。」二人が同時に答えた。
「君たち、森に行ってたのか。君たちと同じくらいかもう少し年下かもしれないが、男の子を見かけなかったか。」
五人同時におびえたような表情が見えた。
「ん?君たち、知ってるね、見たんだね。」
「し、しりません。知りません。男の子なんて知りません。」
「ユシムなんて知りません。」
「今ユシムって言ったよね。私はユシムなんて一言も言ってないぞ。」
「ひっ、しらない、しらない、しらない。」一人が号泣し始めた。
「どこにいるんだ、ユシムは。」
一台の大きな車が横に停まって初老の紳士が降りてきた。
その人物が目にした光景は、自転車が横倒しになり、少年らが転んだように座り込み、男が怒鳴っている姿だった。
自分の家にここ数日起きている異変とが重なり、ワルト氏にはある思いをめぐらせた。
「君たち、何日も前からこの辺りにいただろ。」大地から響いてくるようなとても低い声だった。
「えっ。」
「僕たちは五人で遊んでいただけです。」
「もう帰るところだったんです。」
「そうしたら大きな犬に襲われたんです。」
「もう少し先の家で飼ってる・・」
「なぜそれを知っている。」
「だって森にいく途中にある家ですから見かけます。」
「自転車から見える場所になど、その犬はいない。私の家をのぞかなければ見えないはずだ。それにうちの犬は知らない者が通りかかっただけでは吠えん。」
「どこにいるんだ。ユシムはどこにいるんだ。」
「ひっ。」
「ごめんなさい―っ。」
「警察にだけは言わないでーっ。」
「こいつに言われたんだ。」
「こいつに誘われたんだ。」
「そうだ―っ、こいつが全て仕組んだんだ―っ」
少年が泣きながら指差した先にキラがいた。
すると他の少年たちも、
「キラの言う通りにしたんだ。」
「いつも言うとおりにしてたんだ。
「あんなことになるとは思わなかったんだ。」
「なんだ、あんなことって、あんなことってどういうことだーっ。」
ク―ラは少年の胸倉を掴んでゆすった。
「僕はちょっと蹴っただけ。でもみんなはもっと殴ったり蹴ったりしてた。」
「俺もキラに言われてーッ。」
「でも落ちるなんて思わなかったんだーっ。」
「今なんて言った?落ちた?どこから落ちた?。」
代わる代わる話をし始めた子どもたちの言葉から出てきた「落ちた」にク―ラは愕然とした。
「落としたんじゃない。落ちていったんだーっ。」
泣きながら叫ぶ少年を突き放すとク―ラはへなへなとその場に座り込んだ。
力なくしゃがみこんだ父親を見て、ワルト氏は素早く秘書に連絡をとり指示を出した。
そして父親に
「あなたはユシム君のお父さんだね。私は隣人のワルトだ。
うちの犬が必ずユシム君のところに行きついている。
優秀な犬だ。それにユシム君が大好きだ。必ず助ける。」と言った。
さらに、五人の少年に向かって
「君たち、身体は痛くないのかい。」と言った。
その言葉を聞くと、キラを除く少年たちはしくしくと泣き始めた。
四
しばらくすると、警察犬と共に捜索隊が森の入口に到着した。
日が落ちて、見上げた森は闇に包まれていた。捜索隊本部の明りだけが光っていた。
ユシムの家族たち、ワルト氏が捜索隊に合流した。
警察からの連絡で少年たちは依然取り乱しており、覚えている限りの道の聞き取りがなされた。
犬と共に捜索が行われたが嗅ぎ分けられず、夜中にいったん打ち切られた。
ワルト氏はボスがユシムにたどり着いていると確信を持っていたが、それは、父親と母親にだけに伝えた。母アリ―はずっと両手を合わせ神に祈っていた。
父、ク―ラはずっとレシムの手を握って、考え事をしているようだった。
ク―ラの胸中には、父として何もしてこなかった後悔が押し寄せていた。
ユシムを崖下に落としたのは、あの少年たちだけではない、自分こそが突き落としたのだ。もしユシムを失うようなことがあればそれは自分にすべての因があると感じた。
「ユシム、ごめん。父さんが悪かった。」早く夜が明けてくれ。早く時間が経って朝になってくれ。早く陽が昇ってユシムを温めてくれ。
レシムは、状況を察しているのか、全く声を発することなく、静かに父に手を握られていた。
一方、警察から校長に連絡が行き、校長と担任教師のロインはまず警察に向かった。
ここで、キラといつも行動を共にする仲間たちが、同級生のユシムを森に誘い込み、危害を加えユシムが崖下に落ちたこと聞くと、校長と、担任ロインは青ざめた。
少年たちの親たちも全員集められた。
母親たちは、
「あなたの子がうちの子どもたちにこんなひどい指示を出したんだわ。
うちの子をこんなことにまきこんで、あなたの子のせいだわ。どうしてくれるの?」
「そうだわ、そうよ。うちの子はあなたの子に従っただけよ。あなたの子に命令されて仕方なく加担したんだわ。」
キラの母親が
「待ってください。いつも五人はいっしょで仲良くしていたはずです。
うちの子どもが命令したと言われますが、そういう関係ではなかったはずです。
いままで何回もうちに遊びに来ていましたよね。上下関係なんてありませんでした。
うちの子も悪い。
でも皆さんのお子さんだって、みな同じだったではないですか。」と言った。
他の母親が
「確かにユシムのことを話しているのを聞いたことがありますよ。
それを聞き流してしまった。まさか子どもたちがここまでやるとは思わなかったの。」
他の母親が言った。
「いつものことはいいんです。こんなことを考え言いだしたのは誰かということが問題なんです。襲うことを言いだした子が問題なのでは。」
喧騒の中を、低い静かな声が響いた。
「言った言わないではなく、あなたたちは自分の子どもがいじめをしているのを知っていたということですよね。」
その部屋にいた警察官だった。
「あなたたちは自分の子どもがいじめをしていると知りながら、ユシム君の気持ちになって考えることはなかったのですね。」
「罪を犯したとみるや、今度は責任のなすりあいですか。
子どもらは、あなたたちと同じなすり合いを取調室でやっていましたよ。
悲しいかな、誰もユシム君のことを心配してはいなかった。」
大きなため息と共に、座り込む者、ひざまづく者、そして祈り始める者が出てきた。
そして、主任の警察官ルーバンが校長とロイン教諭に向き直った。
「校長さん、ユシム君が学校でたいへんな目にあっていたのを校長のあんたは知らなかったのかね。」
校長は白髪頭をなでると、眉間にしわを寄せ、
「ロイン君、クラスでの様子はどうだったんだね。こういうことが起きてる気配はなかったのかね。」
一同の視線はロインに集まった。
「ちょっと待った。私は校長、あんたに聞いたんだ。知ってたんじゃないのかね。
子どもたちは言ってるぞ、みんなでユシムを避けたりするその場を、校長が通りかかっても何も言われなかったって。だからやっていいと思ってたって。
子どもは見てるんだよ。大人の背中を見てるんだよ。」
一斉に視線が校長に集まった。
「ロインさんよ。私は今あなたを『先生』とは呼びたくないんだ。子ども達は言ってたよ。いつもユシムには冷たかったって。それは伝わるよな。
いろいろ聞いてるとさ、たった一人でうずくまってる図がさ、見えてくるんだよ。」
その場にいた誰もが頷いた。
「俺だってさ、子を育てながら親として育ち中なんだよ。
きっとどの親だって必死だと思うよ。
親ってさ、自分の子を持つとよその子も可愛くならないか。
俺はそうだったよ。」
その場にいた親たちは、ルーバン主任の言葉にはっとした。
ロインも深くうなだれた。
校長は、
