熊野の憂鬱
今年もこの変なパーティーに付き合わされるのかと、僕は少し憂鬱だった。社長主催のパーティーに参加できて、つまり大会社の社長秘書という職に就けて喜ぶべきなのだろうが、どうも僕は社長とは趣味があわなかった。まぁ、それは仕方がないことだ。片や御曹司、片や田舎者なのだから。育ちが違う。そう育ちが違うのだ。育ちが違うということは、趣味趣向も違ったふうになるのだろう。仕方がない。僕には分からないが、これはきっと楽しい催しものなのだ。
僕は毎年そう言い聞かせてこのアイランドパーティーとやらに参加していたが、結局一度も楽しめたことがない。八回連続で出席している八屋さんや、三津崎さんはどういった気持ちなのだろうか。八屋さんは、社長の第一秘書兼幼馴染なのだから慣れているのかもしれないが、三津崎さんは……。まぁ、彼女はお客様というより管理人なのだから、詰まるとか詰まらないということではないのかも。
「熊野くん。船が見えたよ。これで何人目だっけ」と八屋さんは眩しそうに目を細めて言った。太陽の光が僕らを刺していた。
「えーと……。五人目ですね」
「そうか。じゃあ、あともう一隻、船が来るんだね」
「そうですね」
八屋さんはジーンズに無地の赤いTシャツという格好で桟橋に立っていた。百八十センチの細身の人物だ。年齢は社長と同じ、三十ニ歳。顔立ちは悪くなく、少し古いドラマの主人公のようだった。甘いマスク、そう言えば誰もがなんとなく分かってくれた。昔は長髪だったらしいが、今はばっさりと切っている。いつもは社長が八屋さんの隣にいるのだが、今日は僕がいる。そして、僕も八屋さんと同じ、ジーンズに無地の赤いTシャツという格好をしている。
なぜ?
そう思ったのは第五回アイランドパーティーの時だけだった。第六回も第七回も今年と同じ格好をしていたが、疑問には思わなかった。なぜなら僕は、慣れてしまっていた。この格好にではなく、社長に。
船の小刻みな音が桟橋に近づいてくる。ここで八屋さんに話しかけたら、その言葉はどの程度届かないだろうか。だが、試すことはない。なんと話しかければいいか分からない。たぶんあの人は試すのだろうが……。やっぱり僕と社長は違う。やるかやらないか、それは大きな違いになる。
「ようこそいらっしゃいました」と八屋さんは言った。
「ようこそいらっしゃいました」と僕も続けて言い、軽く身を前に倒した。
「どうも」と男が言った。
船から降りてきた男は白いパナマ帽を被っていた。リボンは黒だ。それが取られると、ほどよく日焼けした顔と真っ黒い髪が出てきた。歯は帽子の色ほど白かった。
服装の方はと言うとだいぶ軽かった。白い短パンに空と海の間をとったような青いアロハシャツを着ていた。それには白いハイビスカスが咲いていた。ファッションのことはよく分からないが、それほどセンスがいいとは思わなかった。足にはサンダルを履いている。
「ここがパーティー会場かい? 随分と大きいな」と男は言って豪快に笑った。身長は八屋さんと同じくらいか。
「お待ちしておりました。サダ様」と八屋さんは前に出て、サダと呼ばれた男の茶色のボストンバックを受け取ろうとした。
「うん。よろしく」とサダはそれを預けた。
サダ様か。確か画家という話を聞いている。確か社長室に飾られているどれかが彼が描いた作品だ。どれだったかな。
「他にお荷物はございませんか?」と僕は聞いた。
「いいや、ないよ。ありがとう」とサダは言った。
男の腕には膨れた筋肉がついていた。たぶん服の内側にもしっかりとしたものが備わっているのだろう。画家より、スポーツ選手の方が彼の外見には似合っているかもしれない。テニスラケットを持たせたら絵になりそうだ。自画像は描くのかな?
