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作者: 筆影

ものすごく久々ですがまた物語を書いてみました。ありがちなストーリーだけに、最後をきれいに終わらせる事に気を使ってみました。お楽しみ頂ければ幸いです。

1

先週までのじめじめとした空気がまるで嘘のようだ。

六月が終わり、初夏の日差しが空を青く染め上げていた。

広いリモニウム畑に横たわる一本道を、獲物を狙う軽自動車が走り抜ける。

目的の建物の前に着くと、ヒラノはバックミラーで口紅を塗り直した。

農園を始めて二十数年で全国にリモニウムブームを仕掛ける事に成功し一財産を築きあげた人物、カワムラコウタの屋敷である。


彼は人間嫌いで有名な人物だったが、経営の腕は当代一流と言われていた。

大量の花や種、必要な農園用品などを無料で配布し、リモニウムの利用法や栽培方法を積極的に全国に広め、一大ブームを巻き起こした。

加えて花そのものの品種改良や利用法の研究を進め、良質の製品を出荷し続ける事で需要をさらに増やし、農園と工場を含めてその従業員は今や七百人を超えるまでに成長した。

ところがこれだけの規模になっても彼は販促活動は一切行わない。

彼自身のメディアへの出演も全て断り続けていた。

今回取材に成功すれば、ある種のスクープと言えるだろう。

一年半にも及ぶ交渉の末に手に入れた取材許可である。

どうあっても逃すわけにはいかなかった。


軽く深呼吸をし、インターホンのボタンを押す。返答が無い。

十秒程待った後再度ボタンを押した。活力的とは言えないものの、深く落ち着いた声が今度は返事をしてきた。

「はい」

『飛鳥経済新聞社のヒラノと申します。取材の件で参りました』

「ああ、分かった。今出るよ」

足音が近づき、玄関の扉が開く。

やり手の経営者で一切の取材を断り続けた男、そのイメージからはかけ離れた穏やかな表情に、ヒラノはいささか拍子抜けを感じた。

『お目にかかるのは初めてです。改めまして、飛鳥経済新聞のヒラノです』

「電話でだけのやりとりだったからね。お待ちしてましたよ。どうぞ」

受け取った名刺を眺めながらカワムラは目を細めた。


「男の一人暮らしだからね。大したおもてなしもできなくて」

マグカップに入れたコーヒーを受け取り、ヒラノは勧められたウッドチェアに腰を下ろした。

『いえ、どうぞおかまいなく』

通されたのは書斎だった。リモニウムの切り花や関連の書籍、パソコン、大きめの出窓とそこに並べられた大小の植木鉢。その他は取り立てて目を引くものが無い。書斎までの廊下も実に簡素なものだった。

カワムラコウタという人間は実業家でありながら、物欲には非常に疎いように見受けられた。

「さて。あなたが聞きたいのは私の経営手腕について、だったっけ。経済新聞の方だものね」

『はい。カワムラさんの成功は農業の世界では群を抜いています。しかもその方法論は型破りなものばかり。中には完全に儲けを考えておられないんじゃないかと感じるものまであります。今日はその辺りの秘密についてお伺いしたいと思いまして』

ペンとノートを取り出しながらヒラノはカワムラの目を見据える。

「秘密か。あなたがたにはそう見えるのだろうね。なんだかんだと言っても企業の目的は結局は儲ける事。その定義からすれば確かに私がやってきた事は一種のばくちのように見える部分もあっただろう。でもね、それこそが大いなる勘違いというものなんだ。私にとってこの農園の成功は副産物でしかないんだよ」

『どういう事でしょうか』ヒラノが尋ねる。

「私の目的は金儲けじゃなかったんだよ。会社を大きくしたのは利益の追求の為じゃない。ただ私の目標、いや、夢を叶える為にその方が都合がよかった。それだけの話なんだ」

部屋の電灯は点けられていなかったが、出窓から差し込む柔らかな光で充分に部屋は満たされていた。

「私の農場経営、その方法論についてのみ知りたいのなら、このまま帰られた方がいいんじゃないかな。私は自分の経営について一度も自己分析を行った事が無い。つまり知らないんだよ。なぜ自分が成功したのか。だから当然それについて話す事も何もない」

ヒラノの取材経験では、成功者のタイプには二通りがあった。

自身の才覚に揺るぎない自信を持ち、雄弁に語る者。

成功譚ですら商品と捉え、価値を釣り上げる為に出し惜しみをしようとする者。

カワムラは一見後者のように思えたが、そこに駆け引きは一切感じなかった。

「少し意地悪だったかな。せっかく生まれて初めてまともに取材を受けたんだ。あなたとしても手ぶらで帰ると怒られてしまうだろうし、良かったらこのさえない中年親父の思い出話でも聞いていってくれないかな。今日本中に広がっているリモニウムの、いわばルーツについての物語だよ。あなたの取材目的に沿っているかどうかの保証はできないけどさ」

少しはにかみながらカワムラが尋ねた。

ヒラノは記者としてのプロ意識よりも、個人的な好奇心に押されて答えた。

『お願いします。ぜひ』



風が吹き抜けて夏の色を運んで行く。

日はどこまでも高く、空はどこまでも蒼い。

溢れる光の中一面に、リモニウムの花がただわらっていた。






2

「私には大切な人がいた。同い年の女性だよ。もう調べてあるかも知れないけれど、私は幼い頃に両親を亡くしてね。引き取られた親戚の家では、まぁよくある話、邪魔者扱いだったんだよ。そんな中、彼女と彼女のご両親は私をまるで家族のように扱ってくれた。彼女とはずっと一緒だった。そしてまるでそうある事が当然であるかのように、私たちは付き合い始めた。彼女のご両親も暖かく見守ってくれて、大学を卒業する頃には自然と結婚の話が出ていたんだ。彼女は・・・失礼、ヒラノさん。あなたのご両親はご健在かな」