「申し訳ありませんでした。今から私とロインは捜査本部へ行きます。」
「では私たちも一緒に・・」と親たちが立ち上がった。
「その前にお子さんたちに会ってからの方がいいのではないですか。」と校長がいうと
「子ども達には、『校長先生、ロイン先生、お父さんお母さんはユシム君を探しに行ったよ』と伝えます。」ルーバンが言った。
捜索本部では、日の出を待ってすぐに森に入れるように待機していた。
そのうちに校長をはじめとする、事件に関わった五人の親たちが到着した。
ユシムの両親の前に並び、キラの父が代表で、
「私どもの子どもが、このようなたいへんな事態を引き起こし、本当に申し訳ありません。」と深々と頭を下げたが、
両親は茫然と力なく聞いているだけで、言葉はなかった。視線は遠くにあり、誰とも目を合わすことはなかった。
そんな中校長が両親に話しかけようとしたが、ワルト氏に止められた。
「今は何の謝罪も耳には入らんだろう。ユシム君が見つかってからでも遅くはあるまい。」
ワルト氏は地元の名士で、多大な寄付の行先には学校の設備も含まれていた。
警察にも州の教育委員会にも顔が通っている人物だった。
校長は、その言に従った。
五
道からはとてものぞきこめないほど崖は続いていた。
ユシムは森の道から、たくさんの木の枝に引っかかりながら、くるくると回転しながら落ちていった。
やがて大木がその回転を止め、ユシムはその衝撃で意識を失った。
しばらくして、木々に耳があれば、犬の遠吠えが聞こえたことだろう。
遠く長く高く『うお―っ』という声が何度も何度も当たりの空気を震わせたのだ。
やがてその声の主は、少年をみつけ出した。少年の、腫れあがり血がついた顔を何度も何度も舐める犬は、子犬のように「くうん、くうん、くうん。」と泣き始めた、
日がとっぷりと落ちると、犬は少年を温めるかの寄り添った。
そののち森の木々達は、「龍さん・・・」という小さなつぶやきが少年から漏れるのを聞いたことだろう。
そして
そこからユシムの記憶の旅が始まったのだ。
満天の星明りが森を照らしている。
そこにぼんやりとユシムの身体が光り始め、金色を帯びたのを見たのは、犬と森の木々たちだけだった。
六
谷川がオレンジ色に輝き始め、鳥たちの鳴き声が森中にこだましている。
ボスは起きあがって、もう一度ユシムの顔をなめた。ほんの少し、口元が上がったことを犬は気がついた。
空に向かって、昨夕より大きな声で、長く高く遠吠えを繰り返した。
その声は木々の間を通り抜け、森に響き渡った。
まんじりともしない朝を迎えた捜索隊は、その声が耳に届き一斉に立ち上がった。
「ボスだ。ボスの声だ。」
「みなさん、声を頼りに声のする方に捜索を開始してください。」
捜索隊はすぐさま行動した。
父は駆け寄って「私も連れて行ってください。」と言ったが、ワルト氏は静かな声で「ここで待つように」と言った。
父はついていこうと追いかけたが、
「我々を信じて待っていてください。」と言われ、静かに引き返した。
捜索隊は草木をかき分け、急峻な下り坂をロープを伝いながら下りて行った。
捜索隊も何度も滑り落ちそうなほどのがけ下から水音が聞こえてきた。
「下までもうすぐだ。」
「おーい。おーい。」隊員たちは、呼びかけた。
「ワオー」と犬の声がした。
「もう近い!この下だ。」隊員たちのロープを持つ手に力が入った。
「待ってろユシム。」
しばらくして、森中に屈強の男たちの大きな歓声が響き渡った。
ユシムが生きて発見されたという連絡が、捜索本部で待機していた人々にもたらされた。校長始めキラの親たちも抱き合って喜んだ。
お昼すぎ、捜索本部にユシムが運ばれてきた。その身体は、シャツが切れその切れ目から血がにじんでいた。腫れあがり血や泥で赤黒い顔。
キラら少年らの親たちもショックを受けた。我が子たちがしたことの大きさを知って・・・
母親たちは両手を合わせ「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。」を繰り返した。
病院につき、ユシムの怪我が命にかかわるものではないことがわかり、アリ―は泣いた。
しだいにこみ上げてくる思い・・・
どんなに痛かったことだろう、どんなに心細かったことだろう。
鬼畜のようなものに囲まれて、ひとかけらの情けも得られないと知る状況は、どんなにつらく苦しかったことだろう。
これがユシムにとっての『学校』だったのだ。
自分はそこへ行かせようとしていた。期待だけをかけてユシムの状況を知ろうとしなかった私と夫は、ユシムにとって『親』ではなかったのだ。
責められるべきは、私だ。この今隣にいる夫だ。学校へなど絶対に行かせない。
「ユシム、ごめんね、ごめんね。ごめんね。」
アリ―は決断していた。
七
ユシムは入院し十日ほどで起き上がれるようになっていた。
傷やあざの一つ一つが医師によって詳細に調べられ、五人から受けた暴力と、転落時に受けた打撲や裂傷が分けられた。この様子から五人の少年たちの処罰が決まる。
骨折がないのが不思議がられた。
ユシムは
「落とされたのではない。自分からです。」と言い張った。
「誰も僕を突き落とそうとはしなかった。僕が誰かを蹴ってよろけて自分で落ちたんです。」
ユシムは、彼らの懲罰を望まなかった。
少年たちは、一か月の停学処分となった。
親たちには保護監察となり、今後いじめに類する行動が見られた時は、少年の更生機関に送致という但し書きがついた。
学校からは、停学期間の過ごし方として、社会奉仕が少年たちに課された。
キラは、予定されていた、少年つなぎ走は不参加となった。
ずっと部屋に閉じこもっていたキラは、母から呼ばれても姉から呼ばれても、部屋から出ることはなかった。運ばれた食事は、ほんの少し口にするだけだった。
父が入ってきた。
「キラ。ごめん。父さん間違ってたよ。」
「僕だって・・・ごめんなさい。お父さん、僕がたいへんなことをしてしまったって気付いた・・・」
「父さん、言い気になっていたんだ、お前は何でもできたからな。」
「・・・・」
「父さんがほしくても手にできなかった物をお前はなんなく手にしていた。すごいと思ったよ。」
「・・・・・・・」
「なぜあんなことをお前がしたんだろうか、父さんなりに考えたんだ。
父さんがいつのまにかプレッシャーをかけていたんじゃないか?」
「違うよ。そうじゃない。父さんは関係ないんだ。
僕、嫌だったんだ、ユシムがすごく速く走っているの見て、つなぎ走のアンカーを取られると思ったんだ・・」
「お前より?」
「うん。」
「そうか。そういうわけだったのか。そういうの嫉妬というんだ。
そういうのはなあ、お父さんにもあるよ。みんなにもあるよ。」
「・・・・・・・・・・」
「すぐには難しいだろうけど、乗り越えろ。」
八
二週間後、病室に家族が揃っているところに、初めて担任のロインが訪ねてきた。
ユシムは起き上がっていた。
父は毎日レシムを連れて病院にやってくるようになっていた。この頃には五人の親たちが入れ替わり立ち替わり見舞いに来ていたが、母アリ―は
「お気持ちはよくわかりました。」と病室の前で帰していた。
ロインについては、その後教師を休んでいると聞いていた。
ずっといじめを黙認していたどころか、いじめの元凶になった教師ということで報道でも騒がれ、世間の非難を浴び、教員を続けられなくなったと聞いていた。
ロインが訪ねてきた時、アリ―はユシムに会わせたくなかったが、ユシムに聞いてみることにした。
「ユシム、ロイン先生が来られたけど、会う?」