「それでは、こちらに」と八屋さんは桟橋を島の方へ戻って行った。その後に男がついていった。
僕もついていこうとすると、八屋さんは、とりあえずここで待機するように、と目線で僕に指示を出した。
相変わらず八屋さんの眼差しというものは、伝達力に優れている。僕はそれに何度も救われている。それは君の察しがいいからだよと、八屋さんは謙遜しているが、他の人もあの眼差しの指示に従っているのを見ると、そうではないことは明らかだ。あの人は口数の多い社長よりも社長に似合っている気がする。いや、社長は社長で、社長に似合っているような。……社長、社長と僕は言いすぎているな。自重しよう。
青い海がゆらゆらと揺れる。空の向こうでは雲が天に向かって、太すぎる狼煙をあげていた。ぬるい海風が肌にひっついた。
僕は桟橋に用意されていた椅子へと座った。パラソルのおかげで影ができていたが、七月はすでに夏だった。だが、それでも地面がアスファルトの街よりは涼しかった。夏を感じていると思えば悪くない。もともと子供のころから、こういう生活だったじゃないか。日陰の少ない平地を走り、山の中でカブトムシを採り、扇風機と団扇だけで昼寝をした。何もかもが懐かしい。もう一度、僕はあんな生活に戻れるのだろうか。うん。ぜひ戻ってみせようじゃないか。元々僕に都会の――。いや、やめておこう。まだ長い修行がそこにはあるのだ。
最後の漁船がやってきたのは、それから三十分ほど経った頃だった。時計を持っていないので正確ではないが、たぶん、そのくらいだと思う。
「熊野くん。最後の船だね」と八屋さんは椅子から立ち上がった。
船が接岸すると、顔を知っている人物が降りてきた。
彼女はぺこりと頭を下げた。手には大きめの鞄を持っていた。普段のスーツ姿と違う彼女を見るのは新鮮だった。スカートではなくて、ジーンズというのもまたよかった。もちろんTシャツと薄手のパーカーを羽織っている姿も。そして、その格好は彼女にとっても幸せなことかもしれなかった。パーティーという名前に踊らされて、お洒落をしてくるのが哀れに見えるのが、このアイランドパーティーだ。
「ようこそ」と八屋さんがさっきと違い、くだけた言い方で彼女を迎えた。
「こんにちは」と彼女はいつもの笑顔をみせた。エントランスでお客を迎える、あの笑顔だ。
「荷物を持ちましょう」と僕は言った。
「いいえ大丈夫です。そんなに重くないですし」
「持たせてあげてください。こいつはたまにしか女性と触れ合う機会がないんです」と八屋さんが笑った。
「そんな」
「彼の隣にいるのは私か、社長くらいだからね」と言って、可哀そうだろう、というような感じで彼女を見た。だがもちろん、眼差しには冗談という二文字があった。
「じゃあ」と彼女は僕にバッグを渡した。
確かに重くはなかった。バッグが大きいのは衣料のせいだろうか。毎年だが、ここで正解を出す人は少ない。いや、僕は正解者を見たことがない。
船はゆっくりと海へ引き返していった。船長と思わしき人は一度も顔を出さなかった。
「あの、一泊二日ですか?」
「一泊二日?」
「はい。このパーティーというか、なんというか」
招待状には詳しいことは書かれていない。それを彼女は心配したのかもしれない。
「どうだろうね。社長次第といったところだけど……」
僕の答えを聞くと、彼女は目線を下にした。普段は上げている黒髪が垂れているのに僕は今、気付いた。
「何か予定でも?」
「いえ、とくに……」
「社長のことだからね。でも、社長もずっと仕事をしないってわけにはいかないから。例え、優秀な部下がたくさんいたとしてもね」
僕らは海岸線を東に歩いた。しかし、ここに東も西もあまり関係がない。太陽が東から昇り、西に沈むのを見て平和を感じるほど荒んだ島ではない。それらが必要なのは陸地だ。
桟橋が島の一部に隠れると、白くて長い階段が見えた。その階段は丘に添って、ゆるやかに上へと続いていた。
「この丘の上に建物が?」