『二人とも殺しても死なないくらいです』

「あはは、それは結構なことだね」

カワムラの笑顔を見ながら、ヒラノは段々とこの初老の男性が、生き馬の目を抜くようなビジネスの世界で成功し続けているという事実に疑問すら感じ始めていた。

「お母様のお名前を伺ってもかまわないかな?」

『母はカエデと申します。きへんに風で、カエデです』

「いい名前だね。これから話を続けていく上で彼女を彼女と呼び続けるにはあまりにも味気ない。が、彼女の本名を今日初めてお会いしたあなたに明かす気にもなれない。20年以上も誰にも話さず守ってきたものだからね。分かって貰えると嬉しいんだけれど」

『それはもちろんです』

ヒラノが強く首を立てに振る。社交辞令ではなく、心から同意していた。

「ありがとう。彼女がもし今も生きているとしたら丁度あなたのお母様と同じくらいだ。この物語の中でだけ、お母様の名前をお借りしてもいいかな」

『大丈夫です。私が伺いたいのはお話の内容であって、彼女さんのお名前ではありませんから』

「微妙な顔をされるかと思ったが、さすが新聞社の方だ。第三者の視点に徹底されているね」

感心を示すように小さく頷き、カワムラが続ける。

「大学を卒業して一年くらい経っていたかな。彼女・・・カエデと私は結婚式に向けて式場を回っていたんだ。あの五日間の事は、今でも昨日の事のように思い出せるよ。いや、忘れた事なんて一度も無かった」

マグカップを手に取り、コーヒーを一口啜った。目線はヒラノにではなく、出窓の遥か遠くに向けられていた。

「忘れた事なんて、一度も無かったんだ」

まるで自分に言い聞かせるように、カワムラはもう一度つぶやいた。

意識が二十数年前の自分自身と重なる奇妙な感覚をカワムラは感じていた。




「大体このあたりが一般的なプランですね。あとはご予算に応じて、オプションのご用意がございますよ。ご検討頂けましたら幸いでございます」

『うん、分かりました。どうもありがとう。ちょっと二人で考えてからまた寄らせて貰いますね』

「またってお前、これでもう十軒目・・・」

コウタは最後まで言わせて貰えなかった。気がつくと式場におり、また気がつくと次の式場に向けて移動している。

ここ一月ほどは土日はいつもこうだ。

コウタはいい加減うんざりしていた。

『女の子にとっては結婚式は一生に一度の晴れ舞台なの。文句言わない。さぁ、次!』

コウタはもはや溜息をつく気力すら失くしていた。

女性の結婚式にかける熱意は今まで散々聞いていたが、カエデのそれは予想を超えていた。

『後は目白の式場ね。ネットの情報だとここも結構評判良かったんだ。大きな鐘が置いてあるらしいよ』

「鐘も良いけど、飯も良いんじゃないか?式場は逃げな・・・」

今回も言い終わらないうちにカエデに手を引かれてしまう。駅に電車が着いたのだ。

休日の山手線は混んでいる。駅から式場までの僅かな徒歩の時間、その中でもさらに儚い信号待ちの時間。

今はその時間だけがコウタの休憩替わりとなっていた。

そのつかの間の安らぎの時間、横断歩道の前で二人が立ち止まったとき、カエデが呟いた。


『幸せだね、コウタ』


手を繋いで信号を待ちながら、胸の奥で心臓が跳ねるのを感じた。

これだから俺はこいつから離れられないんだな。

コウタは溜まった疲れが引いて行くのを感じていた。

「またいきなり、そういうことを・・・」

やはり最後まで言わせて貰えず、手が引っ張られる。

やれやれと青信号に弾かれてカエデが飛び出しているはずの左斜め前を見るが、誰もいない。

信号はまだ変わっていなかった。

代わりにコウタは自分の左側にカエデが消える気配と、どさりという音を聞いた。

「カエデ!」

呼びかけに返事は無かった。顔が苦痛に歪んでいる。

景色が色を失っていく。目の前の光景を受け入れられず、瞬間に失いそうになるコウタの意識を恐怖が現実に押し戻した。

「カエデ!誰か、誰か救急車を!早く!」


病院に着いてからもかなり長い時間が経つまで、コウタはカエデの名前以外言葉を発する事ができなかった。

忘れられないはずの時間の中で唯一、この時だけが曖昧でよく思い出せない。

ただ、音だけがコウタの耳にこびりついていた。カエデが崩れ落ちたあの音。

重力が悪意を持ち、コウタからカエデを引き剥がそうとしているように聞こえた、あの音。



それは、明るかったはずの二人の未来が軋んだ、最初の音だった。






3

カエデの両親は、カエデが搬送されてから3時間程して病院に到着した。

出迎えたコウタにカエデの父が駆け寄った。

「カエデの様子は」

「今のところは落ち着いています。先生が、お父さんとお母さんが来られたらすぐに診察室に来るように言われてます」

「分かった。母さん」

元々気が弱くおとなしいカエデの母は、夫に手を引かれていなければどこに行けば良いのかも判断できない様子だった。引きずられるようにして二人についてゆく。

診察室には医者と看護師の女性が一人いたが、三人の到着を確認すると看護師は部屋を出て行った。

医者のデスクのモニターにカエデの頭部のレントゲン写真が表示されている。

脳のやや上部に白い濁りが確認できた。決して良い状態ではないのだろう。

勧められるままに三人は椅子に座った。

「まず病名からお話しましょう。特殊原発性脳腫瘍、これがカエデさんの病気の名前です」

白を基調とした明るめの診察室に、暗く重く医者の言葉が響く。

声を発する者はいない。見つめる事で、医者に説明の続きを促した。

「脳腫瘍は大きく分けて転移性と原発性の二種類があります。体のどこかで発生した腫瘍が転移したものが転移性。直接脳で生まれたものが原発性。カエデさんの腫瘍は後者にあたります。失礼ですが、カワムラコウタさんはどなたでしょうか」