「僕、会いたい。これからの僕のこと、先生に話したいんだ。」
「でもユシム・・・これからのことって・・」
「お願い、母さん。先生を入れて。」
アリ―はもうク―ラに何の相談もしなくなっていた。
夫ク―ラの気持ちをたしかめることなく、アリ―はロインを招き入れた。
父親は、人と会うのをためらって室内のロッカーの陰に隠れた。アリ―は、
情けないという表情を隠さなかった。
真っ直ぐにユシムを見た。
「こんにちは、先生。」ユシムの方から声をかけた。
「ユシム君、久しぶりだね。
私は君に取り返しのつかないことをしてしまった。
本当に申し訳ない。すまなかった。」
ロインはひざまづいて、頭を下げた。
「先生、僕聞きたいことがあるんです。いいですか。」
「何でも答えるよ。今日はそのために来たんだ。」
「先生は僕のことがいやなんですよね。
僕のどんなところがいやなんですか。」
それを言った時ユシムの顔が一瞬泣きそうにゆがんだ。
「・・・・・君のことがきらいだったのではない。」
「えっ、僕のことがいやではないの?」ユシムの顔に明るさが差した。
「ああ、いやではないよ、ユシム君。きらいなんて思ったことはない。
今日は私の心の中で起こっていたことを聞いてもらおうと来たんだ。
君がこれから一歩踏み出せることに繋がると思って、正直に話すよ。」
「はい、聞きたいです。」
「君を見てると、君のおとうさんをどうしても思いだしてしまうんだ。」ロッカーの影の人物がびくっと身体を跳ねあがらせた。
「どうしても忘れることができなかったんだ。
僕はね、大学の時、君のお父さんの授業を受けていた生徒の一人だった。
君のお父さんはとても優秀でね、僕よりずっと若いのに飛び級で大学を卒業し、教授になったんだ。物理学の先生さ。
君のお父さんの授業、難しくてねえ、僕にはさっぱり分からなかった。わからないから何度差されても答えられなくてね。その時、お父さんは、
『君は僕より年上でしょう。どうしてわからないのかなあ。年上なのに。』
それを毎日のように言われたよ。僕はだんだん学校へ行くのがつらくなって、退学も考えたよ。
当然友だちもできなかった。先生に嫌われている僕なんか誰も相手にしてくれっこないよと思ってたから、その頃。」
ユシムの目に涙が浮かんでいた。
その時だった。アリ―がつかつかとロッカーの前に行くと、そこにひっそりと立っていたク―ラの腕を掴み、ロインの前に引っ張り出した。
「あなたが悪いんです。あなたこそがユシムを傷つけたんじゃないですか。」
クーラは立ちすくみ
「許してくれ。」とつぶやいた。
「そうだったんだ。」
「ユシム、ごめん。父さんが、父さんが悪かった。
ロイン先生、ごめんなさい。あの頃の私は、人を平気で見下していた。
どんなに人の心を傷つけているかがわかった。
本当に申し訳なかった。すみませんでした。」
ク―ラはかつての自分の教え子に深々と頭を下げた。
アリ―の怒りは収まらなかった。
「あなたはこれまで、自分の世界しか見てなかった。
息子たちに何の関心ももてていなかった。
自分の傷だけを見て閉じこもっていたんです。」
「・・・・・その通りだよ、アリ―。ごめん、済まなかった。ごめん。
本当に大切なものが何か、そばにあったのにわからなかった。」
ク―ラは病室から出て行こうとした。
「待って、父さん、お父さんにお願いがあるんだ。」
ユシムが父の腕を掴んだ。
「ユシム・・・」
「僕 勉強したいんだ。僕 勉強がしたくなったんだ。
お父さんに教えてもらいたい。」
「何を言っているの、ユシム。学校に戻れるのよ。」
「わかってるよ。今の僕にはわからないところから教えてくれる人が必要なんだ。それがおとうさん。父さんに勉強を教わりたい。」
「・・・・・・・」
「父さんは、母さんが働いている間 僕に勉強を教えて、昼から働ける仕事をみつけてさ。ワルトさんにこの間、話したんだ、学校へ行かないこと。
お父さんに勉強を教えてもらいたいこと。
そうしたら、『お父さんはそろそろ働かなくちゃいけないな』って。
そして『そのことは私に任せなさい』って。」
アリ―とク―ラ、そしてロインまでもが、ユシムの決断と行動に驚いた。
九
「あと十日もすれば学校でいけるそうだな。」
「はい。退院できそうです。でも僕、学校に戻りたいと思ってないんです。」
「今までを思い出すと、先生やお父さんお母さんが大丈夫っていうけど、みんながやさしくなるなんて想像できないんだ。」
「そうか。」
これまでユシムを蔑んできた者たちの急な変化にユシムは馴染めないだろう。
「わかった。思うようにすればいい。」
ワルト氏はゆっくりとうなずいた。
翌日
お見舞いにボスは入れない。
でもボスもユシムに会いたいだろうと、ワルト氏はベッドサイドの窓下にボスを連れてきていた。
「ユシム、窓際に行ってごらん。」
「えっ」
「ボス、久しぶりだね。ありがとう、会いたかったよ。」
ボスは、差し出したユシムの手をなめた。
人間と一定の距離をとるボスがここまで人を求めるなんて。
十
数日後、ワルトは学校を訪ね、ユシムの考えを校長に伝えた。
「そうですか。それは残念です。
指導に力を入れてみんなが過ごしやすくなるよう努力するつもりです。
これからは楽しい生活になったはずなのですがね。」と言った。
「その気負いがユシムは想像できるんだな。それが息苦しさになるんだな。
ユシムにとって今一番大事なことは、家族が変わらなければいけない、ということだ。」とワルト氏は言った。
「父が外に出ること、つまり働くということ、母の暮らしが楽になること、相談に乗ってほしいと言われたよ。
今までユシムから私に話をしてくるなどなかったよ。
何かを頼むなどということはなかったのではないかな。自ら人に助けを求めることも大切なのだ。
それが言えたということは、大きな一歩のはずだ。」とワルト氏は続けた。
「お恥ずかしいです。ユシム君が誰にも頼れなかった、本当に学校の長として失格です。
一つユシム君に伝えたいことがありますが、私よりワルトさんから話していただけませんかね。」
「それは、何かね。」
「先日、キラ君の父親が訪ねてきまして、今のキラ君の様子を聞きました。
深く反省しているようです。父である自分にも原因があると気づいたようです。」
「ほう。そうなのか。」
「実はキラ君が願っていることがあるんです。」
「ユシムにそうしてほしいと願うのは、いささか筋が違うと思うがな。」
「いや、それはキラ君なりの謝罪なんですよ。ワルトさん。」
「謝罪?」
「キラ君はね、これから始まる【少年つなぎ走】に出場が決まっていました。」
「ほうそうでしたか。それでは今回は出場はできませんな。」
「はい。当然かないません。しかも今回は、アンカーとして有力視されていました。」
「森を走りぬくアンカーですな。」
「そうです。キラ君は自分の代わりにユシム君に出てほしいと言っています。
どうやらユシム君がワルトさんの家のボスと森を走っているところを見たようです。
自分より絶対速いと言っていました。森の走り方をユシムは知っている。ユシムが走れば優勝も夢ではないと言っていました。」
「そうか。ボスめ、ユシムをそうとう鍛えたな・・・」ワルト氏は校長には聞こえないように、そっとつぶやき、にんまりとした。
「しかし、ユシムはそんなものがあるのも知らないだろうし、おそらく走りたいと思わんだろう。目立つことにはとんと関心がない、いやその逆だろう、いやがるはずだ。今までのユシムならば・・・。」