「ええ」と八屋さんが返事をした。「私たちにとって少しハードワークですけど、頑張ってください。といってもそんなに険しくはないですよ。坂道をゆっくりと登るようなものです。ビルの非常階段より優しいですよ」
僕たちはゆるやかな階段を小さく鳴らしていった。バカンス地にありそうな白い石は、全て他の場所から持ってきたものだ。金がなければこんなことはできない。僕は改めて会長とその父親の凄さ、そして時代の力強さというものを感じた。社長は三代目のプレッシャーはないのだろうか。……あったとしても、笑い飛ばしそうだ。
「あと少しです」と八屋さんは言った。
今日は何度ここを登り、下りただろうか。しかし、これで最後だと思うと気持は楽だった。あとは帰るときに使うだけだ。
階段を登りきると、そこには整えられた芝生が広がっているのが見えた。ヤギか羊かいれば、もっと絵になるかもしれない。そして、その先には洋館が見えた。僕たちが毎年泊まっている帽丘館と名付けられた建物だ。
「凄いですね。ここ」と彼女は言った。
「そうでしょう」と八屋さんは腕を広げて、その緑の丘を紹介するように言った。「……僕のものではないのですがね」
彼女はうふふと笑った。
そんな彼女を見て、僕は、彼女の名前は何だったかなと今更ながら思った。だが、今聞くのは変だろう。それこそ今更だ。
帽丘館へと近づいていくにつれて、僕はどきどきと心が動きだした。それは不安からきたものなのか、興味からきたものなのか分からなかった。どちらにしても、早くパーティーとやらが始まり、それが終って欲しかった。
帽丘館は二階建てだった。ばかでかいわけでもなく、こじんまりとしてもいなかった。そのおかげで威圧感はなかったが、少し気味が悪かった。生きているのか死んでいるのか分からないといった印象を僕はこの建物に持っていた。
建物は長方形を横にしたような形で、一階に大きな窓が一つ、二階にもそれと同じものが一つあった。窓について説明するならば、一階の窓はラウンジについているもので、二階の右側にある大きな窓は社長が寝泊まりする部屋についているものだ。その反対側にはさほど大きくない窓が四つある。どれも客室のものだ。
そして、建物の入口は一つ。その扉を口とするならば、顔は南東を向いていた。後頭部は北西。お椀を逆さまにしたような山の方だ。
「さぁ、こちらです」と八屋さんが彼女を玄関前に呼んだ。
「凝っているんですね」彼女は木製の扉を見て言った。
扉の上部は、滑らかな曲線で半円が描かれていた。ラウンド・トップというものらしい。扉自体には彫刻が施されていた。美しく咲き誇る花々、空へ登る草木、その中で二匹の龍がじゃれていた。
確かに凝ってはいるが、変なデザインだと思うのは僕だけだろうか。
八屋さんの背中が扉に消えてから、僕も館の中に入った。
玄関に入ると、すぐそこがラウンジになっていた。そこにはカウチソファが一脚と一人用のラウンジチェアが三つ、そして、丸いラウンジテーブルがあった。ソファとチェアはどれも黒い革が使われていた。カウチソファの背もたれになる部分は、遠くから見た山脈のように優しくうねっていた。きっとどれも高価なものだろう。
しかし、田舎者の僕にはよく分からないが、こんなところにカウチソファを置くのは正しいのだろうか。リビングに合うものでは……。まぁ、いい。
玄関の左は壁になっていて、その壁の向こうには保管室と呼ばれている部屋があった。荷物や使わないものを保管しておく部屋だ。
壁に沿って歩くと、廊下が左に見える。といってもラウンジと床は同じで、保管室と食堂に挟まれただけのものだ。そのせいか廊下っぽくはない。
その廊下の左側にあるのが保管室、右側にあるのが食堂だ。どちらのドアも木製の両開きドアだ。玄関と違って、悪趣味なもの――おっと、言ってしまった――ではなく、シンプルなドアだ。日光を浴びた明るい色が心を穏やかにしてくれる。
ラウンジの隅(玄関から見て、右隅)には螺旋階段があった。そこから二階に上れる。