「僕ですが」コウタが答える。なぜ医者は自分の名前を知っているのだろう。コウタは胸の疼きが背中から頭に広がり、やがて全身を包むのを感じた。

「失礼ですが、ご関係は」

「婚約者です」

「そうですか」一呼吸おいて医者が続けた。

「名前の通り、この腫瘍は通常の腫瘍と異なる特徴を持っています。まだ症例は多くありませんが、現時点の研究ではシナプス間でやりとりされる神経伝達物質を糧として成長する事が分かっています」

「どういう意味でしょうか」カエデの父が尋ねる。ただでさえ聞きなれない単語が出てきた上、動転しているせいでうまく理解ができない。

「分かりやすく言えば、脳の活動の一番活発なところに巣くう性質を持っているという事です。そしてもう一つの特徴として、この腫瘍は高いレベルで脳細胞と癒着するため、外科手術で取り除くのは不可能である点が挙げられます」

冷静な口調ではあるが、告知する側も決して愉快ではない事が表情から読み取れる。

聞いている三人は言い知れぬ不安や理不尽な怒りをぶつける場所を見つけられずにいた。

「娘は助からないんですか」カエデの母が始めて口を開いた。

「助かる、助からないで言うならば、ほぼ確実にカエデさんを救う方法があります。特徴が明確であったため、比較的早く特効薬が開発されているのです。この薬を使う事で、腫瘍そのものと癒着している脳細胞は死滅させる事が可能です」

「ではその薬をすぐにお願いします!」カエデの母が身を乗り出す。叫び声に近い声だった。

医者は無言でしばらく母を見つめたあと、コウタに視線を移した。

「カワムラさん、なぜ私があなたの名前を知っていたか、疑問に思われたでしょう」

「はい」コウタはやっとの思いで小さく答える事ができた。

この男はこれから自分にとって何か恐ろしい事を言おうとしている。

手先が震え、言う事を聞かなくなってきた。

「薬の投与で、腫瘍は殺せます。しかし先ほど申し上げた通り、その腫瘍が巣くっていた個所の脳細胞も死ぬ。結果的に記憶が一部失われるのです。腫瘍の特徴から必然的にその失われる記憶は患者が最もよくアクセスする記憶となります。その記憶が何にまつわるものなのかは、現在では投薬と催眠診断で特定できるのです」

再びコウタに視線を送りながら、医者が続けた。

「人によってその対象は異なりますが、カエデさんの場合は人名と思われるものでした。カワムラコウタさんは、あなたですね」

「あ・・・」コウタの返事はもう言葉にはならなかった。

「脳細胞は自己修復できません。その為、一度この病気で失われた記憶はもう元には戻りません。それだけではなく、失われた記憶の対象が再び患者の前に現れた場合、脳が大きなダメージを受け、死亡したケースも報告されています。つまり、もし投薬を行った場合、その瞬間からカワムラさん、あなたはカエデさんの安全のために、カエデさんと会うことができなくなるのです」

医者は三人に聞こえぬよう溜め息をついてから先を続けた。

「なぜ記憶の対象に再び出会うことで脳がショックを受けるのかは、まだ解明されていません。断片化した記憶の混乱ではないかと言われています。外科手術の成功例は残念ながらまだありません。私は医者として特効薬の投与が適切だと考えますが、最終的な決断はご本人とご両親、ご婚約者のカワムラさんでよく相談なさってお決め下さい」