「キラ君は、自分以外の者がユシム君の走りを見たら、必ず【つなぎ走】に相応しいのはユシム君だと思うだろう、それがたまらなかった、悔しかったと、父親に言ったそうです。」
「自分以上の力を見せつけられたんだな。それは落ち着かんな。」
「だから、ユシムがこのつなぎ走のアンカーとして出場することで、悔しいけど今の自分にふさわしいダメージだと思ったそうです。」
「自分勝手な理屈だな。」
「ユシム君のためにもキラ君のためにも、これはいいことではないかと思います。」
「わかった。私から話してみよう。」
十一
木々の葉が枯れ落ち、木枯らしに舞っている。
退院したユシムは、ボスとの奇妙な散歩を再開した。
ボスは待っていた。大きな身体を何度も何度も小さなユシムにすりよせた。
「久しぶりの森だけど、この匂い・・・」と思った。
ユシムは準備運動して、身体をほぐした。
「森が待っていてくれている・・・」ユシムにはそう思えた。
ボスが走り始めた。いつもよりゆっくり。
「僕の身体を気遣ってくれている?ボス、ありがとう。」
ゆっくりと走り始めた。
「足が喜んでいる。なんて楽しいんだろう。風が頬をなでる・・」
ユシムはボスを追った。
一台の自家用車が静かにそのあとを追っていることをユシムは気付かなかった。その車には、ワルト氏と、【少年つなぎ走】の大会委員長他関係者が乗り込んでいた。
大会関係者は、はじめは通学していないユシムを選手として迎え入れることに難色を示した。しかしワルト氏は、これまでの経緯を説明した。
大会の参加資格には、ソンパト州在住の十五歳までの子どもとある。
ワルト氏は、ユシムが参加する意味を丁寧に話し、最後には全員の賛同を得るために、走る姿を見てもらうことにしたのだ。
ユシムをどこに配すかについて、多くの案が出たため、走力を全員で確かめるに至った。
走り始めから、車中の人々は目を奪われた。車はあるところまで一定速度を保ったが、車からユシムまでの距離がずっと縮まることがない。
なだらかな坂道から勾配がきつくなる自然道は、相当の足場の悪さだ。
「うーむ。これは想像以上の力強い走りですなあ。」
「上半身が全くぶれず、腰の位置が一定だ。速いだけではないなあ。」
「この森をこんな速さで走る子を見たことがない。」
「これは森を走らせなければもったいない。」
あっけなくユシムの走る場所は決まった。
「さあ、いよいよ、本人の説得だ。」
ワルト氏はいたずらっ子のようににやりと笑った。
十二
ユシムの家族の今後について、ワルト氏は相談役の立場で、ユシムと両親の思いをまとめていた。
父に勉強を教わりたいというユシムの希望は、午前中にワルト氏の家の一室でという形でスタートした。
積もり積もった不満を吐き出した母アリーの、夫と別れたいという強い想いは、今のアリ―には時間が必要だというワルト氏の判断から、父クーラを除く家族がワルト氏の家に住まうことに決まった。
アリ―は病院勤めを辞め、ワルト氏の屋敷の家政婦として働くことになった。
屋敷は広大で、部屋や屋敷周りの掃除は手間がかかる。
レシムを伴い働くことで、これまで二人の子どもと離れていた分の時間を作ることができるようになった。
ユシムはボスの世話をする。散歩だけでなく、えさやりや小屋の掃除まで全てを任された。
一方父のク―ラは、午後からアリ―が勤めていた病院で清掃の仕事につくことになった。
それはク―ラ自身が望んだことだった。これまでのアリ―の日々を経験することが、アリ―の心を溶かすことになると浮かんだからだった。
住まいは病院内の寮になった。
そして、ワルト氏は、会社近くのマンションに移った。
「ユシム、どうだ。今の暮らしは。慣れてきたか。」
「はい、快適です。ワルトさん、ありがとうございます。僕、楽しくて仕方がない。
ワルトさんのおかげです。」
「おー、ずいぶん大人のような口を聞くようになったなあ。」
「ほんとにそう思っています。」
「お父さんの教え方はどうだ・」
「とっても優しくて丁寧に教えてくれるから、わかりやすい。」
「お父さんも言っていたぞ。ユシムに教えるのが楽しくて昔を思い出したって。」
「お父さん、僕がわからなくてもあきらめないで、何度も教えてくれるから、ありがとうっていう気持ちになるんだ。」
「お父さんの気持ちも同じだ。よかったなあ。」
「おかあさん、笑顔が増えた。いつも僕たちが一緒だからうれしいって言ってるよ。」
「お父さんともよく話してるよ。『たいへんでしょ、私はずーっとやってたのよ。』って威張ってる。そうするとお父さん、『そうだな、そうだな。ありがとう。』って。」
「なんだか楽しそうだな。」
「すごく楽しいです。僕たち家族いっぱい話すようになったんだ。今までは話すことなんてなかった。今はボスのことや料理の話とかね。」
「お母さん、最近料理頑張ってるよ。お父さんも働いてお金も入るからって美味しいのいっぱい作ってくれるよ。お父さんの分も作ってあげて、みんなで食べてるの。」
「そうか、そうか。」
「それにね、ワルトさん、レシム兄さんがね、お母さんの料理するところをじーっと見ていて、まねして作るんだよ、料理。
今までもお母さんの料理するところじっと見ていてまねして作ったりするんだよ。僕知らなかったけど、時々兄さんが作ってたんだって。
兄さんは、そこにある材料でいろいろ考えて作っちゃうんだって。」
ユシムは嬉しさに興奮している。
「よかったなあ、ユシム。」
ユシムの幸せそうな顔を見ていると、なぜなのか心がきゅっとする。それがワルトには不思議でならなかった。
自分がこの少年のためになぜこれほどまで気になるのか、一つ言えることは、懐かしいという思いだった。
十三
「ユシム、今日は違う話があってきたのだ。」
「えっ、何ですか。」
「ここサ―ハルケン国には、毎年、【少年つなぎ走】という催しがあるのを知っているか。」
「はい。知っています。図書館でヒューイの本を見ていて知りました。」
「ほう、見たことはあるか。」
「ううん、見たことはないです。」
「そうか。見たかっただろう。」
「今年は見たいと思っています。」
「ユシム、お前はそのつなぎ走にランナーとして出るのだ。」
「?・・・・・・・・・」
「どうした?聞いているか。」
「?・・・・・・・・」
「何を驚いている。お前の走る速さからいったら、当然のことだろう。」
「そんなこと考えたこともない。見たこともないもの。一度も考えたことないです。」
ほとんどつぶやき声になっていた。
「キラがお前に走ってほしいと願っている。」
「えっ、キラが・・でもキラは出場するんですよね。」
「キラは出ない。少なくとも今回はな。」
「キラはつなぎ走に出ることを目指していたと思います。」
「そうだ。代わりに出てほしいとキラが言っているんだ。」
「でも僕、キラより速くなんて走れません。」
「キラは逆のことを言っていたぞ。自分よりユシムは速いと。」
「えっ、ワルトさんはどう思いますか。」
「なぜ私に聞く。私はお前ではない。お前自身に聞け。」
ユシムはびくっとなった。そうだ、そうだった。
自分に問う。僕の中の龍に問う。
「龍さん、どうしたらいい?」
懐かしい声は聞こえない。
でもその代わり勇気が漲ってきた。
何にでも向かっていく自分なら好きになれる。
キラが応援してくれているんだ。
キラみたいになれるかな。
キラにありがとうって言える時が来ると感じる。
そしてボス。
ボス、僕の足はボスの足でもある。
ボスのためにも走り抜きたい。
「学校に行っていない僕が出てもいいんですか?」
ワルトは笑顔でうなづいた。
