城木と三津崎
そこには笑うと笑窪の出る男が座っていた。
「いいかな?」と僕は言った。
「いいよ」と男は応えた。
「はじめまして。熊野だ」
「城木だよ」
僕らは握手をした。
僕の口からはタメ口がいつもよりすんなりと出てきた。城木さんの顔を見た限りでは年齢が僕と近く見える。そのせいかもしれない。
「この料理美味しいね」と彼は言った。
「三津崎さんが作ったんだよ」と僕は三津崎さんを見た。さっきよりも近くに彼女がいた。彼女はいつの間にか戻ってきていた花澤さんと、美静さんと話していたが、僕の視線に気付いたのか、こちらをちらりと見た。僕は目と目があったことにどきっとした。
「ふーん。彼女って管理人だよね?」
「そうだね。毎年料理も作ってくれるんだよ」
「毎年ってことは、第一回アイランドパーティーから?」
「……たぶん。僕は五回目からしか参加してないから分からないけど。たぶん、そうだったはず」
「若く見えるけど、何歳なんだろうね」
「さぁ」と僕は知らないふりをした。
「そういえば、城木さんは何やってるの?」
「仕事?」と彼は言って、スパゲティを口に入れた。
彼はグラスにビールを注いだ。近くにあった新しいグラスに僕も注いでもらった。
「乾杯」と僕らはグラスをあわせた。
「俺の仕事はライターだよ。ライターだったと言うべきかもしれない」
「なぜ?」
「辞めたんだよ」
「そうなんだ」
僕は唐揚げを口に入れた。少し冷めてはいたが、ニンニクの効いた味付けはビールによく合った。
「……なんで辞めたか聞かないの?」と彼は言った。
「なぜ? 聞いてほしいの?」
「いや」と彼は笑った。「ただ、前に話した男がさ。名前なんだったっけ――ああ、サダとか言う人がしつこく聞いてきたからね」
「僕も色々聞かれたよ。なんでこの会社に入ったのか、実家はどこだ、親は何をしているんだってね」
「俺も聞かれたよ。……ところで、親は何をやっているんだい?」
僕は大きく笑いそうになったのを堪えた。そのせいで、鼻で笑ったようになってしまった。
「ただの農家だよ。近くに住んでいる友達とやっている」
「友達と?」
「うん。父親が死んでから、そこに脱サラした友人夫婦を呼んで一緒にやっているんだ。なかなかうまくやったみたいで、僕も大学にいけた。奨学金も無しにね」
「それはなかなかだな」
「感謝してるよ」
僕は普段、母親に言わない言葉を口に出した。いつかこの言葉を素直に言えればいいのだが、その日は来るのだろうか。
「実は、僕も父親がいないんだよ。母親が一人で育ててくれてね」
「そうなんだ」
「うん。今もスナックでママとして働いてるよ。お互い感謝しないとね」
僕と彼はグラスのビールを飲み干した。そして、お互いにビールを注いだ。
「そういえば、城木さんはどこで社長と知り合ったの?」
「飲み屋だよ」
「飲み屋?」
「うん」
「それは居酒屋とか?」
「そうだよ」
意外だった。あの社長も居酒屋なんて行くのか。てっきり、バーや料亭にしか行かないものだと思っていた。
「それでどんな話を?」
「世間話だよ。どんな仕事をやっているかとか、どんなふうに生きてきたのかとか」
「へぇ、意外だな」
「そうなの?」
「だって、社長だよ? 居酒屋なんて、行かないものだと思った」
「社長って普段、居酒屋いかないんだ」
「たぶん」と僕は確信がないながらも、そのはずだと思い、言った。
それから僕らはお互いの境遇について話し合った。共通点も多かった。母子家庭というのもそうだし、年齢もそうだった。ビールが好きというのもそうだった。
「そういえば、煙草ないのかな?」と城木さんは人差し指と中指を口の前で前後した。
「たぶん、テラスにあるよ」と僕はガラス戸になっている、入口とは反対側の場所を指差した。テラスは電灯で照らされていた。
「あそこから外に出られるの?」
「うん」
「熊野くんは煙草吸わないの?」