ここで初めて医者は三人から目を外し、モニターの方に振り向いた。

「レントゲン写真を見る限り、腫瘍はかなり肥大しています。お辛いでしょうが、三日以内にお決め頂くのが理想です」



窓から差し込む夕日が眩しかった。カエデはまだ目を覚ましていない。

「カエデへは、私から言うよ。コウタ、お前は一度家に帰りなさい」

幼い頃から常にカエデの家に入り浸っていたコウタをカエデの両親は自分の子供のように優しく、時に厳しく接していた。

コウタもまたカエデの両親を自分の両親のように感じていた。

その父が一番辛い役目を引き受けてくれると言っている。

自分への不甲斐なさを感じながらも、コウタはそれに甘える事にした。



前方に細く伸びた影に引きずられながらコウタは歩いた。

いつもの帰り道がとてつもなく広く長く感じた。

二人で何度この道を歩いてきた事だろう。

今夜は眠れそうもないな。ようやくそれだけを考え、その日コウタは自分の中に閉じこもった。






4

コウタが目覚めたのは昼を少し回ってからだった。

明け方頃までただ目を開けていた記憶はあるが、その後眠ってしまったようだ。

なぜ昼間のこの時間に自分が部屋で寝ているのか多少混乱したが、数秒して自身が、そしてカエデが置かれている状況を思い出し、ようやくコウタは泣くことができた。

それはコウタの中でようやくこの出来事を現実として認識できたことの証拠でもあった。



『おはよう』

カエデはもう目覚めていた。表情はいつもと変わりが無い。笑顔だった。

傍らにカエデの両親がいた。軽く挨拶をしたあと、コウタに夕食までであれば車いすでの外出許可が出ている事を告げ、席を外した。

「調子はどう?」

『少し頭痛がするけど、もう大丈夫』

「そうか。昨日は本当にびっくりしたよ」

『あはは、ごめんね。私もびっくりした』

少し困ったようにカエデが笑う。コウタはカエデが倒れてから初めて僅かだが安心感を覚えた。

まだ一日も経っていないのに、もうかなり昔の事のようにも感じる。

『いきなり目の前が真っ暗になっちゃってさ。何が原因だったんだろ。お医者から何か聞いてる?』

自分の鼓動がカエデに聞こえなかったかを、コウタは一瞬心配した。

――――お父さんはまだ何も言っていないんだな。

この後どうするべきなのかを模索するが、思考が追いつかない。

「いや、まだ何も」

動揺を覚られぬよう表情を意識して緩ませ、椅子に腰をおろす。

『そっか・・・なんちゃって』ぽかんとする様子のコウタを見て、いたずらっぽくカエデが笑った。

『さっきお父さんから聞いたよ。変わった脳腫瘍なんだってね。大丈夫、全部聞いてるから。コウタも一緒に説明受けたんでしょ?しかしキミはウソが下手だなあ』

にやりとするカエデから顔を背け、コウタは不機嫌をアピールした。

「お前はこんな時にまで俺を・・・」

『海に行こうよ。海を見に行きたい』

コウタを遮ってカエデが言った。目は真っすぐコウタを見つめている。

コウタはカエデの瞳の中に、答える者に対し選択肢を与えない強い光を見た。

「大丈夫なんだな?夕食までには戻すぞ」

『うん。早く行こう。時間はそんなに無いみたいだから』

時間、という言葉がこれから夕食までの話をしているのか、それとももっと大きなものを指しているのか、コウタには分からなかった。



ようやくレンタカーを借りてお台場の海に着いた頃には、日が傾きかけていた。

『やっぱ海はどこもいいね。私たちの横浜の海にはちょっとだけ叶わないけど』

「良くなれば、家の近くの病院に移れるさ。それまでの辛抱だよ」

『うん。そうだね』

二人は手を繋いで砂の上に腰を下ろした。

海岸にはカップルや親子連れが数組いたが、まだ梅雨が明けたばかりのこの時期に泳いでいる者はいない。

波が寄せては引いていく。

地球に海が誕生してから今日まで気の遠くなるような永い時間、この動作は繰り返されてきたのだろう。

若い二人にとって毎日の生活はそれに似ていた。

変わらず繰り返し続けると、心のどこかで信じていた。

『あの頃はまさかコウタと結婚するなんて夢にも思わなかったよ。私結構モテるんだよ?知ってた?』

「全然」

『あはは、やっぱウソが下手くそだ』

二人とも海の方を見ていたが、お互いの表情は手に取るように分かっていた。

「俺だって結構モテるんだぞ。高校の時なんて、4人から告白された」

『知ってるよ。でもコウタは誰とも付き合わなかった』

「それはもっといい女が・・・」

『私の事が好きだったからでしょ?ずっと』

図星をつかれ、コウタの次の反撃は唸り声に変わった。

『もちろんそれも知ってたよ。コウタの事はなんでもお見通し』

「うるさいな。いいじゃないか。かっこいいだろ。一人の女に思いを寄せ続けて十年なんて、並みの男には・・・」

『うん、かっこいい』

思わずカエデの方を振り返ると、カエデもコウタを見て笑っていた。

途端にコウタは二の句が継げなくなる。元々話すのが得意な方ではないのだ。

『だから私の彼氏にしてあげたんだよ』

「かわいくない女だな」

『でもたまに素直でかわいいなって思うでしょ。で、そこが良いんでしょ』

またも図星だった。これから先もこいつといると尻に敷かれ続けるんだろうな。

そう思った直後、コウタは胸の奥が締め付けられるのを感じた。

胸の痛みをかばうように、膝の上で組んだ腕の中に顔をうずめた。

この先という言葉が示す漠然とした未来が、今はもう見えない。

つと、カエデはコウタの手を離すとコウタにもたれかかった。

柔らかく崩れる波音と子供の歓声をなぜか遠くに感じる。

