田辺、八屋、三上
「やぁ、熊野」
「どうも社長」
「俺のことは田辺、もしくは定一郎と呼んでくれと言ってるだろ?」
「ええ、でも慣れなくて」
「まぁ、いいや。お、お前は梅酒か。俺は焼酎だ」
「焼酎好きなんだね」と僕は言ってはみたものの、石か何かを吊るしているかのように口はうまく動かなかった。やっぱり、社長にタメ口というのは、なんだか怖い。
「まあな」
「そういえば、社長は居酒屋とか行くの?」
「居酒屋? まぁ、学生時代は行っていたな」
「最近は?」
「行っていないな」
「社長になってからはどんな店に?」
「なんだ、飲みに連れていって欲しいのか? お偉いさんと飲むときは八屋ばっかり連れていってたからな。今度、飯食う機会あったら連れてってやるよ」
「ああ、それは嬉しいな」
僕の話聞いていたのかな? それとも話をはぐらかした?
「母親は元気か?」
「ええ、元気ですよ」
「そりゃあよかった。俺も体動かさないといけないな。定年退職したら田舎で畑でも耕して暮らそうかな」
この社長にそんなことが出来るのだろうかと一瞬思った。ずっと都会で暮らしてきたボンボンにはきついだろう。だが、度胸と根性は僕の倍はありそうな人だ。もしかしたら、なんなくこなしてしまうかもしれない。
「そういえば、お父さんは?」
「親父?」と社長は一瞬動きを止めた。目がさらに開いたように見えた。
僕は聞いてはいけなかったことなのかと、心が止まった。
「いや、あの」
「元気だよ。あのくそ親父。会長とやらの席に座っているが、どうにかして平社員にできないものかね。そうなったら俺が会長になって八屋かお前を社長にしてやれるのに」と社長は笑った。「ところでお前、恋人はいないのか?」
「残念ながら」
「なんだ。じゃあ、紹介してやろうか。お嬢様でよかったらな」
「いや。僕はどうしてもそういった感じの方はちょっと」
「そういった感じの方って、随分と遠くから言ったな」と社長はまた笑った。がははといった擬音が似合いそうな笑い方だ。
「その前に社長はどうなの?」
「俺? 恋人くらいいるさ」
「え? どんな人なの?」
「なんだ、お前はそっちの方にも興味があるのか」
「いや、なんだか意外で」
「なんでだ。俺に恋人がいたら意外なのか?」
意外だ。社長はそういった空気を出さないのだから。しかし、公私を分けて考えている人だ。仕事の上でしか付き合いのない僕が、それに勘付くことができないのも仕方がないことなのかも。
「いや、そういうわけじゃないけど」
「ないけど、なんだ?」
「いや、別に……」
「ふっ」と社長は笑いも漏らした。「まぁ、いずれ紹介しよう」
社長はぐびぐびと焼酎を飲みほした。テーブルにある一升瓶は二本目ではないのかと勘違いしてしまいそうな勢いだった。
「お前は母子家庭だったな」
「はい」
「俺は父子家庭だ。といっても教育係はついていたけどな」
「はい」
「母親は俺が小さい頃に病気で死んだ」
確か癌だったと聞く。
「つまりさ、母親は大切にしろよ。こう言うのも変だが、俺の代わりに母親孝行をしてくれ」
「ええ、分かってますよ」
社長は軽く二回頷いた。僕が敬語を使ったのにも気付かないくらい酔っていたが、社長にとって母親というものは大事な失くしものに違いない。その思いを誰かに託すという気持ちはなんとなくわかる気がする。
社長はグラスに焼酎を注ぐと、また大きく手を振った。三津崎さんを呼んでいるようだった。
「では」と僕は席を立った。
「ああ、またあとでな」と社長は言った。
僕は三津崎さんと交代するようにテーブルを離れた。
テラスへ続くガラス戸が開いた。八屋さんが煙草の匂いを連れてやってきた。
「社長との話は終わったかい?」八屋さんの顔はアルコールで赤く染められていた。
「ええ。とりあえず」
「何話したの?」
「うーん。何を話したかな。毎年ながら緊張してね」
「仕方ないさ」と八屋さんは僕の肩を軽く叩いて、空いている席に促した。
「八屋さんは何か飲む?」
「水を貰おうかな」
「お酒は?」
「いいや。この通り弱くてね。ビールを一杯飲んだだけで、これだよ」八屋さんは自虐気味に笑った。
僕が水を一杯八屋さんに持っていくと、彼はこめかみを抑えていた。頭痛だろうか。
「社長と飲んでいるときはどうしてるの?」と僕は水を渡した。
「ありがとう」そう言うと八屋さんは水を美味しそうにごくごく飲んだ。「あいつと飲むことなんてあんまりないけどな。ほとんどが仕事の席だからね」
「昔は、よく居酒屋に行ったと聞いたけど」
「そうだよ。学生時代の頃だよ」
「最近は行ってないみたいだね」
「行かないだろう。行けないと言った方がいいかもしれないな」
「なぜ?」
「……なぜって、仕事が忙しいからだよ。あいつのスケジュール分かってるだろ?」
「ええ。まぁ」
確かに社長のスケジュールは厳しいものだった。もちろんきちんと休みはする。ただ、休むというのも仕事のようなものと思わせるくらいの週が何度もあった。それは僕が秘書となってから変わっていない。では、いつ社長は城木さんと居酒屋で会ったのだろうか。そして、なぜ社長は居酒屋へ行ったのだろう。
「そういえば、八屋さんは僕と初めて会った日、社長にまかれたと言ってたよね」
「そうだったかな」
「なんで社長は八屋さんをまいたの?」
