もう一度二階へ
「……じゃあ、次は殺害方法だな」サダさんはコーヒーカップを手で包んでいた。
「殺し方はいいんじゃないですか? さっきも言ったように刺殺ですよ」
「ああ、それは分かっているよ。俺が気になっているのはあの包丁だよ。あれって、ここにあったものなのかな? それとも誰かが持ってきたものかな?」
「三津崎さんに見てもらえば分かるかもしれませんね」八屋さんが言った。
三上さんが手をあげた。
「ついでだから言うけど、俺も気になっていることがあるよ。あれだけ血が出ていただろ? 当然服にも付くだろ。犯人は服を着替えたんじゃないか?」
それだけ言うと、突然皆黙った。こういう時、社長はなんと言うだろうか。まぁ、僕が思っているけど言わないことを言う人だ。つまり社長はこう言うはずだ。
「皆さん、もう一度、社長の部屋に行ってみませんか?」
女性三人は悲しいような苦しいような、なんとも言えない顔をしていた。正直、行きたくなさそうだった。彼女たちの気持ちは分からなくもない。少し前まで僕だって行きたくなかったのだから。
犯人を探すか、警察に任せるかの議論になったとき、僕も犯人探しには乗り気ではなかった。三津崎さんの意見に同調して、彼女の気を引こうという浅はかな考え方もしていた。だが、カーテンのことや、服についての事を聞いていると、どこかに潜んでいた探究心がもこもこと、土の中から出てきたように現れた。今は、知りたい気持ちが他のものに勝っていた。
「そうだな。三津崎さんに包丁を見て貰おう」
「私、行きたくありません」三津崎さんははっきりと言った。「あの人が死んだ姿を見たくありません」
ん? 今、なんと言った? まただ。昨日と同じ違和感だ。
「三津崎さん……」八屋さんと花澤さんの声が被った。同情が含まれている声だった。
三津崎さんの目は潤んでいた。
「お願いします。三津崎さん」八屋さんは両手をテーブルに置いた。
僕はその時、閃いた。
「あ、そうだ。サダさんだ。サダさんって画家ですよね。包丁の形を描いて、それを三津崎さんに見せればいいんじゃないですか?」
「え?」驚いたようにサダさんはこっちを見た。
「そうすれば、部屋に行かなくても大丈夫じゃないですか?」
「そう、だな。いやぁ、でもなぁ」
「メモ用紙とペンくらいなら部屋にもありますし」
「うん。いや、うーん」
何を渋っているのだろうか、この人は。
「それでもいいんじゃないか?」三上さんは言った。
「いや、でも……。あ、どうせ皆の着替えを見せてもらうことになるのだから、二階には行かないと。誰かが血のついた服を持っていれば、その人が犯人だろうし。それがいいよ」
そう言うと、サダさんは席を立った。それから美静さんが立ち上がり、なんとなく僕たちも席を立つことになった。
そして、一歩、二歩とドアへと近づいた。ドアを開けて、左に出る。僕らはまた螺旋階段を回り、二階へと向かう。
僕はその道中、服のことについて考えていた。
しっかりとは見ていないが、社長は血だらけだったように思う。そのくらい社長を刺したのなら――僕は刺された社長をきちんと見ていないが――服に血が付いてしまう。たぶん、どんなに気をつけていても、付いてしまうだろう。あの床に広がった血の海を見れば分かる。もちろんその服を身に付けたままだと、犯行がばれるだろう。そうならないためには着替える必要があっただろう。
たしか社長が用意したTシャツは三枚。昨日、今日、明日の分だ。となると、犯人は今日ですでに三枚を消費していることになるのではないか。……いや、そこまで深く考える必要なないのかもしれない。ただ単に血のついた服を見つければいいだけのことだ。それにしても、なぜ赤いTシャツなのだ。社長も嫌な選択をしたものだ。
社長の部屋に着いた。ドアの前に立っていたのはサダさんだった。
「じゃあ、開けるよ」
サダさんはそう言うとドアをゆっくりと開けた。
冷たい風が流れてきた。そして、その風に乗って不快な臭いが漂った。錆びた鉄のような臭いと体臭のようなものが混ざっているような臭いだった。強烈な臭いではないが、徐々に吐き気を催すようなものではあった。