そしてその音に吹き消されてしまいそうな小さな声で、カエデが言った。

『ごめんね』

もうコウタには耐える事ができなかった。顔の下の砂が静かに濡れてゆく。

『もっといっぱい話したい事があるのにな』

コウタの声は嗚咽に変わり、砂の間に吸い込まれていった。

『ごめんね、コウタ』

まだ始まったばかりの永遠が、終わりを告げる音を聞きながら、カエデとコウタはいつまでも、ただ泣き続けた。




波間をたゆたい反射した赤い日の光が浜辺を包みこみ、そして消えていく。

肩を寄せ合って震える二人に近づく(とき)の足跡に、その歩みを緩めようとする気配はない。






5

翌日、コウタは面会可能時間と同時にカエデの病室に着いた。

カエデはすでに起きており、ベッドに腰掛けながら雨に濡れた窓を見ていた。

『おはよう。今日も行きたいとこがあるんだ』

「外出許可は大丈夫?出てるならどこでも」

『朝一で先生に聞いたよ。また夕方くらいまでなら大丈夫だって』

「分かった。じゃあ40秒で支度しな」

『できるわけねーだろ』

二人は少し、笑った。



カエデが行きたがったのは二人が通っていた中学校だった。

二人の母校であると同時に、今はカエデにとっては職場でもあった。

平日だったが生憎の天気のせいか校庭に人はいない。

『懐かしいでしょ。私にとっては日常だけど』

「すごいな。全然変わってない」

『中の人以外はほとんどね。私の今の教室はあそこ』

カエデの指差す教室には明かりが点いている。

『今日の代理はホソヤ先生だったかな。そして私達がいた教室はあそこ』

コウタとカエデは中学2年の時のみ同じクラスだった。

小学校から同じ学校であったにも関わらずそれ以前もそれ以降もクラスが被った事は無い。

そのためコウタもよく覚えていた。

『そしてカワムラコウタ君が当時学校一の美少女に告白したのがこっち』

校庭の隅の体育倉庫のわきに小さなスペースがあった。目立たないが日当たりが良い為、レンガで仕切られた猫の額程の花壇が置かれていた。

「んん、よく覚えてないな。そんな事あったっけ」

『キミはウソが下手だなぁ。じゃあここで再現してあげよう』

「今思い出した。大丈夫」

コウタが傘で顔を隠し、カエデに背中を向ける。

声色だけで表情まで見抜かれてしまうカエデに対するささやかな抵抗だった。

『よろしい。ほら、見てみなよ。綺麗に咲いてるよ』

カエデがしゃがんで花壇に誘っている。コウタはカエデの傘を取り上げてたたむと自分もしゃがみ、自分の傘を二人の間に差した。

『この花の名前知ってる?』

「意外にも知ってるよ。スターチス。別名リモニウムだろ」

『正解。私が好きな花なの覚えてたから?』

「さぁ」とぼけるコウタに目を細めながらカエデが続ける。

『じゃあ花言葉は?』

「そこまでは知らないな」

『じゃあ調べておくように。カエデ先生からの宿題です』

「めんどくさ」

宿題と聞いた時の反応は中学校の頃から何も変わっていなかった。

二人のいる空間が少しだけ十年前に戻った気がした。

『香りも良いからポプリなんかにも使われるし、ドライフラワーにしても綺麗なんだよ。結婚式はこれでブーケを作って貰うんだ』

コウタは自分がカエデと式場を探していた事を思い出した。

二人で結婚式を挙げると言う事は、カエデが腫瘍の特効薬を使わない事と同義である。

カエデはコウタの表情を見て、コウタがその事に気がついたのを察した。

『二人で結婚式を挙げようよ。籍は入れなくていいから』

コウタがカエデを振り返る。カエデの目はリモニウムに向けられたままだった。

『コウタはきっと、私に薬を使わせようとする。そうすれば私は生きられる。でもコウタの記憶を失くした私は、私なの?』

しばらくの沈黙の後、コウタが答えた。

「カエデはカエデだよ。この先いつだって」

『やっぱり薬使わせるつもりだったんだ』

「・・・しまった」

うなだれてコウタが呟く。カエデに嘘をつく事ができないのが分かっていたコウタは、最後まで沈黙する事で本心を隠そうとしていた。

『私がなんで教師になったか知ってる?』

「いや、知らない」

『生き物はね、遺伝子を残すために生きてるの。それは動物も植物も同じなんだ』

「さすが生物の先生」

『でも全ての生き物の中で、唯一遺伝子以外のものも残せる者がいる。それが人間なんだよ』

目の前のリモニウムがカエデの言葉を見守っているように見えた。

『歌や、本や、絵や、言葉で、人は色んな事を後に伝えてきたの。それは遺伝子、血の繋がりなんて関係ないの。人間は自分の前に居る人みんなに、自分の知識も想いも伝える事ができる。こんな素敵な事って他に無いと思わない?だから私は先生になったの』

「そうだな」心からコウタは同意した。カエデが自分の職業に対して抱いていた思いをコウタは知らなかった。

『私はコウタが好きだよ。他の誰よりもコウタが大好き。私の中の一番大きくて一番大切な気持ち。それを私の周りにいてくれるみんなに伝えたい。私にはこんなに大事な人がいるんだよって。だから結婚式はどうしてもあげたいんだ。大好きなリモニウムでブーケを作ってさ』

花びらが受け止めた雨粒が、地面へと落ちていく。

『特効薬の通称、知ってる?アンインストールって言うんだって。パソコンからソフトを消す時と同じように、決められたものだけを消去して全体には影響を及ぼさないからだって。コウタ、お願いだよ。そんなもの私に使わないで。私が私じゃなくなっちゃうよ。この気持ちを私から殺さないで。そしてこれから誰と一緒になってもいいから、私がコウタを大好きだった事を忘れないで』