ユシムは
「走りたいです。」
笑い始めた僕の家族、きっとみんなが喜んでくれる。
「ありがとう、ユシム。」
エピローグ
一
今年の少年つなぎ走のコースは、スタートがモトエ州。
シ―ザ州に入り、レナ州、テラ州、ナッケ州、カナカイ州、ユーハシ州、コ―ザ州の順に各州に立ち寄る形でコースが組まれ、最後はソンパト州の難関黒の森を頂上まで上って教会のゴールに達する。
伝説の生き物ヒューイの姿絵を背中に背負い、サ―ハルケン国 最古の教会にいる国王に、各州九名のランナーがヒューイを繋ぐ【少年つなぎ走】は、毎年 国民が楽しみにしている国最大の行事だった。
早朝から走り始め、速いチームでも昼をかなり過ぎた頃、遅いところでは夕刻になるほど、一人のランナーの走る道のりは長く、過酷だった。
始めは、自分の区域を完走するだけでも過酷なため、持久力のある者が選出された。最近は各州が持久力にとどまらず速さを加えた練習をするようになった。
そのため選手になった者の練習量は相当なものになった。
つなぎ走を二カ月後に控え、選出メンバーが出そろった。
さらにヒューイの絵の募集が締め切られ、たくさんの応募の中から、つい先日、ソンパト州が教会に届けるヒューイの絵姿が選ばれた。
九名が集まる日がついに来た。
合同練習が始まったのだ。一日三時間だという。
ユシムはたくさんの人の中に入ることにいまだにおそれを感じていた。
「走ると言ってしまったのはやっぱり間違いだったかもしれない。
僕を見て、みんなどんな顔をするのだろう。」
合同練習に向かうユシムの心は重かった。
「でもいいんだ。苦しいのは最初だけ。走り出したらボスを思い浮かべればいい。
走り出すまで。走り出すまで。がんばれ、ユシム。」何度も心に言い聞かせた。
いろんなことが少しずつ良い方へ向かっている。毎日が変わってきている。
「僕の中の龍さん。
あれから何度話しかけても龍さんの声は返ってこない。
でも僕は教えてもらった。
ありがとうを口にすること、思うこと、何よりも自分を好きになった気持ち。
だから僕は、走りますって言えたんだ。自分のために。家族のために。
いいんだよね、龍さん。周りの人のこと大切だって気づいたよ。気づいたらみんなが優しくしてくれるようになった。
だから挑戦してみるよ、龍さん。」
ユシムは扉を開けた。部屋にいる人々の目が一斉にユシムに集まった。
ユシムはびっくりして下を向いた。
全ての目が自分の頭より上にあり、視線が降ってきた。
「痛い。」一瞬そう思った。
「こんにちは、ユシム。」大きな溌剌とした声も同時に降ってきた。優しい声・・
「やあ、ユシム。君がユシムだね。」
「楽しみにしていたよ。小さな巨人だなあ、君が一番たいへんだよ。」
「僕たちがしっかり君にヒューイを繋ぐからね、後は頼んだよ。」
「ユシム、僕たちはここから一つだよ。チームなんだ。」
「仲良くやろうぜ。」
ユシムは頭や肩に温かい手を感じた。いきなり手を握られた。抱きしめられた。
「えっ。これは本当のことだろうか。僕を見る優しいまなざし・・・」
学校では年上の学年の人たちも、同級生と同じ目を向けてきた。
ユシムはほっと胸をなでおろした。ここでは僕は一人のランナー。九人の中の一人。
「皆さん、ありがとう。あの、僕を仲間に入れてくれて・・・」
ユシムはそれだけ言うと、恥ずかしさに下を向いた。
「当たり前だろ、ユシム。」
「さあ、一緒に走ろう。」
「一番年下だからって甘えさせないぞ。なにしろ君は最終ランナーだからね。」
「そうだ、そうだぞ。いっしょに頑張ろう。」
にぎやかな笑い声と共に、九人はグランドへ飛び出していった。
つなぎ走は、海沿いの砂地あり、谷あり、山ありの多彩なコースであったため、練習メニューは一人ひとり違う。しかしメンバーは互いに協力しながら、一人ひとりの走力が上がるように工夫した。
この練習は、仲間と共に走る新しい喜びをユシムにもたらした。
ユシムの笑顔が、日一日と増えていき、おのずと心に感謝は広がっていった。
ニ
よく晴れ渡った朝だった。ユシムは、スタート地点の中継所に到着していた。
ユニフォームは、練習時に着なれたおそろいのソンパト州の文字が入ったオレンジのシャツだった。もう自分によく馴染んでいる。
これを着ると、仲間の笑顔も身につけているような気がした。
「龍さん、大好きな仲間。僕は大好きと言える友ができたよ。
今日、僕は走るよ、龍さん。聞こえる?
ボスと一緒に!仲間と一緒に!それでいいんだよね、龍さん。
森はボスと僕の散歩の場所だけど、これから走るところはいつもとは全然違う。
知らないところだ。ずっとずっと高いところも行く。
黒の森に改めて挨拶してくるね。
大好きなヒューイを背中に、走る。」ユシムは心に誓った。
日の出と共に、最初のランナーがスタートする。
待合室にある大型テレビから、スタートの映像が映し出された。
いつも笑顔の一区のランナーが、今引き締まった表情をしている。
「頑張れ、ありがとう」と心の中でユシムは声をかけた。
やがて、二区のランナーにヒューイを背負ったタスキが渡った。五位だ。
何位でもいい。ユシムは二区のランナーにも「ありがとう」と心の中で声をかけた。
三
森の入り口の中継点では、森の走り方の注意が確認された。
練習時に聞いてはいたが、もう一度頭に入れようと耳を傾けた。
「皆さん、只今全州のランナーが二区に入りました。まだまだ皆さんが走るまでには時間がありますので、中継所区域内でゆっくりなさってください。
これから九区の注意事項を伝えます。しっかり頭に入れてください。
森には係員がわかれ道各所にいます。その指示に従い、道に迷わないように気をつけて走ってください。ポイント地点に係員がいます。
百メートルごとに設置されたカメラが皆さんを追っています。近道はできません。
片側が崖になっているところには、転落防護ネットが下に貼られているので、安心してください。
ただしネットに落ちた時は、そのまま棄権となり、登っての再走はできません。
追い越しは崖がある部分では危険ですのでできません。追い越し禁止区間で追い越しがあった場合は反則とみなし、棄権となります。
給水は、五か所に設置してありますので、あわてずに給水してください。
以上よろしくお願いいたします。
それでは各州のアンカー九名の皆様、頑張ってください。」
九名と各州の世話人が解散した。
これまで平地での合同練習でかなり走りこんだし、森の中はボスとの散歩で慣れてはいたけど、コースの下見はできない。
これはどこの州も条件は同じで、安全上防護ネットなしの状態で練習してはいけないことになっていた。防護ネットは設置に多くの手が必要なことから、大会前日に一斉に行われた。
ユシムは緊張のため、他の州のランナーを見ることができずにいた。
「君、どこの州の子?身体小さいな。」
「何歳なの?」
話しかけられていることに気付いて、ユシムはあわてて答えた。
「あ、ソンパト州です。十二歳です。」
「えっ、十二歳?」
「もっと学年が上の子で、アンカーできる子いなかったの?」
「・・・・・・」
背が高く年長らしい雰囲気を持ったランナーが目を丸くして言った。
「いや、失礼に聞こえたらごめんね。ただまだ年齢も低そうな小柄な君が、重い責任を負わされてかわいそうな気がしてしまったんだ。」
「そんなの走ってみなければわからないことだわ。」
女の子の声だ。ユシムははっとした。
「なんだろう、この懐かしさ。」とおずおずと声の方を見ると、
「そんなこと余計なお世話というものだわ。」
