美静とサダ
僕は食堂に一列に並べられている長テーブルへと向かった。三津崎さんは、そこに様々な料理を並べていた。僕は皿を一枚取って、どれを食べようか悩んだ。モッツァレラチーズとバジルのピザも美味しそうだったし、鯖の味噌煮も美味しそうだった。つまり、洋食にするか和食にするかが僕にとっての問題だった。
皿にいくつかの料理を乗せながら、長テーブルの前でまだ悩んでいる自分自身に気付くと、僕はふと周りを見た。僕以外は誰かを見つけ、何かを話していた。パーティーが始まったら話しかけようと思っていた花澤さんは、三津崎さんと話していた。二人とも料理には手をつけず、グラスを片手に椅子に座っていた。その前にあるテーブルに飾られていた花瓶には、薔薇が一輪挿してあった。
まいったな、と僕は思った。三津崎さんの料理が美味しいのを知っているせいか、そっちばかりに気を取られていた。これはあとで社長に怒られるかもしれない。
僕は部屋を見渡して、社長を探した。社長はキッチン前の席で、中年太りをした男と話していた。こちらには全く気を向けていないようだった。
まぁ、気付いていたとしても怒らないでくれるだろう。あの人は、仕事とプライベートは分けて考えてくれる人だ。今は、僕は客で、プライベートな時間を過ごしているんだ。だから、きっと怒らない。きっとそのはずだ。
僕が料理を取り終えて、空いている席に着くと、隣の席にも誰かが座った。
顔を向けて見てみると、一向に名前を思い出せない彼女がそこに着いたようだった。彼女が持ってきたお皿には多くの料理がのっていた。
「やぁ」と僕は言った。だが、八屋さんが言ったように、たまにしか女性と触れる機会がない男の一声だったように思えてきて、恥ずかしくなった。
「あの、すみません。お名前なんて言いましたっけ?」と彼女は言った。
「僕? 僕は熊野忠康。君の名前は何だったっけ? いつも受付にいるのは知っているんだけど、何故か思い出せなくて。ああ、あとタメ口でいいよ」
「あ、そうでした――。あ、そうだった。私は美静喜美子で……」
彼女は自分の名前さえも言い難そうだった。僕も「です」を使わずに自己紹介するのには苦労する。
「あー、美静さんか。そうだった。やっとすっきりしたよ。本当は自分で思い出した方がいいんだろうけど」
「いえ、私も――。私こそ」
「飲み物はそれで大丈夫? お酒もあるけど、何か持ってこようか?」と僕は彼女のグラスを見て言った。中にはウーロン茶が入っているようだった。
「いえ、あんまりお酒は飲めないんです」
「また『です』を使っているよ」
「あ……、なれま――。慣れないな」
「気持ちは分かるよ。一年目は僕もそうだったから」
「ずっと参加してる、の?」
なかなか可愛い間だな、と僕は思った。
「五回目からかな」と僕は言って、ピザを一口食べた。
「へぇ。今まではどんなパーティーだった、の?」
「今年と何も変わらないよ。赤いTシャツを着て、ジーンズを穿いて、ご飯食べて、人と話して、一休みしたら帰る。それだけだよ」
「そうなんだ」と言って彼女は鯖の味噌煮を一口食べた。「ん、美味しい」
「だろう?」
「うん。美味しい。誰が作ったの?」
「三津崎さんだよ」と僕は端の席に座っている三津崎さんを手で示した。「管理人兼、パーティーの時は料理人だよ」
「一人で?」
「そう。一人で」
「大変だなぁ」
「そうだろうね。僕も毎年お皿洗いとかは手伝ってるんだよ」
「へぇ」
「あとで色々聞いてみるといい」
僕はピザをもう一口食べ、ビールを飲んだ。ちらりと彼女の皿を見ると、鯖の味噌煮のほとんどが消えていた。彼女は見かけによらず食欲旺盛のようだ。痩せの大食いなのだろうか。
それから僕らはとりとめのない会話をした。とりあえず恋人の有無も聞いてみたが、どうやらそれらしき人はいるみたいだった。だが、それについて僕は落ち込んだりはしなかった。彼女はいい子だとは思うが、僕は恋には落ちていない。僕にとって彼女は、受付嬢の一人だ。
「じゃあ、私、三津崎さんのところに行ってき――。くるね」そう言って、美静さんは席を立った。お皿とグラスはきちんと持っていった。
三津崎さんは花澤さんとの会話は終わったらしく、一人で椅子に座り、料理を食べていた。花澤さんはいつの間にか食堂からいなくなっていた。トイレだろうか。
「隣いいかな」と誰かが声をかけてきた。声の方を見ると、あのアロハシャツの男が立っていた。
「ええ。もちろん」と僕は席を促した。「熊野忠康だ」
「俺はサダ・タカシだ」と彼は右手を出した。
「どうも。はじめまして」と僕はその手を握って、離した。「いつも絵は見てるよ。社長室に飾ってあるから」
「そう。ありがとう。絵描きとしては嬉しいね」と彼は飲み物を口に運んだ。ウイスキーのようだった。
「君は社長の秘書だったね?」
「ええ」
「社長はどう?」
どう?