「じゃあここで待っていてください」八屋さんは三津崎さんに言った。
八屋さんを先頭に、僕も含め、男達は中に入った。僕は一番後ろだった。そして、その後ろに美静さんがついてきた。
八屋さんはなるべく、壁に触れないように進んだ。そして、クローゼットを開け、タオルを一枚取りだした。
僕はそれを見てから、恐る恐る社長を見た。社長は目と口を閉じていた。きっと誰かが閉じさせたに違いない。床に広がった血は、まだ完全には乾いていなかった。だが、朝に見た時よりもどす黒く変色しているようだった。
朝? 僕は気になって部屋にあった壁掛け時計を見た。すでに午前十一時になっていた。
八屋さんはクローゼットの戸を閉めると、床に広がった血を踏まないように、タオルを社長の顔に被せた。
「これでとりあえずは大丈夫だろう。あとは、なるべく死体を見せないように、包丁だけを見せましょう」
八屋さんがそう言うと、皆頷いた。
包丁は社長の胸に刺さっていた。刃の半分以上が体の中に入っている。刺されたそこは、心臓があるはずだ。その周りが他の場所よりも、より一層赤黒く見える。
社長の肌は白かった。血が体の外に出ていくだけで、こんなに白くなるものなのかと思ったほどだった。
「美静さん。三津崎さんを」
最後尾にいた美静さんはそう言われ、一度部屋の外に出た。そして、三津崎さんの手を握り、ゆっくりと部屋に戻ってきた。
三津崎さんは頭を垂れて、ほぼ真下を見ていた。長い髪が垂れているせいで、表情は見えなかった。
そういえば、髪を結んでいない三津崎さんを初めて見るなぁ。ラッキーと思うのは不謹慎だと思いつつ、少し嬉しかった。
三津崎さんは少しずつ進んできた。夜に見たら、少し怖いかもなと思うような姿と雰囲気だった。そして、ある程度のところまで来ると立ち止まり、ゆっくりと顔をあげた。
彼女の顔がなんとなく見えると、そこから数秒間彼女はそのままでいた。そして、また顔を下に向けた。
「知りません。その包丁見たことありません」
「そうか」
「はい」
「分かったありがとう」八屋さんはそう言うと、美静さんを見た。
外に連れていってくれ。そう彼は言っていた。
三津崎さんが部屋から出てくると、美静さんはまた戻ってきた。
男達は何やら色々と部屋を探っていた。死体と血に触れないように慎重に動いていたが、重要な何かを消さないかと僕は心配になった。
「もういいんじゃないですか?」僕は一歩進んだ。「包丁のことは分かったんですし、もうこの部屋に用はないのでは……」
「うん」と三上さんはこっちも見ずに頷いた。だが、体は動いていた。
「メモ用紙が一枚破られているね」城木さんはナイトテーブルに手を伸ばしていた。上半身を伸ばして、血と死体を回避していた。
「たぶん、社長が破ったんだろう。昨日の手紙はたぶんそれに書いたんだ」八屋さんがそれに応えた。「あとでそれも見せるよ」
そういえば、と僕はカーテンのことが気になった。床の血に気をつけながら皆に近づき、窓を覗いた。確かにそこからは外が見えた。昨晩とは違い、空と海が違う青で一面に混ざり合っていた。太陽の光がベッドと部屋、そして死体の一部を照らしている。ナイトテーブルにあったランプを見た。それも昨日と同じように灯っていた。だが外から来る光のせいであまりにも朧気だった。カーテンはというと両端でしっかりと結ばれていた。
それにしても、僕はもうあれを死体と思っているのか……。すでにあれは社長ではなくなってしまったのかもしれない。
しばらくその場に立ち尽くしていると、部屋にいた人たちは全てを終えたのか同じように動かなくなった。
もう終わったのかな。そう思い、僕は部屋から出るためにドアの方を振り返った。ドアの近くには美静さんが立っていた。僕が部屋から出ると、せっせと動いていた男達も外に出てきた。最後に出てきたのは美静さんだった。そして、彼女はドアを閉めた。まるで僕達の行動を監視していたような、そんな気がした。
外にいた二人は広間のちょうど中央にいた。窓と廊下、そして社長室のドアのちょうど間だった。