死体
「熊野くん! 熊野くん! 起きろ! おい! 熊野!」
ドンドンとどこかが叩かれる音がする。僕はベッドから出て、音がする方向へと、よろよろと向かった。そこは部屋のドアだった。ドアの向こうから八屋さんの声が聞こえる。僕は機械的にロックを外し、ドアを開けた。
「熊野……くん」八屋さんはすでに赤いTシャツに着替えていた。
「はい?」
「熊野くん」
「はい。おはようございます」
「……挨拶なんてしている場合じゃないんだよ」
なんだか八屋さんの表情がすぐれない。朝に弱い人だったかな?
「どうしたんですか?」
「定一郎が」
「定一郎?」
「定一郎が死んでる」
この人は何を言っているのだろう。定一郎という人が死ぬことに何の問題が――。は? 社長が死んでいる?
「どういうことですか?」まだ働かない頭を必死に動かす。
「とにかく来てくれ」
僕は顔が強張っている八屋さんについていった。
八屋さんが向かったのは社長の部屋だった。ドアはきっちりと閉まっている。昨日最後に見た状態と同じのように思えるが。
八屋さんは僕を見た。開けてみてくれと目が言っていた。
僕はドアノブに手をかけた。まだ頭はぼーっとしていたが、第六感が働いているのか、変に緊張していた。
ドアノブを回す。そして、恐る恐るドアを開けて、中を見た。
さっと血がどこかへ消えていくのが分かった。視界は狭まり、そこしか見えていなかった。
確かに社長が死んでいた。いや、死んでいるのかどうか分からない。だが、生きているとは決して思えなかった。ベッドの横に社長は倒れていた。社長は口と目をしっかりと開け、宙を見ていた。周りの床は赤く染まっていた。
僕はドアを閉めようとした、だが力が入らずそこにへたり込んでしまった。
八屋さんを見ると、彼も硬直したように動かなかった。ただ、床の一点を見ているようだった。
「なんだ? どうしたんだ?」後ろから声がした。
ドアの開く音と、閉まる音がする。
「どうした。そんなところで」
振り返ると、サダさんがいた。その後ろには三上さんもいた。
「社長が」
「社長がどうした?」
「……死んでます」
ごくり、と唾を飲み込む音が聞こえた気がした。二人は僕の前に進み、ドアをしっかりと開いた。だが、二人はそれで終わらずに中に入った。僕は赤ちゃんのように這って、それに続いた。
二人はすでに社長の近くにいた。二人の体のおかげで僕は社長を見ずに済んだ。
「確かに……」
「死んでいるな」
足音が近づいてくる。もう全員起きたのかもしれない。
「きゃ!」と声がした。
いつの間にか大きく開かれたドアの向こうには、花澤さん、城木さん、そして三津崎さんがいた。
「社長が死んでいるんです」僕がそう言うと、皆驚いた表情で部屋の中を見続けていた。
誰も何も言わない時間がしばらくあった。そして、最後に美静さんが目をこすりながらこっちに歩いてきた。
皆冷静にはいられなかった。社長が死んでいるのを発見して、もう一時間くらいになる。時刻は朝九時。三津崎さんが部屋から持ってきた目覚まし時計のおかげで、僕らはもう体内時計に頼ることはなくなった。
食堂には社長以外の全員がいた。美静さんを除いて、全員が何も口にしていなかった。あの死体を見たあとに、食欲が沸くはずもない。死体を見ていない美静さんが羨ましい。
「まぁ、簡単なことだろう」とサダさんがついに口を開いた。「この中の誰かが犯人で間違いない」
何を言いだすのだろうか、この人は。
「そうだろうな。外から誰かが侵入したとは思えない」と三上さんが続けて言った。
「問題は誰が殺したのかってことですよね」城木さんもそれに加わる。
堤防が崩壊したかのように、三人は喋りはじめた。
「誰が殺したのかも問題だが、俺には分からないことだらけだぜ」
「例えばなんだ?」薄い頭を三上さんは撫でた。
「なぜ殺されたか。いつ殺されたか。どうやって殺されたか」
「どうやって殺されたのかは分かるでしょう。包丁が胸に刺さっていたんですから」城木さんは言った。
「まぁ、そうだろうな」
「じゃあ、いつ殺されたんだろうな?」
この三人は。まるで他人事みたいに。
「ちょっと待ってください」僕は三人を止めようと言葉を出した。
「なんだ?」
三人はこっちを向いた。
「まだ殺されたと決まったわけじゃ」何を言っているのだろうか、僕は。そういうことが言いたいんじゃない。
「君はちゃんと現場を見ていないだろう? 誰がどう見ても、あれは殺されている。包丁で胸を一突きさ。フローリングの床には血だまり。着ていた赤いTシャツはどす黒くなっていた」
「とにかく待ってください」
「何を待つのかな?」と城木さんは言った。ひどく冷たい言葉のように思えた。
「心の整理がつかないんです」
僕は八屋さんを見た。この中で一番ショックを受けているのは、この人のはずだ。なにせ死んだのは親友なのだから。
僕の気持ちが届いたのか、しばらく三人は黙ってくれた。だが、このことを殺人事件と決めつけて、色々と何かを考えているようだった。
さらに三十分が経った。お腹が空いているのか、美静さんはキッチンにフルーツを再度取りに行った。なんだか僕は彼女にも無性に腹が立った。だが、それを注意することが僕にはできなかった。彼女に悪い点なんてないように思える。空気を読めないのが悪だとしたら、僕は声を荒げたのかもしれないが。
「心の整理なんて、永遠につかないかもしれない」八屋さんはそう言った。「それよりもやることがあるのかもしれない」
「俺もそう思うね」サダさんは頷いた。「俺たちには警察に連絡する手段がない。船は明日の昼までこない。それまで殺人事件が起きた館で過ごさなければならない。もちろん島から出ることもできない」
「犯人を見つけるのが、一番安心するんじゃないでしょうか。僕らだってショックです。気持ちが分からないわけじゃないんです」城木さんは目線を下げた。
花澤さんはしくしくと泣いていた。三津崎さんも沈痛な顔をして、黙っていた。二人を見ると、すでにお通夜が始まっているような気分になった。