「さぁね。まいたといより、はぐれたと言った方がよかったかもしれないな。あの日は道に迷っていたし、だがら、まかれたと君に言ってしまったのかも」
ふうん、と僕は思った。社長とはぐれたのを、まかれたと言ったのは、八屋さんなりの洒落だったのかも。……はぐれる、まかれた、道に迷った。
「でも、そのおかげで君に会えたんだからな。いやぁ、よかったよ」
「いや、そんな」
「うん。社長は君のことを信頼しているよ。秘書としても、一人の人間としてもね。俺だってそうだよ。安心だ」
「そうですか、それは、嬉しいです」
八屋さんは社長とは違った笑いを見せた。やはり、僕の頭に浮かぶのは一昔前のドラマの主人公だった。
「君かな。第二秘書とやらは」丸々と太った男が言った。
彼は手にワイングラスを持っていた。中には血を混ぜたような赤ワインが収まっていた。
「ええ。こいつが秘書の熊野」と八屋さんは彼に反応した。
「はじめまして」僕は彼を見上げて言った。
「はじめましてだな」男は僕の真正面の席に座った。「三上だ」
「じゃあ、俺はもう一度煙草を吸ってくるよ。まだまだ酔いが冷めないみたいだ。夜風にあたらないと」
八屋さんが席から立つのを見ると、三上が「いや、申し訳ないね」と手刀を切った。
「いや」と八屋さんは笑顔でテラスへと出た。
「さて、熊野忠康さん」
「あ、はい」
「お酒でも飲まない?」
「はい。じゃあ」
「君はワイン好きかな?」三上さんの広くなった額がきらきらと光った。
「白ワインなら」
「赤ワインは?」
「あまり得意ではないかな」
「なら、白ワインを持ってこよう」
三上さんは席を立って、長テーブルに置かれていた白ワインと赤ワイン、そしてグラス一つを持ってきた。
「さぁ、飲もう」
僕はワイングラスを受け取って、白ワインを注いで貰った。
「では」三上さんがグラスを掲げた。「乾杯」
「乾杯」と僕は彼に合わせてグラスを鳴らした。そして、一口それを飲んだ。
「うん。やっぱワインは美味しいなぁ。これだよ、これ。これがなきゃ駄目だよ。いやー、美味しい。美味しいよ」
随分と喜ぶ人だなと僕は思った。ワイン好きはもっと落ち着いて、ワインについての知識をひけらかしたり、うんちくを喋ったりするもんだと思っていたのだが。それは僕の思いこみだったようだ。
「三上さんは、何をやっている人なの?」
「私かい?」
「ええ」
「ちょっと小声になるから、よく聞いてくれよ」
僕は少し顔を近づけた。
「私は殺し屋なんだ」
「……。それは……大変な職業で」
「嘘だよ」
それはそうだろう。
「本当は探偵だよ」と三上さんは小声で続けた。
「探偵、ですか」
「ああ。これは秘密だよ。知っている人は少しだ。知らない奴らには、私は中華料理屋のオーナーってことになっている」
「なぜ?」
「ちょっと、それは言えないな」
赤ワインが三上さんの中にごぶごぶと入っていった。
「社長はあなたの職業のこと知ってるの?」
「もちろんだよ。社長の田辺さん、八屋さん、三津崎さん、そして君が、私の職業のことを知っている」
三津崎さん?
「なぜ、その、僕を合わせて四人が?」
「田辺さんに信用されている三人だからだよ。君たちは白だ」
「白? 白とは? 一体何を調べているのですか?」
「おいおい。もっとフランクに。これは秘密の会話だよ」
三上さんは僕の言葉を注意した。いつの間にか僕は敬語を使っていたみたいだ。それにしても僕や八屋さんが白というのはどういうことだろうか。
「今、調査していることは言えない。でも、いずれ言うだろうな。まぁ、言う前にこの島を出る頃には分かるだろう」
「僕たちが白ってことは、黒の人もいるわけだよね?」
「いるね。まだ分からないけど」
「ええと、つまり」僕は酔いが回ってきた頭を働かせようと頑張った。「社長は白の僕たちを信用しているわけで、逆に言うと黒の誰かを信用していないと」
「信用していないというより、誰が黒か分からないから、信用も何もないということだね。まぁ、自ずと誰が黒なのか分かるだろうよ」
「あれ?」と僕はやっと気付いた。白なのは四人。三上さんは白の僕たちに職業をばらしている。他の人たちには中華料理屋のオーナーと偽っている。つまり「黒がこの参加者の中にいるってこと?」
「そうだよ」
三上さんはグラスに残っていたワインを飲み干した。
「で、その黒の人を見つけることは社長にどんなメリットが?」
「それは君、自分で考えてみなよ。白の人たちと、そのほかの人たちの違いが分かれば簡単だよ」
「なんだろう」僕はそう言いながらも、うまく考えられないでいた。白ワインが効いたようだった。
「おっとこれは秘密だからね」と三上さんが言ったような気がした。だが、本当にそう言ったかどうか分からなかった僕は、なんとなく返事をした。
三上さんはそれからいくつか質問のようなものをしてきた。僕はそれに必死に答えたが、自分でも合っているかどうか分からなかった。
「じゃあ、そろそろ私も煙草を燻らせに行こうかな。君もじゃんじゃん飲みたまえ。飲めるときに飲まないと損だぞ」
脂ぎった顔が、テラスに向かった。なぜか父親の顔を思い出した。ああ、全く嫌なことだ。あの白黒の顔。あいつは死んだほうがいい。写真で見たことはないというのは事実だ。だが僕は父親の顔を見たことがあるんだよ、サダさん。
僕はテーブルに額を乗せた。学生時代のように寝るのは久しぶりだった。