あとラウンジにあるものといえば、左隅に小さなテーブルと花瓶。玄関横に大きな窓、そして、右壁に飾ってある絵画。
絵画には浜辺が書かれていた。そこには壺が半分埋まっていて、近くには貝殻が一つ描かれていた。そして大きな満月が、浜辺の向こうにある海に半分隠れている。いい絵なのかどうかよく分からないと思うのは、つまり僕が――。もう言わなくてもいいだろう。
「それではお部屋にご案内します」と八屋さんが言った。
僕はバックを保管するため保管室へと歩いた。
「あの」と彼女は僕に向かった。「バッグを」
「ああ、そうでした。所持品はこちらで預かることになっているんです」
「え、でも着替えとかも入っているんですけど」
「それはこちらで用意しています」と八屋さんが言った。「ルールというか、そういうことなんです。とりあえず、お部屋へ行きましょう。説明をします」
彼女は渋々といった表情で、八屋さんとラウンジの隅にある螺旋階段から二階へ上がっていった。
僕はそれを見届けてから、保管室に向かった。
廊下を歩き、左にある扉を開けた。保管室は明るかった。その光がフローリングと壁を照らしていた。
部屋に入ると少し湿気を感じた。窓がないせいかもしれない。だが、エアコンは付いていた。そしてベッドがあり、鏡台もあった。つまり、ここには人が住んでいる。保管室と呼んではいるが、実質この部屋は三津崎さんの部屋なのだ。
三津崎という名前を聞くとまず思い出すのが、彼女の顔だった。切れ長の目に、それに似合った鼻を持っていた。どんな鼻かを説明するのは難しい。ただ、僕はいつかあの鼻を指先でなぞりたいと思っている。
次に思い出すのが、彼女の髪だった。天然パーマなのか、毛先がくるくるっと回っていた。ワインオープナーのようでもあったし、螺旋階段のようでもあった。その髪は胸の辺りまであるようだったが、僕はその姿を見たことはない。彼女はいつも、髪を後ろにまとめていた。
彼女はこの帽丘館の管理人だった。管理人といっても、この島を社長が使うのはこの時期だけだ。だから、彼女が管理人としてここに滞在するのも少しの時間だけでよかった。だが、彼女はこの館に住んでいた。この島を好きなのか、陸地が嫌いなのかはよく知らない。食料や日用品は一週間に一回か二回、届けてもらっているようだった。一度だけ、彼女とそれらについて会話したことある。どうやら彼女は畑を持っているようだった。それがどこにあるかは教えてくれなかった。そして、なぜこの館に住めるのかも教えてはくれなかった。それにかかる費用がどこからきているのかも。仕事については聞けなかった。比較的簡単に聞けた、聞いてみたかったことは彼女の年齢だった。それはあっさりと答えてくれた。彼女は今年で二十七になる。僕より一つ年上だ。
「これで最後ですか?」と彼女の声がした。この国の夏には合わないからっとした声だった。
振り向くと、彼女はドアの外にいた。反対側の食堂の扉が少し開いていた。
「ええ、これで最後です。部屋が狭くなっちゃいましたね」
「いいんです。この部屋はあまり使っていないし」
「え、そうなんですか?」
「ええ。いつもは二階で寝ているんです」
言われてみれば、この保管室はそんなに生活のにおいがしない。
「そういえば、皆さんはまだ部屋に?」
「ええ、まだ部屋に待機してもらっているようです」
「そうですか」と僕は社長の顔を思い出しながら言った。「料理の方は大丈夫ですか? 手伝いましょうか?」
「いえ、大丈夫です。下準備はもう終わっているんです。熊野さんも、声がかかるまでお部屋でゆっくりされたらどうですか」
「そうですね。そうさせてもらおうかな」
僕がそう言って部屋を出ると、彼女は食堂に戻った。ドアが閉まると、彼女の残り香が漂った。少し生臭い海産物の匂いがした。僕はそれを無意識に嗅いだ。なぜか僕の中に、興奮するものがあった。それを持ったまま二階にある自分に当てられた部屋に向かった。まずカーテンを閉めよう、僕はそう思った。