「どうとは?」
「色々だよ。仕事ぶりとか、体調とか、お嫁さんもそろそろ貰わないといけないんじゃないか?」
「うーん。……とりあえず、仕事は相変わらずだね。体調はいいみたい。元気でこのパーティー開いているし。恋人とかそっちの方は僕には分からないな。公私混同が嫌いな人だから、秘書の僕には、ね」
「なるほどね。でも、なんで公私混同が嫌いなの?」
「さぁ。社長に聞いてみれば答えてくれるよ」と僕は口を閉じた。社長が抑止しているものを、誰かに教えるつもりはなかった。だが、なぜそうしているのだろう。僕もあとで社長に聞いてみようかな。
「サダさんって、それペンネームなの?」
「そうだよ。本名と読みは同じだけどね」
「なんで、カタカナに?」
「うーん。なんとなくだな。漢字っていうのが嫌だったんだよ」
「画家になろうと思ったのはいつなの?」
「高校の時かなぁ。一年の時、サッカー部に入っていたんだけど、足折っちゃってさ。その時に、暇で絵を描いてたら、なんかはまっちゃって。担任が美術部の顧問をしていたし、サッカー部やめてそっち入ったんだよ。でも、下手くそでさ」とサダさんは笑った。「今も家にその頃のスケッチがあるんだけど、鼻の下がすごく伸びてたり、建物のドアが大きすぎて、変に見えてたり。いやぁ、初心者だったよ」
「でも、好きだったから画家になったんだよね?」
「好きっていうか、自分に腹が立ってね。三年間で上手くなってやろうって思ってたら欲が出てきて、大学でも、っていう感じで」
「なるほど」
「君はなんで、社長秘書に?」とサダさんは、こっちのターンは終了といった感じにグラスに口をつけた。
僕はターンを開始するために一度、ビールで口と喉を潤した。
「僕が社長秘書になれたのは偶然かもしれない。実家を出て、おじさんの家に居候しながら大学に通っていたんだけど、その時、八屋さんと知り合ってね」
「どんなふうに?」
「え?」
「どんなふうに知り合ったの?」
「八屋さんが道に迷っていたんだよ。それで道を教えたっていうだけなんだけど」
「なぜ八屋さんは道に迷っていたんだろう?」
「たしか社長にまかれたとかなんとか」
「社長さんはなぜ八屋さんをまいたのかな?」
「さぁ?」
なんだか話しづらい人だな。
「いいよ。続けて」
「ええ。それで道を案内しながら、世間話をしたんだよ。大学はどこかとか、親の仕事はなんだとか、就職先は決まったのかとか。そして、案内先に着くと僕は名刺を渡されて、よかったらうちの会社を受けてみないかと言われて。なんか資料まで渡されてね。給料もよかったし、受けてみようかなと思ったら、なんか合格できて」
「もし合格できなかったらどうするつもりだったの?」
「田舎に帰っただろうね。もともと田舎に帰って公務員試験でも受けようかと思っていたし」
「実家はどこなの?」
「ここに来る時に船乗った町があるでしょ? あそこから車で一時間ってとこかな」
「実家は何をやってるの?」
「農業だね。トマトとか作ってるよ」
「夫婦で?」
「いや、母親とその友達で」
「お父さんは?」
「いない。俺が小さい頃に死んだらしい」
「何歳の頃?」
「〇歳」
「写真とかで顔は見たことがある?」
「ない」
「なぜ?」
「知らない」
僕がそう言うと彼は黙った。僕の顔は今、どうなっているのだろうか。憤怒の表情を浮かべているだろうか。いや、きっと笑みに違いない。なぜかこの陳腐な詰問が面白く感じていた。僕を殺させはしない、と、どこからか沸いてくる感情を表に出したくて仕方がなかった。
「サダさんのお父さんは何をしているんですか?」と僕は聞いた。
「俺の? ……俺の親父はただの会社員だよ」
「本当ですか?」
「ああ。なぜだい?」
「いえ、特に」
それは一閃にもならず、剣を向けただけだったが、それでも効果はあったらしい。僕らは黙った。
だがそれに負けたのは僕だった。沈黙に耐えられずに「じゃあ、また」と僕は席を立った。冷め始めた料理を皿に盛り、違うテーブルへと移った。