「僕は止めたんだよ」
「そうか。じゃあ、行ってきていいかな?」
「もちろん」
城木さんは立ち上がってテラスの方へ向かった。途中、グラスにビールを注いだ。随分と好きなんだなと僕は改めて思った。
テラスには社長と八屋さんがいた。その間に、城木さんが臆さずに入っていったのを見て、僕は席を立った。
僕が次に向かったのは、三津崎さんの方だった。都合良く、三津崎さんは一人だった。花澤さんと、美静さんは違う席に座っていた。受付嬢同士話すことでもあるのだろう。
「こんばんは」と僕は三津崎さんに挨拶をした。
「こんばんは」と三津崎さんは上目遣いで返してきた。
彼女は壁際にあったソファにゆったりと座っていた。ジーンズのぴったりとした質感は彼女のすらっとした足をより引き立てていた。
僕はその隣に座った。
「久しぶりだね」
「久しぶりね」
彼女はいつもと同じように、髪を後ろに束ねていた。今年も、髪を解いた彼女を見られないのかと思うと残念だった。
「料理美味しかったよ」
「ありがとう。作ったかいがあったわ」
できるのなら、僕はここで彼女に告白をしてしまいたかった。恋人を越えて、夫婦の誓いを出来るのなら、僕は社長にさえなれただろう。だが、僕にそんな度胸はない。この五年間、僕は秘めた感情を表にだせずにいた。まともに彼女の瞳、唇を見ることができない。他の女の子のものならいくらでも見ることが出来る。そこには物体しかない。だが、彼女のものはどうだ。瞳に映る景色、唇から覗く白い歯、そこから出てくる息のにさえ、僕の心を動かすものがある。彼女は一体何を持っているのだ。分からない。知りたい。写真になった思い出を取り戻そうと、必死にそれを掻き毟るような焦りがだんだんと込み上げてくる。
「花澤さんたちと話していたみたいだけど」
「ええ。若いっていいわね」
「三津崎さんも若いだろ」
「もう二十七よ」
「まだ二十七だ」
僕は空になった彼女のグラスを発見した。
「何か飲み物取ってこようか?」
「じゃあ、梅酒を」
「分かった」
僕は長テーブルへ向かうと、グラスを取って、その中に氷を三つ入れた。そして、自家製の梅酒をそこに注いだ。梅のさわやかな香りが届いた。その香りには甘味と酸味、そして僅かな渋みが合わさっていた。とろみのついた色はほどよく黄金色だった。
僕はそれを二つ持って、ソファに戻った。
「はい」僕はグラスを渡した。
「ありがとう」
「これは三津崎さんが?」
「ええ。他にもリンゴ酒もあるから、よかったら飲んで」
それからしばらく、三津崎さんとどうでもいい話をした。彼女は僕に好意を持たれているのに気付いているのか、あまり深く踏み込まれるのを嫌っているのか、彼女の幼少時の話や、家族の話はしてくれなかった。もちろん僕は知りたかったが、去年、それを聞いてはぐらかされてから、そのことについて質問するのをやめていた。
僕はどうにか彼女の好意、もしくは興味を勝ち得るために、糸口をそのどうでもいい話の中に探したが、長いのか短いのか分からない不思議な時間の中では、結局見つけることができなかった。
「熊野さん。社長が呼んでるわよ」と三津崎さんは社長が挨拶した場所を見て言った。
キッチンの前にある席には、妙に赤いTシャツが似合っている社長が座っていた。その横に空いている椅子があった。テーブルには一升瓶が置かれている。僕はあれを飲むはめになるのだろうか。
「呼んでいるのかな」と僕は後ろ髪を引っぱってくれと思いながら言った。
「ええ。だって、ほら」
社長は僕に手を振った。
「じゃあ行ってこようかな」と僕は言った。弱々しいアピールだった。
「いってらっしゃい」と三津崎さんは案の定言った。
「いってきます」僕はソファから離れた。今年も僕は何も出来ずじまいかな。いや、まだチャンスはあるさ。そんなことを頭の中で繰り返しながら、社長の隣にある席に近づいていった。