島へ
「島へはどのくらいかかるのかな?」
「一時間くらいだね」と漁師のおやじは言った。
「一時間か……。毎年、こんなふうに島への送り迎えをしているの?」
「迎えには行ってねぇ。送るだけだ。帰りはクルーザーで皆一緒に島を出ていくみたいでね」
「へぇ」と俺は言いながら煙草に火をつけた。
海は穏やかだった。それを小さな漁船が偽りのモーゼのように切り裂き、波を作っていた。
「いつも一人を送っておしまいなんだよ」とおやじは俺に話しかけてきた。「他の船でも島へとお客さんを送っているみたいでね……。あと二人くらいは時間さえ合えば送れるんだから、送らせてもらえないかねぇ。あんた、よかったら社長さんに伝えてもらえないかい?」
「結構、貰っているの?」と俺は指で円を作った。
「へへへ」とおやじは笑った。「十万だ」
「なるほど。でも、あまり欲張るのはどうかと思うよ。〇になったら、それこそおしまいだ」
「まぁ、そうだねぇ。じゃあ、さっきの話は無かったことに」
俺は、深く頷いた。
出発した港から船はどんどんと遠ざかっていった。俺はビニール袋から缶ビールを取りだして開けた。おやじにいるかと聞いたが、彼は首を横に振った。運転中だからダメなのだろう。もし、俺がその社長とやらに頼みごとをすると言えば、彼は受け取ったかもしれない。
初夏の太陽は心地よい熱を俺に与えた。夏は本来苦手だが、何もない世界よりは格段にいい。四季を楽しむ心を持つことができたのは素晴らしいことかもしれない。
俺はビールを一口、二口と飲んで、あっという間に空にした。もう一本飲もうと思ったが、島に何があるのか何がないのか分からない今、楽しみは取っておくことにする。だが、何かしらあるだろうとは予想している。なぜなら、俺を客として招いたのは大企業の社長なのだから。きっと、高級なワインやブランデーもあるに違いない。素敵なことだ。
昨日の朝に俺はこっちの世界に召喚された。いや、呼ばれたのではない。俺は、送り出されたのだ。
そのことに気がついた時、俺は床に寝ていた。起きたのはじめじめとした暑さのせいだった。視界に入った時計を見ると、それは午前十時を表示していた。朝なのに暑いということは、夏なのだろうと俺は予測した。案の定、部屋にあるカレンダーは七月にめくられていた。
俺はその部屋にあるエアコンのリモコンを見つけ、運転ボタンを押した。温度は二十五に設定した。それから、ゆっくりと部屋を見まわした。
部屋には机とベッド、緑色のカーテンがついた窓、そのほかに小さな本棚があった。備え付けのクローゼットらしきものもあった。俺がいる場所はわりとシンプルな部屋だった。部屋の扉を開けるとキッチンが見えた。どうやら俺は一人暮らしの人間という設定らしい。
設定。その言葉で俺は思い出した。俺は今、どういった外見なのだろうか、と。確かめなければなるまい。
部屋を出ると、一直線に続く廊下の先に玄関が見える。そして、右側に二つの扉が並んでいた。おそらく、どちらかが浴室で、もういっぽうがトイレだ。俺は玄関に遠いほうの扉を開けた。
そこは浴室だった。中は暗かった。
ああ、そうだ。電気を点けなければ。そう思い、俺は外にあったスイッチをオンに切り替えた。
照明に光が点く。左側には浴槽が見えた。一人暮らしにぴったりの小さめのものだ。真正面には鏡らしきものが見える。だが、俺の姿はまだ見えない。鏡には紙が貼ってあった。そして、それにはこう書かれていた。
机に置いてある設定資料を読みなさい。あなたの助けになるでしょう。
設定資料。それは毎度お馴染みのあれらだろう。
こっちに来ると用意されているものがいくつかある。それは外見。嘘の身分証明書。そして、豪遊できるほどのお金。ターゲットのヒント。等など。たぶん、それらをまとめて設定資料と言っているのだ。
俺は貼り付けてあった紙を剥がした。そして、浴室に来た目的である鏡を見た。
これが今回の俺か……。まぁ、いいだろう。理想を得るのには努力が必要だ。棚から落ちてくるのは牡丹餅くらいだ。食えるだけマシだろう。
俺はくるりと部屋へと戻った。
部屋はだいぶ冷えていた。
部屋にある机には椅子もついていた。座り心地の良さそうな皮張りだった。机の上には、設定資料と思われる分厚い紙束。そしてパソコンがあった。
ふと、机の下を覗いてみた。そこにはプリンターがあった。
奇妙だな、と俺は思った。
俺は机から離れてクローゼットを開けた。洋服がハンガーにかけてあった。冬用のダウンジャケットや、厚手のパーカーなど、この季節に着ないであろうものも混ざっていた。下には透明のボックスがあった。引き出してみると、中には下着類がたくさんあった。