声の主は言葉を重ねた。
「そういう君も女の子だものね。女の子がアンカーというのも珍しいよね。
テラは小さな州だから、人材不足というやつかな。」
ユシムより少し背が高そうだ。日に焼けた顔には、強いまなざしのすらりとした少女が立っていた。ずいぶん走りこんでいるらしく、足は筋肉が浮き出てカモシカのように細い。
「馬と一緒に走っている女の子だろ。君はなかなかの有名人だよ。君の走りを楽しみにしているよ。といっても、僕より後ろだと見えないけどね。」
「ソンパトの君のことは知らないなあ、初めてだね。
去年はどこの区にもいなかったよね。初つなぎ走でいきなりアンカーということなんだろ。すごいじゃない。君の走りも楽しみだよ。」
昨年優勝のモトエ州にアンカーとして活躍したルイという少年だった。
「僕は、今年が最後の、少年つなぎ走なんだ。最後にもう一度優勝する。そのために練習も重ねてきた。君たちに勝ちは譲らないよ。」
自信に溢れた笑顔だった。ユシムは少しうらやましさを感じた。
あんなにかっこいい笑顔、僕にはこれから先もずっとできないな、そんな気がした。
「気にすることはない。あなたはあなたらしくらしく走ればいいのよ。」
「あ、ありがとうございます、」
少女が真っ直ぐにユシムを見たので、ユシムはどぎまぎして口ごもった。
「じゃ、頑張りましょ、お互い。」
優しい響きを残して少女はその場を去った。
ユシムは心臓がばくばくして息苦しくなった。
もしかしたら・・・・・
馬・・・・
憧れのあの人・・・
「ふっ、僕きっとかっこわるいな、ここにいる人たちはみんな自信にあふれてカッコいい。なんだか自分だけが場違いな感じ・・・・」
「だめだ、こんなこと考えてちゃ。初めてできた仲間が今ヒューイをつないで僕につないでくれる。僕を仲間として認めてくれたあの人たちのためにも頑張らなくちゃ。」
ユシムは、外に出た。
少し歩こう、と中継所の外れまで来た時、視線を感じて、その方を見た。
優しい視線のその先にいたのは、キラだった。
キラは両親と姉とともにいた。
一瞬足がすくみ迷ったが、キラに向かってユシムは歩き出した。
「ユシム君、ごめんなさい。」
キラが頭を下げた。続いてキラの家族も一緒に頭を下げた。
「ううん、もういいんです。元気になりましたから。あの、キラ君」初めてだった。自分から呼びかけるのは。
「いいよ、キラで。」
「あの、今日のことありがとう。君が僕を推薦してくれたって聞いたんだ。ありがとう。」
言えた。ありがとうって、キラに僕、言えた。
「ありがとう、はこっちの方だよ。出場してくれてありがとう。よかった。
君に走ってほしかったんだよ。」
「どうして?」
「君が速いから。君が犬と森を走っているのを見た時から本当にアンカー走るのは自分ではなくて君だってわかってたんだ。
あの時、だから君がいなくなれば、走るのは自分だけって。
だから走るべき人が走って。本当にごめんなさい。そしてありがとう。」
キラが僕に嫉妬したんだって?心底からユシムは驚いた。
「来年は君が走って。」
「いやだね、来年は僕も走る。でも君も一緒だ。アンカーを競い合おう。同じチームでね。」
「うん、ありがとう。」
「また言ってる。ありがとう。」
そんな二人をキラの両親と姉が微笑みながらみつめていた。
ユシムとキラは同時に腕を伸ばし、握りこぶしを作り互いの肘を自然にからませた。
「初めて見た。おもしろい握手ね。」キラの姉がいった。
ユシムはワルト氏から学校の様子を聞いていた。
その中には知らずにいたかったこともあった。
一カ月後、学校へ戻ったキラと他四名は、これまで仲間だった者たちがから手のひらを返したような冷たい視線を向けられていた。
キラの家では引っ越しや転校も話しあわれたようだ。
しかし、キラはガンとしてそれを受け入れなかった。
「逃げない。」とキラは言ったそうだ。
しかし、そのキラも学校は休みがちだという。
冷たくする相手が変わったというだけなんだ、学校のみんなは・・・ユシムの胸中は複雑だった。
ユシムはキラの思いも背負って走ろう、そう思った。
今自分にはできることがある。
思えば、この場に立っていることがとても不思議なことだ。
全ては龍に出会えてから、何もかもが変わった。
崖から落ちたからこそ、僕は龍に会えた。
そう考えると、あの出来事さえも必要だったことに思えてくる。
今が幸せだからそう思えるのだ。
龍は、僕の中の記憶を僕に見せてくれた。
龍は、僕自身なんだ。
僕の中に龍はいる。龍こそ僕なんだ。
だから大丈夫。
僕は龍を元気にできた。自分を金色に輝かせることができたんだ。
僕自身を大切にして、僕の周りの人たちを大切に思って・・・
そのたびごとに龍は輝いたんだ
龍に前世を見せてもらって以来、この国の歴史に興味を持つようになった。
ヒューイのこと、ヌカのこと、国の成り立ち・・・知りたい。調べたい。
お父さんとの勉強は、そのための土台になる勉強だ。すごく楽しい。
みんなにはずいぶん遅れているけれど、僕は僕のペースでじっくりやっていきたいんだ。きっとそのうちみんなのところに行けるかもしれない。
ユシムは晴れ晴れとした気持ちになった。
四
太陽は一番高いところをとっくに過ぎている。
新しい区間に入るごとに順位は入れ替わった。
どこの州もどのランナーも・抜きつ抜かれつ懸命に走っている。
すでにユシムの前、八区までヒューイの絵姿は繋がっていた。
最終九区を走るランナーたちは、それぞれ身体をほぐしたり、走りこみをして身体を温めていた。
トップを走るランナーが中継点に近づき、騒がしくなっている。
一番から五番までの州のランナーが待機線に呼ばれた。
ユシムの名はまだ呼ばれない。
ユシムについているソンパトの係員が、一区ごとに状況を説明してくれたり、テレビで確認もできたがテレビ中継はあまり見ないでいた。
順位に一喜一憂したくなかったのだ。
ソンパトのヒューイを繋いで運んでくれる仲間にただ『ありがとう』を心に持ち、そして言いたかった。
昨年優勝のモトエ州のルイは五番でコールされていた。
またテラ州の少女は二番でコールされていた。
「はい。」
凛とした声が心に流れ込んだ。
「あの声・・・名前は、ラナというんだな。」ユシムは胸が騒いだ。
ふと、「僕の走りを見たいなんて言っていたな・・・」とよぎった。
それが実現するのは、ユシムの走りがとんでもなく速いという場合だけだ。
見せたい・・という強い想いが湧き出ていることにユシムはとまどった。
「龍さん、僕変だよね、こんなこと思うなんて。」
すると
「ただ、走れ。」不意にあの懐かしい声が聞こえたような気がした。目を閉じると金色に輝く龍が空に向かって上へ上へと首を伸ばしている姿が浮かび上がってくる。
「七番、ソンパト州、ユシム君」 あ、呼ばれた!
自分の名前がコールされたことでびくっとして飛び跳ねた。
待機線に向かう。小さく八区のランナーが見えた。いつも笑顔で僕を励ましてくれていたサーレンさん。相当苦しそうだ。足がつっているのか、ぎくしゃくした走りになっている。目いっぱい力を出し尽くしているんだ。
「あと少しだよ、頑張って。」ユシムは思い切り大きな声で呼びかけた。
ありがとう、ありがとう。サーレンさん。身が引き締まる。
「ユシム、頑張れ!」キラの声だ。どこ?探せない。
しかし大きくこくりとうなづいた。
キラはそれを見ていた。
ユシムはサーレンに「ありがとう、サーレンさん。ありがとう。」
と手を振った。
ヒューイの巻かれたタスキは大きくなる。来た!