雨が二人を包み込むように振り続けている。初夏の雨に冷たさは感じなかった。

「帰ろう。病院までは遠いんだから。今は何があってもおかしく無いんだぞ」

コウタは立ち上がり、カエデを促した。相変わらず一つの傘のままであったが、今度こそ表情を読み取られぬよう、車までの道をカエデと目を合わす事はなかった。



二人が病院に戻ると、カエデの両親が病院で待っていた。

「コウタ、少しいいか」

カエデとカエデの母を病室に残し、コウタとカエデの父は待合室に移動した。

カエデの父は自販機で缶コーヒーを二つ買い、一つをコウタに手渡した。

「今日お前たちを待っている間に、母さんと二人で話をしてたんだ」

「はい」穏やかな表情だったが、カエデの父の顔には決意の色が浮かんでいた。

「カエデは私達の娘だ。だが、あの子の未来はあの子のものだ。そして将来を共に生きる事を約束しているコウタ、お前のものでもある」

待合室には他に入院患者と思しき初老の男性が新聞を読んでいたが、二人の会話が聞こえている様子は無い。

「特効薬を使うかどうかは、お前が決めなさい」

コウタは黙ってカエデの父を見つめた。

「私達はお前がどちらを選んでも、それに従うよ。昨日も今日も二人で出かけて、きっと今まで話さなかった大事な事も話してるだろう。お前達の人生はお前達で決めるんだ」

コーヒーを一口啜り、カエデの父が続けた。

「二人とも、私達にとってかけがえの無い息子と娘だ」

この先何があったとしても、どれだけ長く生きるとしても、これより重く辛い決断をする事は無いだろう。コウタは小さく、しかし力のこもった声でカエデの父に応えた。

「分かりました」



朝から降り続いた雨はようやく上がり、雲の切れ間に月が見える。

濡れた夜道が月の光の中に浮かび上がっている。

アンインストール。ふざけた名前だとコウタは感じた。

今日はカエデの本心を聞いた。生きるとは、愛するとはどういう事なのだろう。

正しい選択とは一体なんなのだろう。

自問しながら彷徨うコウタの進むべき道を、夜空の月も照らそうとはしない。






6

翌朝五時を回った頃、コウタの携帯が鳴った。病院からの連絡だった。

ジャケットだけを掴み、すぐにコウタは病院へ向かった。


病室でカエデは眠っていた。

酸素用のマスクがされており、顔色が悪い。

部屋に居た看護師がコウタに容体を説明した。

今は落ち着いているので、しばらくすれば目を覚ますだろう。

しかしいつ悪化してもおかしく無い状態なので、しばらく外出は控えた方がよい。

カエデの両親にはすでに連絡してあるので、二人が着き次第担当医の診察室まで来て欲しい。

それだけ告げると看護師は一旦部屋を出た。

「カエデ」

呼びかけに返事は無かった。コウタはカエデの手を握った。

白く冷たい指だった。心なしか、数日前よりも痩せて感じた。

「いつだって二人だったな」

ゆっくりと雛を抱くように、カエデの手を両手で包みこんだ。

この手に何度引きずられ、何度導かれたことだろう。

コウタの手より一回り小さいそれはいつも力強く、そして優しかった。

一つ一つを噛みしめるようにコウタは今までの出来事を振り返っていた。

そのどれもでカエデは笑っていた。散々喧嘩もしてきたはずだったが、怒った顔も泣いた顔も思い出す事ができない。

コウタの中で、カエデはいつでも笑顔だった。

「カエデ、俺はお前に―――」


病室のドアが開いた。カエデの父と母がカエデに駆け寄る。

表情からまだカエデの容体について詳しい説明を受けていない事が伺われた。

コウタは看護師から聞いた事をそのまま二人に伝えた。

「分かった。とりあえず先生のところに行こう。母さんはここでカエデを見てやっててくれ」

コウタとカエデの父は主治医の診察室へ向かった。


「残念ですが状態は思わしくありません」

MRI写真を見ながら医者が言った。

「薬を使うかどうかはお決めになられましたか?」

「まだです」

うつむきながらコウタが答える。

「まだ彼女と充分に話ができていなくて」

「ご存じかと思いますが、どんな病気にも共通して言える事は、発見とその処置は早ければ早いほど患者の生存率は高まると言う事です」

コウタは黙って聞いている。医者は言葉を慎重に選びながら続けた。

「外科手術の成功例がまだ無い事はお話しましたが、もし外科手術も薬も使わない場合は症状を抑える為の治療を続けるか、もしくはホスピスという選択肢もあります」

「先生、ホスピスというのは」カエデの父が尋ねた。

「終末期ケアの事を指します。治療を行わず、安らかな最期を迎える事のみに集中したケアです。腫瘍の場合痛みを抑える為にモルヒネ等も使用します」

苦しい沈黙が病室を覆っている。職業上何度も味わっている空気だったが、いつまでたっても慣れないものだと医者は感じていた。

「医師は、患者を治療するのが仕事であり目的です。その立場から言わせて頂くなら、選択肢は一つしかありません。しかし、生きる事が生命を維持する事と同義では無いのであれば、話は違ってくると思います」

「どういう意味でしょうか」今度はコウタが尋ねた。

医者は最初にカエデの病名を告げた時と同じ表情でコウタの目を見つめた。

「生きるとは、寿命を全うする事だけを指すのではないと私は考えています。医師としては失格なのかも知れませんが」

困ったように微笑んで医者が続ける。医師としての葛藤を患者の家族に話す事に自嘲を感じているのだろう。

「人には命よりも大切なものがあるのかも知れません。それが何なのかは人それぞれだとは思いますが、カエデさんは今それを選ぶ事ができる状態なのです」

医者はコウタだけを見て話している。最後の選択は自分たちに任されている事を、カエデの父から聞いたのであろう。

「ご決断に余計な迷いを与えてしまったかも知れませんね。ただ、難しいとは思いますがいずれの選択にせよ、あなたにもカエデさんにも後悔だけはして頂きたくないのです。それが最良だったかどうかは後にならないと分かりませんが、一人の人間が悩みぬいて出した結論に、間違いなど無いのですから。いずれにせよ、全力でサポートする事をお約束します」