それを見て、さらに奇妙に思った俺は台所へと向かった。
おっとその前に。
俺は部屋の電気をつけた。
部屋を出てキッチンにあった冷蔵庫を開けた。中にはペットボトルに入った水、ケチャップやマヨネーズなどの調味料があった。他にはヨーグルト、生卵、ハム、食パン。冷凍庫の方はどうだろうと、そこも開けた。そこにはラクトアイスが二個入っていただけだった。
一人暮らしとしては、まぁ、おかしくはないのだろうが……。やはり、これは奇妙だと思う。今までとは違う。
俺は部屋へと戻り、分厚い設定資料とやらを手に取った。その一枚目には俺と思われる名前が書かれていた。つまり、この外見の持ち主の名前だ。俺はその名前を十回読んだ。馴染みのない名前だが、覚えておかねば、誰かに変に思われるかもしれない。これは俺の名前だ。これは俺の名前。俺はそう自分に言い聞かす。
二ページ目をひらく。そこには普通自動車の免許証が貼ってあった。ゴールド免許だ。一ページ目に書いてあった名前も記載してある。そして、免許証の下には「引き出しを開けろ」と書かれていた。
俺は机の引き出しを開けた。中には腕時計と財布が並べて置いてあった。その横に膨れた封筒が五つあった。封筒の中では、お札が分厚く重なっていた。
なかなかの金額だ。
財布の中も調べてみる。銀行のカードや、ポイントカードがある。これらもたぶん使えるだろう。
サイドチェストの三つの引き出しも開けてみた。一番上の引き出しには小指の厚さほどもない黒い携帯電話があった。その他に、ハサミや糊、文房具などが入っていた。二段目の引き出しは紙が入っていた。何かの資料なのか、様々な内容が載っていそうだった。最下段の引き出しには、電源タップが一つ入っていた。コンセントの口は五つだ。
引き出しを閉めて、俺は資料に向き直った。
三ページ目を開く。そこにはカードの暗証番号や、銀行の口座番号が書かれていた。そして通帳が置いてある場所、印鑑のある場所まで書かれていた。
やはり、カード類は使えるようだ。今までと同じだ。好きなだけ金は使っていいということだろう。あらかじめ下ろしておくのが得策だ。
だが、これらは全く奇妙ではない。今までとあまり変わらない。俺の心は、デパートで母親を見失った子供のように落ち着かなかった。
四ページ目を開く。
なんだ?
五ページ目をひらく。
どういうことだ? と俺は首を捻る。
六ページ目をひらく。
七ページ目をひらく。
四ページ目から、まだそれは続いていた。
奇妙だ……。というより、今までとは違う。どういうことだ?
……一体、俺は誰だ?
それを確かめるために、俺は次々にページをめくっていった。
しばらくすると「すごいな……」と俺は思わず口に出していた。
分厚い設定資料があるということから、俺はあらかじめこの事を予想できたはずだった。しかし、出来なかった。それは、久しぶりにこっちの世界に来て舞い上がっていたせいでもあったのかもしれない。だが、それがなかったとしても、俺には想像できなかった気がする。
設定資料には俺の、つまり、この外見の持ち主の人生が書かれていた。
三ページ目には、生年月日、親の名前、兄弟の名前、祖父母の名前、名前の由来、子供の頃の思い出、好きだった食べ物、嫌いだった食べ物などが書かれてあった。そして、その時の写真も添えられていた。
四ページ目には、幼稚園児の頃の話と思い出が書かれてあった。そして、もちろん写真も添えられている。
五ページ目と六ページ目にも成長の記録が写真と共に書かれている。初恋の話も書かれているし、喧嘩のことも書かれている。
まさかこれを覚えろと? 無理だろう。俺はそう思いながらも、一度、四ページ目へと戻り、そこからどんどんとページを読んでいった。
自分自身がどういった奴なのかということをだいたい読み終えたのは午後三時だった。その間に冷蔵庫にあった水はほとんどなくなり、二つのラクトアイスは消えた。そして、心にあった変な気分もなくなっていた。
プリンターや不必要な洋服、多くの下着類がこの部屋にあるのが奇妙に思えたが、それは必然だったのだ。この外見の俺はこの世界に生きていたのだ。数時間前に俺にとって代わられたけれども、こいつは人生を歩んでいたのだ。俺はこう納得した。
しかし、こんな人物をよく用意できたものだ。俺はそこを一番に感心した。そして、すぐに緊張感がひたひたと俺の内部を歩き始めた。
なぜ今までと違う? なぜ俺に取って代わられる奴が本物の人間なのだ? 他にも今までと違う何かがあるのか?