ユシムは手を伸ばした。サーレンの手がユシムの手に触れた。
「ユシム、頼んだぞ。がんばれ。」サーレンの目元が汗と盛り上がってきた涙で光っていた。
しっかりとタスキを受け取ると、ユシムは走り始めた。
「ボス、走るよ。いっしょに走って。」
思わず心の中でボスに呼びかけていた。
ユシムは、いつもの通りのペースで走っていた。
森の入口にある中継所を過ぎると、すぐに上り坂になる。道幅があるので追い越し可能区間だが、六番目の背中が見えない。
八番がすぐ後ろに迫っているようだ。足音がだんだん大きく響いてくる。
しばらく行くと、道幅が急にせまくなり、足場も石ころや岩が多くなってきた。
木の枝や枯れ葉がところどころに散乱している。
ユシムにとってはいつもの散歩と変わらないが、他のランナーにとっては、一定のペースを保てない難所に入り始めていた。
ユシムは軽々と岩場や土盛を上がった。
でこぼこの坂ではどこに、足を置くかが重要になってくる。
ユシムは迷うことなく安定した場所をみつけることができた。
周囲の高い木々の枝が、ほてった体に清涼な空気を送り込んでいる。
気がつくと後ろの足音が遠ざかり、独りぼっちになっていた、
鳥の鳴き声が枝々の間を通りこだまする。
六番手を走るランナーの背中が見えた。
ユシムは、まずそこまで行こう、と力が湧いてきた。
背中はぐんぐん近くなってきた。勾配のきつさに息が上がっているようで、
「ハア、ハア、ハア、ハア」という呼吸の音が大きい。
道はさらに狭くなり、係員が『追い越し禁止区間』の看板の横にいた。
給水のテーブルが設置されていて、コップが見える。ユシムは素早く手にすると走りながら飲みほした。「ふ―っ」思わず声がもれた。
六番手のランナーが手に届く位置にいるが、抜くことはできない。身をかわすのは簡単にできそうで、抜き去りたいという衝動を抑えるのがたいへんだった。
まだ息は上がっていない。広いところに出るまで待とう。待て!待て!と自分に言い聞かせた。
やがて広いところに出て、『追い越し禁止解除』の札が見えた。
ユシムは一気に抜き去った。我慢していた思いが開放され、ユシムのスピードはぐんぐん上がった。
やがて五番手の背中が見えた。その背中を目指して走ると、背中はみるみる大きくなっていく。
「すごい!僕ランナーとして走ってるよ。ボス、君なんだ、僕の足をこんなに強くしてくれたのは。ありがとう、ボス!」ユシムはつぶやいた。
五番手をあっという間に抜き去ったが、それはモトエ州のルイではなかった。ルイはもっと先に行っているのだ。
五番手を抜き去るとその先に四番手、三番手らしき二人の背中が小さく見えてきた、
係員らしき人の姿と看板も見える。
ということは、道はさらに狭くなるのだろう。
ユシムは、二人に追いついておこうと考えた。自分の呼吸も荒くなっている。
いつもはこれほどの上りを一気に駆け上がるということはないので、疲れが足に来ているような気がする。
足場が危うく木々の間のけもの道のようなところに差し掛かっているため、はっきりとした一本道ではない。迷わないように二人を追った。
しだいに二人が大きくなる。
よし、追いついた。
二人は後ろから、小さなユシムが迫ってきたことにびっくりしたようだった、
とたんに焦りの表情が浮かんだ。一人はもう限界だという表情にも見えた。
追い越し禁止区間に入った。ユシムのペースより少しゆっくり目だ。
「いよいよ崖だ。」
真ん中を走る四番手に当たるランナーが、息を切らしながら、どちらに言うともなくつぶやいた。
「暗いね。」
三番手が答えている。昨年も出ているのだろうか、気軽に受け答えしている。
三人の縦走が続き、視界が開けた。同時に追い越し禁止区間解除の立て札が見えた。
「よし。」
ユシムは大きく横に出ると二人を抜き去った、
「えっ、速い。」と言う声が遠ざかっていく。
「あと、何人?テラ州のラナとモトエ州のルイの背中に迫れたら・・・」とユシムは思った。
一人になってアップダウンのくり返しを過ぎた頃、足が笑っている状態になった。下り時の方が楽に見えるが足には大きい負担がかかる。
係員が手を振っている。看板を持っている。
「ここから崖だ。山際を走りなさい。安全第一だぞ。スピードを上げるところじゃないぞ。」
優しい人だ。片側が崖だ。ユシムは転落した崖を思いだした。
一方の山側もかなり狭まっていて、足場の危うさがさらに増した。崖下にはネットが張られているという。
足場は幅が一つ一つ全く違う階段状の岩が連なっているが、小柄なユシムにとって足を上げても届かないところがありそうだ。よじ登らなければ上がらない。
と思っているところに、
「アー―ッ」という大きな声が聞こえた。
必死で先に進むと、そこにはテラ州の少女ラナがいた。崖から足を踏み外している。
しかし崖下に伸びていた枝に手がかかったらしく、両手を枝にかけ宙づりになっていた。
ユシムは無意識のうちにその場に行き、近くまで崖をくだっていた。
ユシムは近くにあった木の枝に手をかけ、少女に向かってもう片方の手を伸ばした。
「あ、あなた何やってんの。さ、先に進みなさい。
私にかまっていたら遅れる。じ、自分のレースに・・・」
ラナは、両手で体重を支えながら、声を振り絞った。
「さあ」
「今 何もしなかったらあとで後悔する。
ネットまで落ちなければレースに戻れるんでしょ。」
ユシムは必死で手を伸ばした。
少女は、片方の手を枝から外し、ユシムの手をがっしりと掴んだ。
ユシムは思い切り少女を胸元に引っ張った。
少女が足を突き出た岩にかけると、ふっと軽くなった。
二人は手を離し、道に向かって枝々につかまって上り始めた。
「あ、ありが・・。」息を切らしてにラナが言った。
ユシムが先につき、振りかえって少女にもう一度手を差し伸べ、いっしょに道に戻った。
ユシムは急に恥ずかしさが襲ってきて、手をぱっと離した。
顔が真っ赤になっているのがわかる。しかし相手も全身の力を使ったために全身が真っ赤になっていたので、ほっとした。
「すぐに戻って。頑張っ・・・」
「あなたは?」
「す、すぐは無理。もう少し休んだら・・」
そう言った直後に、ユシムと少女の脇をすりぬけようとした少年がいた。先ほどユシムが抜き去った少年の一人だった。
「待って。ここは・・・」ラナは追い越し禁止区間と言いたいが声が出ない。
「道から少し外れている、君たちが。」
「み、道に・・」ラナは戻っていると伝えたい。
「外れてた。」
「いいんだ。後を走ります。」
ユシムは彼の後にぴったりとついた。ユシムに激しい脱力感が襲ってきた。
少女を引っ張り上げるために力を使ったため、全身がわなわなと震え、足にも疲労が来ていた。腕は思うように振れなくなっていた。
前を走る彼について行くことで精いっぱいかもしれない。
ユシムは疲労感に愕然となった。
「頑張って―っ。ありがとうーっ」
後ろからラナの声が聞こえた。精いっぱいの声だ。
「そうだ、僕がこのまま失速したら、ラナが気にする。」
肩を回し身体をほぐしながら走った。
ユシムは、石ころ道を蛇行しながら、足の上下をなるべく少なくする形で走った。
比較的平らなところでは腕や首を回しながら走った。
五
ワルト氏は、ただ感慨深かった。テレビは、ただひたすら前を行くユシムの姿を映し出していた。思わず涙がにじむ。
学校に通う幼いユシムを見かけるようになって、この少年の様子が日に日に沈んでいくのがわかった。気になって仕方がなかった。
それがなぜなのかは分からない。しだいに家族のことも気になって、密かに調べさせてもいた。
手助けする機会が訪れればと考えていたが、思わぬ形でそれが現実になった。