二人が病室に戻ってもカエデはまだ目覚めていなかった。

カエデの母が二人を心配そうに見つめていたが、二人は何も語らなかった。

コウタはカエデの脇に腰をおろし、カエデを見つめた。

呼吸が荒く苦しそうにしている。もし代わってあげられたら、とコウタは考えた。

代わってあげられたら、自分はどうして欲しいと思うだろう。

『コウタ』

カエデが薄く眼を開けている。

「カエデ」

すぐにコウタがカエデの手を握った。

「お父さん、お母さん」

両親がカエデの傍にかけよった。

苦痛に顔を歪めながら、振り絞るようにカエデがコウタに語りかけた。

『昨日お願いしたこと、約束してくれるよね。二人で式を挙げるんだ。みんなに見守って貰いながら』

カエデの手を握り締めたままコウタが答えた。

「そうだな」

『色んなところにも行きたかったけど、私はそれで充分満足だよ。大好きなコウタと小さい時からずっと居られたんだから。かわいくない彼女だったね。ごめんね』

「そんな事ないよ。カエデはいつだって俺にとっては・・・」

コウタはそれ以上続ける事ができなかった。

『たまには最後まで言わせてあげようと思ったのにな』

乱れた呼吸の中、カエデが笑った。

『お父さん、お母さん、ごめんね。どれだけ親不幸なのかは分かってるつもり。でも私は最期までコウタと一緒に居たいんだ』

カエデの両親は涙を拭う事を忘れたまま、消え入りそうな程小さな声に懸命に耳を傾けていた。

『コウタ、約束してくれるよね』

カエデが再びコウタを見た。二人の間で想いが交錯する。

二人はいつでも、二人だった。

「約束するよ」

コウタを見つめるカエデの瞳から涙がこぼれた。

安心しきった、安らかな顔だった。

『良かった』

カエデはそのまま目を閉じ、再度意識を失った。

荒い呼吸が続いている。

「先生を呼ぼう」

カエデの父がナースコールのボタンを押した。

程なく医者が病室に駆け込む。瞳孔反応を診た後、看護師に道具と薬を指示している。

コウタはそれを眺めながら、映画館でスクリーンを見ているような錯覚に陥った。

登場人物に自分を重ね合わせ一喜一憂する。

そして時間がくればまた元の暮らしへと戻っていく。

それらは全てが想像の世界の出来事だからだ。物語はいつか必ず終わる。

だが、今コウタが見ている世界は現実だった。

カエデは生きている。手を握ればそこに命の流れを感じる事ができる。

二人は出掛ける時はいつも手を繋いでいた。そしていつも互いの温もりを感じていた。

何が二人を別とうとしても、この先それを忘れる事は絶対に無い。

コウタは浮ついていた意識と意思が、自分の中に戻って来るのを感じた。

「イソバイドを用意。早めの処置が必要だ。脳圧を・・・」

「先生」

コウタが医師の処置を遮った。病室の時が一瞬止まる。

全員がコウタの方を振り返った。

コウタの顔は涙で濡れていたが、そこに迷いは微塵も存在しなかった。




「カエデに。アンインストールをお願いします」






7

西日が部屋に長い影を作っている。

コウタは出窓のブラインドを下げ、部屋の明かりを点けた。

暖色の光に包まれると、殺風景な部屋もそれなりの趣がある。

『その後、彼女さんはどうなされたんですか』

「さあ。調べていないからね」

『あなた程の経済力をお持ちなら、すぐに調べられたのでは』

「調べてどうするの?消息を知れば会いたくなるに決まっている。私はこれで、案外意思が強いんだよ。でなければここまで会社を大きくできなかったろう。その意思が彼女に会いたいという想いに全力を傾けたら、私は自分で自分を抑える自信が無い」

コウタは三杯目のコーヒーに口をつけた。

「彼女に投薬したその日から、私は彼女の両親とも連絡を絶った。彼女の命を脅かすどんなリスクも犯さない為にね。もちろん両親にはきちんと事情を説明し、納得して貰った上でだよ。ところがその一週間後、彼女から私宛に手紙が届いたんだ。配達日指定郵便だった」

『ご両親からですか』

「いいや。封筒にはリモニウムの花が一つと、見なれた彼女の筆跡でたった一言だけ書かれていた」

もう一度マグカップを口に運び、一呼吸おいてからコウタは続けた。

「キミはウソが下手だなぁ、とね」

『じゃあ彼女さんは・・・』

「そう。分かってたんだろうね。私がきっとそうするだろう事を。花は二人で学校に行った日に摘んで帰ったんだろう。結局私の行動は全てお見通しだったわけだ。彼女は本当に賢い人だったから」

まるで自分の事のように誇らしげな顔だった。

ヒラノは目の前のコウタと、話の中でしか知らないカエデをなぜか羨ましいと感じた。

「そして私はそれまで勤めていた会社を辞め、リモニウムの栽培を始めたんだ。彼女の前に現れる事ができないなら、彼女が好きだったもので日本中を埋め尽くしてやろうと思った。そうすればいつか彼女の手にも、私が育てた花が届くに違いないとね」

いつしかヒラノはメモをとる事を忘れてしまっていた。

『彼女さんの宿題はもう終わられましたか』

コウタは意味ありげにヒラノに視線を送り、質問に質問で返した。

「取材対象の事は当然隅から隅まで調査済みでしょう?当然その商品の詳細についても」

『はい。記者として当然です』

今度はヒラノが誇らしげな顔で返した。

コウタは一瞬、父親というものの気持ちを理解できた気がした。

『リモニウムの花言葉は、変わらない想い、永久不変、です』

「そう。あとはいたずら心、なんてのもね。私にとってリモニウムは本当に彼女そのものだったよ。おそらく彼女は最後にくれた手紙のリモニウムに、その花言葉を託してくれたんだろう。それに気付いた時は大泣きしてしまった」

照れくさそうにコウタが笑う。

「そして、私が泣いたのはそれが最後だった。あとはもうがむしゃらだったさ。もう失くすものは何も無かったからね。どんな思い切った決断だって私にとっては大したものではなかった。彼女に投薬するかどうかのあの決断に比べれば」

一つ大きく息をついてコウタが続ける。

「会社を作ったのはリモニウムを全国に拡げる手段としてとても有効だったからだ。栽培で得た収益でさらにリモニウムを普及させる。専門でやってる農家なんてほとんど無いから、いつしか市場は私のところの独占状態、莫大な利益が出てくる。それをさらに普及に使う。経営者の観点からすれば見事な経営手腕と言える」