俺は人生記録の次のページを開いた。そこには殺人依頼の内容と、その背景が簡単に書かれていた。
殺人の依頼者は田辺月次郎と呼ばれる男。殺して欲しい人物は自分の息子、田辺雪定がつくった隠し子。理由は、直系の孫に全ての財産を残すため。しかし、その隠し子が財産を狙っているとの噂を聞いた。財産は全て正妻の長子へ、という田辺家の家訓に添わせるため、このような依頼をした。生きているうちに対処できなかったのは恥ずかしいことだが、よろしく頼みたい。とのこと。
額が痒くなったので俺は掻いた。ついでに力が入っていた首の後ろも揉む。
これが殺人依頼の背景? どうにもおかしく思えるのだが。父が子の不始末を処理するのはいい。だが、なぜ子は自分の不始末を自分で処理しない? 隠し子が財産を狙う?
頭が痛くなってきた。
つまり、俺はどうすればいいのだろうか。殺し屋は隠し子を殺さなければならない。そして、俺はその隠し子を殺し屋から守らなければならない。これでいいのか? とりあえず、そうだとしたらゲームは簡単だ。だが、その隠し子とは誰だ?
次のページを俺はめくった。そこには封筒が一枚貼られていた。その封筒はブルーの封蝋で閉じてあった。歪な円になっている封蝋の中ではカモメが一羽飛んでいる。
俺はさっそく封筒の中を確かめた。開けてみると、そこには招待状と地図、そして、手紙が入っていた。
招待状の差出人は田辺定一郎となっていた。そして、「○○株式会社 社長」と大きいとも小さいとも言えないサイズで書かれていた。
招待状の真ん中には「第八回 アイランドパーティー」とごつごつとした堅苦しいフォントで書かれていた。裏には何も書かれていなかった。どうやら出席、欠席の意思表示はさせてくれないらしい。
そういう人物らしいな、と俺は勝手に差出人の性格を決めつけた。
地図には海があった。そして、港らしきところに大垣という名前が書いてあり、そこに大きな矢印が指してあった。
最後に手紙を開いてみた。
七月の第二土曜日に、指定の場所に来るように。島へと招待する。大垣という漁師に話しかけてくれ。
それだけだった。いつもなら標的者についてのヒントが貰えるはずだが……。いや、ヒントだけでなく、標的者の写真を貰え、名前まで教えられる事も多い。しかし、今回は何もなし。きっと、このパーティーとやらに隠し子が来るのだろう。そして、もちろん殺し屋も。……それだけがヒントか。
急に煙草が吸いたくなった。しかし、部屋のどこを探しても煙草は出てこなかった。どうやらこの人物は煙草を吸わないらしい。買いに行かなければならないようだ。ということは、服を着なければならない。
俺は、クローゼットを開け、下着と服を選び始めた。
「おい。島が見えるぞ」とおやじの声が聞こえた。
うるさすぎる漁船のモーター音を無視して寝ていた俺は、その声に起こされた。目に被せていたタオルを取り、目を開けると、ずんと青い空が落ちてきた。春や秋よりもそれは濃く、人間味があった。
「どこ?」と俺は体を起こし、おやじに聞いた。
「船の先だよ」と親父は指で方向を示した。
海の上にあったのは、なかなか面白い島だった。島を見て、すぐに思い浮かべたのは麦わら帽子だった。
「変な島ですね」
島の中央にあるのだろうか、そこにはボウルを逆さにしたような山がある。乳房にも見えなくもない。
「置石島っていう名前だよ。もともとは地元の大地主が所有していた無人島だったけど、十年か二十年か、それくらい前に、誰かが丸ごと買ったみたいでね」
「へぇ。……それは、社長が?」
「当時の社長だろうね。会長かもしれないけど」
遠くにあった島がだんだんと近づいてくる。
「島は大きいのかな?」
「いや、そんなに大きくはないだろう。歩いて三十分か四十分くらいで周れるんじゃないの」
「おやじさんは、島に行ったことは?」
「ないよ。遠いし、人の土地だからね」
俺はポケットから煙草を取り出して、安物のライターで火をつけた。
潮の味が微かに混じった。
島の木々のざわめきが目に見えるほどに近づくと、島にヨットハーバーのような、小さな係留施設が作られているのが分かった。幅はそうないが、島から真っすぐに伸びた美しい桟橋がそこにはあった。漁船はそこで俺を降ろすのだろう。
桟橋には二人、人間が立っている。二人とも漁船が来るのを待っているようだった。つまりは俺を待っているのだ。彼らは何者だろうか。
煙草をもう一本。俺はそれに火をつける。
さぁ、誰が殺し屋で、誰がその標的なのか。殺し屋よりも先に標的を見つけなければ、俺に勝利はないだろう。
船のスピードが弱まる。緊張感と焦りが俺の中から這い出てくる。それを自分自身にも悟られないよう、ゆっくりと煙草を燻らせる。
準備はできたか? と俺は声に出さずに聞く。
ああ。報酬はでかい、と俺は返す。
さすがだな、と俺は自分自身に余裕が出てきたことを喜んだ。見慣れない顔に笑い皺が出来るのが分かった。