一つ間違えば命を落としかねないたいへんな事ではあったが、ユシムは周りの者に多くの学びをもたらした。
まず自分がそうだ。ユシムから教えられたことは大きい。
事故後のユシムのまなざしには、こちらの心が洗われるような尊い何かが宿っていた。それをなんと名づけて良いのかわからない。人に勇気を与える何か。
私は変わった。ユシム一家の喜びを自分の喜びとして感じるようになった。
ユシム一家だけでなく、多くの家族の笑顔を見たい。ただ寄付するだけでなく、その笑顔を自分の喜びと感じるこれからを作っていきたいと思えるようになった。
自分の生きざまに悔いはない。しかしユシムは私に新しい喜びを教えてくれた。
人の幸せを心から願う喜び。
六
ク―ラは、アリ―とレシムと共に教会でユシムのゴールを待っていた。
テレビに映し出される我が子は、あまりに凛々しく眩しかった。
ランナーを大きく映し出す背景の中に、小さく小さく少女を助け上げるユシムの姿があった。気付いたものがいるかどうかわからないほどの大きさで一瞬の映像だった。
自分が恥ずかしくて仕方がない。
自分のすぐ近くに大切な宝はあった。それなのに自分は気付こうともしなかった。
何かが人より秀でていること。名誉、地位、優秀な子ども、愛らしい妻、家柄・・・
ク―ラは外面的なものに価値を見出していた。
それを得ていたつもりでいた。
いつのまにか人を見下していた。
ないと思うと、努力をやめた。
その結果、子どもにあれほどのつらい想いをさせた。痛い想いをさせた。
自分にすべて非があった。
自分の人生を変えてくれたのは、自分が背を向けた我が子だった。
ユシム、あまりに輝いて、暗闇にいたこの父には眩しすぎるよ。
君は私に大切なことを教えてくれた。気付かせてくれた。
なにより君は私を許してくれた。この父を見捨てず「勉強を教えてほしい。」などと言って、私を生かしてくれた。
ユシム、すべてを周りのせいにして、運命から逃げた父に道を与えてくれた。
君の瞳の中の溢れるものが、あたたかで、父は涙が出てくるよ。
父も、これからもう一度生き直しだ。
ありがとう、ユシム。
そして、ただひたすら澄んだ瞳で私を見るレシム。
君は待望の長男だった。
君がかかえる問題を知った時、私には乗り越えられない課題だと感じたんだ。
ごめんよ、レシム。
君が私の元に来て、初めて私は間違った道を進む足を止めた。
自分が進もうとしていた道は、間違っていた。
そのことにやっと気付けたよ。
長い時間がかかってしまいごめんなさい、レシム。そしてありがとう。
七
やがて崖が途切れ、道幅も広くなってきた。
追い越し禁止解除の看板が見え、ユシムは前を走る少年を再び抜いた。
「やられた。速いな。」
少年が明るく言った。
「頑張れよ。後一人だ。」
短い時間ではあっても「森の道を共に走った仲間」だった。
さらにきつい坂が目の前に広がった。しかしその先は木々だけだ。
「頂上?」
とうとう森の頂上についたのだ。後は下るだけだ。
トップを走るランナーの気配が全く感じられない。森は静まり返っている。
相当先にいるのだろう。
一番手は、モトエ州のルイその人だ。
下りは、転がるように下れるが、足の置き場を間違えると転落してしまう。
慎重に足を置かなければいけないのだ。跳びはねるように下りたくなるのを堪え、ユシムは注意深く足場を選んだ。
後ろから来る気配もない。係員さんたちを見るとほっとする。
九区は、他の区と違い全く応援の声や顔がない。観客の身の安全が保証できないところであるため、森を走る九区だけは応援禁止だ。そのためランナーは孤独な走りになる。
どれだけ下りたのか、どれだけに時間が立ったのかもユシムはわからなくなっていた。
「独りぼっちだ。ずーっと。」
ふと、嫌な思い出がよぎった時、「ウオン、ウオン、ウオン。」と犬の吠える声がこだましたような気がした。しかしそれはすぐに消えた。
「そうだ、ボス、ごめん。いっしょに走ってくれてたね。忘れるなんてだめだよね。ボス、ありがとう。」
ユシムは自分を奮い立たせた。
長い時間、濃い緑色の中にいたユシムの目にいきなり青空と草の海の景色が広がった。その先には先端がとがった白い高い建物が見える。
そして、前には一人の若者のたくましい背中があった。
なんて美しいんだろう。彫刻にでもなりそうな無駄のない身体。その身体が黙々と進んでいる、教会に向かって。
ユシムは一枚の絵画を見ているようだった。
教会に一番にすべりこむにふさわしい美しい少年の像。
僕が邪魔してはいけない。そんな気持ちが襲ってきてユシムは足を緩めた。
「みんなほめてくれる、きっと。七番めでタスキを受け取りニ番まで行ったんだ。充分だよね。
龍さん、もういいよね、僕の龍さん。」
「君の背中にいるのはだーれ。」懐かしい龍の声が自分の内側から聴こえてきた。
「ヒューイ」ユシムは答えた。
「君は誰?。」うちからの声。
「僕は王子だった。セナとシキナギを逃がしたシトだった。姉と弟を心の底では羨んだハガンだった。」
ユシムは思い起こしていた。
「みんなにありがとうって思えたんだ。自分にも・・そしてもっともっとたくさんの人にありがとうと言える生き方をしたい。」
ユシムはわかった。自分が望む自分の姿。心地よく生きる。
「そのために今することは?
君は後悔したくないからと少女を助けた。」龍が静かに尋ねてきた。
「わかった。」
ユシムは走った。ただただ走った。何も考えず。ただ走った。
教会の門近くに金色のゴールテープが見える。
教会の尖塔の上に、龍の姿が見えた。金色の鱗が光る背が青空に映える。口を天空に向け、キラキラと輝いている。
「あれは僕なんだ。」
ただ、天空の龍の姿を目指して。
ユシムの耳にたくさんの人々の歓声が聞こえてきた。
「ユシム、後少し、頑張れ―っ」
「えっ、僕の名前、僕の名前をたくさんの人が呼んでくれている。どうして?
みんなどうしたの?ありがとう、ありがとう。」
「わーっ」と「おーっ」が一緒になったような轟わたる歓声が聞こえた。
足がもつれてる。息が苦しい・・足よ、前に行ってくれ・・ユシムは思った。
隣で「えっ」と驚く顔が見えた。その顔が後ろに流れたかと思うと、ユシムは金色のゴールテープを腹で受け、そのまま白い布のようなものに倒れこんでいた。
大歓声と地鳴りのような拍手がユシムを包んだが、とうのユシムはスーッと意識を失っていた。
ソンパト州の人々が皆抱き合って泣いていた。そんな姿を目にすることもなくユシムは、そのあと三日三晩眠った。
翌日の新聞の一面に飾られたのは、サ―ハルケン国の国王自らが小さなランナーを抱きとめている珍しい写真だった。
国王は、「思わず係員が待ちかまえている前に出てしまい、抱きとめてしまった。」と話した。初めてのことだった。
またソンパト州が優勝を勝ち取ったのは、この大会が始まって以来初のことだった。
ユシムの背中のヒューイは、車でゴールまで駈けつけていた八人の仲間が気を失っているユシムを抱きあげ、ユシムの背中からタスキを外し、、九人全員で国王に渡した。
これも初めてのことだった。
新聞には、安心した表情で目を閉じているのはユシムだけで、他全員が笑っている多様な写真が掲載された。
号外はとぶように売れた。
ユシムが、ソンパト州のヒューイの絵姿を目にしたのは、目をさました四日目の朝だった。
朝食後ユシムがしたのは、ボスとの散歩だった
「ボス、ありがとう。君のおかげだよ、走れたのは。
さあ、今日も行こう。待っていてくれてありがとう。」
古代、この国の空には色とりどりの龍が泳いでいたという。
その龍たちの胴から下は空の色に溶けあった澄んだ青。
その日の空に金色に輝く雲を一瞬でも目にした者がいたとすれば、それは龍だったかもしれない。
完