『その通りです』ヒラノはここでようやく取材目的を思い出した。

「だが本質は違う。最初に私が経営者としての成功は副産物に過ぎないと言った意味が分かって頂けただろう。私が見ていたのは最初から最後までリモニウムだけだったんだ。そして成功の秘密は惚れた女が居たから。我ながらなんてキザなんだろう」

二人は笑った。コウタが声を出して笑ったのは久しぶりだった。

「でも、本当のことだ。どうだい、経済紙の記事としては良い物に仕上がりそうかな?」

『難しいかも知れませんね』

ヒラノが笑いながら顔をしかめて見せる。これは当然の事と言えた。

コウタは経営に関する具体的な事は何一つ述べていない。

「そうだろうね。でもそれじゃあ余りに気の毒過ぎるから、一つくらいはネタになりそうな話をプレゼントさせて貰おうかな」

『願っても無い事です』ヒラノが置き去りになっていたメモを再度手に取る。

メモを取る準備が整ったのを見計らい、コウタが先を続けた。

「近いうちに、私は社の持ち株を全て手放す気でいる」

ヒラノが目を見開く。

『それは余りにも・・・』

「うん。突然過ぎると自分でも思う。まだどこにも知らせていないから、それなりのスクープにはなるでしょう」

『なぜ突然そんなご決断を』

「北から南まで、リモニウムはもう充分に拡がったと思ったから。というのは理由としては弱いかな」

『今までのお話を聞いていると、生涯現役のおつもりとばかり感じていました』

「その通り。だからこそなんだよ」

『すみません、おっしゃる意味が理解しかねます』

「私にはもう時間が無いんだ。これも非公開情報、二つ目のスクープになるのかな。実は一週間程前に倒れてしまってね。病院で精密検査を受けた」

『ご病気ですか』迷いながらもヒラノは尋ねた。

「特殊原発性脳腫瘍。奇しくも彼女と同じ病気だよ。今は薬で痛みを抑えている」

『特効薬はお使いにならなかったのですか』

「催眠検査の結果、出てきたのは彼女の名前だったんだ。使えるわけがないじゃないか」

ヒラノが言葉に詰まった。言うべきことが見つからない。

「ごめんね。困らせてしまったかな。でも私にはもう家族もいないしね。彼女の記憶を失くすくらいなら、文字通り死んだ方がましなのさ」

ブラインド越しに夕方の風が吹き込み、机の上のリモニウムを揺らした。

「株の売却で得た利益で新薬開発を支援する為の基金を作るつもりなんだ。この病気は症例が少なすぎるせいで、アンインストールの研究はあの頃からほとんど進んでいないんだよ。とりあえず命が助かれば良いというところで止まっている。私はそれを先に進めたいんだ。向こうにお金は持っていけないからね。せっかく手に入れたなら有効に使わないと」

まるで独り言を言うように俯きながら淡々と話している。

その目にふと、強い光が宿る。

「この病気は私が最後だ。私と一緒に病気にも死んでもらう」

コウタの表情は満足感で包まれていた。

ふっ、と一息ついたあと、コウタは更に続けた。

「あなたは今、自分を幸せだと思うかい?」

少し考えて、ヒラノが答えた。

『幸せだと思います。来年、結婚するんです』

「それは何よりだ。申し訳無い、見ての通りうちにはロクなものがなくて」

コウタが部屋を見渡す。それをヒラノは慌てて制した。

『いえ、とんでもない。申し訳ありません、お気を使わせるような事を言ってしまって』

「迷惑でなければ、貰っていってくれないかな。今年一番の出来だよ」

コウタが机の上のドライフラワーの花束を手に取る。

控えめだがすっきりとした甘い香りがヒラノの鼻をくすぐった。

『すみません、ありがとうございます』

「キミの幸せも、このリモニウムのように永久不変でありますように」

言葉を受け、ヒラノがはにかんだ。

屋敷に着いた時の緊張感は無く、歳相応の可愛らしい笑顔だった。

「カワムラファーム創業者の物語は以上だよ。辛い事もたくさんあったけど、私の心は最後まで私が一番大切に想っている人でいっぱいだった。贅沢な、良い人生だったよ。記事、楽しみにしていますね」

『貴重なお話を、本当にありがとうございました』

もうすぐこの部屋には主が居なくなる。

これが最初で最後になるであろうこの農場の空気を、そして時間を、ヒラノはいつまでも心地よく感じていた。



軽自動車が砂煙をあげて来た道を帰ってゆく。

そのリアウィンドウを見送りながら、ヒラノから渡された名刺を改めて見つめる。


―――ヒラノ、モミジか。

良い名前だ。話には聞いていたけど、名前も顔も聡明さも君にそっくりだった。

私も少しはウソがうまくなっただろう。

結婚祝い代わりにあの子にスクープをあげたいって思ったんだけど、少しは役に立てたかな。

君は人間だけが唯一遺伝子以外のものを残せる生物なんだと言ってたね。

今後私達と同じ病気になる人がいて、副作用の無いアンインストールがその人を救ったら、その人は、その周りの人達は喜んでくれるかな。

私は先に待ってるから、君はできる限り遅くにおいで。

あの子と、ご主人と、この世の全てをよく味わってから。

長いような短いような時間だったよ。

自分では結構頑張ったと思うんだ。

もしまた向こうで出会えたら、君は褒めてくれるかな。


また私の事を思い出してくれたら、嬉しいなぁ。



もうモミジの車は見えない。視線をそのまま空に送ってみる。

リモニウムに浮かぶ夕焼けの向こうに、カエデの笑い声が聞こえた気がした。

最後まで読んで頂いてありがとうございます。

断言しますが、コウタは最期まで自分が幸せだと感じていました。

これを読んで下さった方が、いつまでも大切な人と一緒に居られる事を願って。

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