プロローグ
じっとしているというのは、どんな感覚だっただろうか。そんなことも忘れてしまったくらい、俺は動かずここにいた。いや、動けないと言った方が正しかった。だが、手足を縛られているわけではない。体にはわずかな浮遊感がある。それが心地よいためか、動けないという苦痛で狂うことはなかった。だが、時間が経つと欲は出てくる。歩きたい。何かを手に取りたい。口を動かしたい。美味しいものが食べたい。女の軟肌に触れたい。なめらかな肌に舌を這わせたい。吸いつきたい。
そういった欲求不満が出てくるころに、真っ暗の世界の一部が明かりに照らされる。いつもの事だ。
かっと火打ち石が打ちつけられたような音がした。そして散った火花が集まるように光が集まり始めた。久しぶりにやってきた、徐々に大きくなっていったそれは、閉じているか開いているかも分からない俺の目を眩しくさせた。車のヘッドライトように強く、朝日のように神々しいのは相変わらずだった。
「元気にしていたかしら?」と艶めかしい声が聞こえた。
この女は額縁に入れられた絵画なのだ。ピンで磔にされた蝶々なのだ。だが、それでいて自由な存在だ。崇める者がいたとしても少しもおかしくない。そう思わせるものが彼女の声質にはあった。
「元気にしてるよ」俺は久しぶりに誰かに対して声を出した。
「そうみたいね。うずうずとした気分が声に表れているわ」
「で、いつここから出られるんだ?」
女は息を吹いた。味のついた、煙たい、からからのにおいが鼻に届く。
「でも、あなたでいいのか悩んでいるの」
「俺以外に誰かいるのか?」
「いるわよ。たくさん」
「俺は失敗したことない。前回も人も殺し、前々回も人を殺した。犯罪者としては合格とはいえないだろうが、殺人者としては合格しているだろ?」
「そうね。殺し屋としては合格ね。今のところ信頼しているわ」
厚みのある香ばしい匂いが俺の鼻に届く。俺はその液体の色を思い出し、それから苦みと酸味が混ざったあの味を思い出す。
「とにかく俺は行く。人を殺して、飯を食べて、女を抱く」
ふっ、と女は鼻で笑った。
「物騒で、野蛮で、汚らしいわね」
「そうさせているのは――」
「私じゃないわよ? そうさせているのは、あなた達の強欲よ。私たちにはあなた達が空気を貪っているようにしか見えないわ。愚かね」
「……何でもいい。行かせてくれ」
「いい返事ね。嫌いじゃない響きだわ」
俺は唾を飲んだ。光は俺の真正面から外れ、右に移動した。
「でも、やっぱり悩んでいるわ。話が私にきてからしばらく考えていたんだから」
俺は黙って女の声を聞いた。ここで焦るのはよくない。俺は発情した犬ではない。
光が少し和らいだ。そして、再び強く光り出した。だが、その周りには依然として暗かった。見慣れた闇だが、それは絶対に毒だ。
「殺しの依頼なら、真っ先にあなたに頼んだかもしれない。でも、今回は違うの」
「……」
「今回は逆なの」
「逆とは?」俺は椅子に深く座ったつもりで聞いた。欲と傲慢さを殺すのが大事なのだ。この女は人間を含め、動物を好まない。
「今回はターゲットを守るの。つまり、ボディーガードね。殺人を防ぐのが仕事」
「それを俺が?」俺は思わず口に出した。殺しではない仕事か……。
「だから悩んでいるの」
ここはしばらく悩むのが最適なのだろうか。それとも任せろと言うのが最良なのだろうか。どっちが彼女の信頼を得られる。
「私、犬は好きよ? 猫は嫌い」
「あなたが任せてくれるのなら、必ず」その言葉はボールを投げろと言われたから投げただけのものだった。
「素敵ね……。いいわ。じゃあ、任せたわ。殺人者のあなたになら、殺人者の気持ちが分かるでしょう。いいボディーガードになってね」
「ああ」と俺は言って、大きく息を吐いた。
女の副流煙が肺に入る。
「ところで、俺はまたパンダに見えるのか? その、殺される予定のやつからは」
「さぁ、どうかしらね」女は笑った。「あなたが殺人者ならそうかもね」
今までやってきたものはいつもそうだった。俺が殺す人物は、俺のことがパンダに見えるらしい。そのせいで、事がうまく進んだことは少ない。毎度、それは障害になり、それを乗り越えるために苦労している。苦労? いや、苦労するほど俺は頭がよくない。乗り越えることは乗り越えるが、よじ登ってそれを越える事が多い。障害は強引に。それが俺だ。
「いつも思うのだが、なぜ俺をパンダの姿に?」
「負がなければ勝があってはいけないからよ。別に、それはあなただけの足枷ではないわ。私だって勝ちたいから。つまり、それは私にとっても足枷なの」
「よく分からないな」
「でも、今回はその足枷はないわ」
その足枷がない。俺はそれを内側で繰り返した。
「どういう意味かな?」
「あなたは今回、ボディーガードという意味よ」彼女が作った煙が闇を照らしはじめた。「でも、違う足枷があるわ」
「その足枷とは?」
「教えないことも足枷なのよ」
「なるほど」と俺は納得していないが、そう言った。「では、今回はどんな外見に?」
「ただの人間よ。いつも通りに」
いつも通りに人間。殺される奴以外には、俺は普通の人間に見える。この前は美少女の外見を俺は手に入れた。その前はハンサムな男。もっと前は不細工な男子大学生。
俺は不細工な外見になった自分を、鏡で見た時を思い出した。誰からもパンダに見えた方がいいかもしれないな、と俺は心で苦笑した。だがしかし、ハンサムな男に勝るものはない。今回もそれを期待しよう。
「で、報酬は?」
「一ヶ月半」と女は言った。
一ヶ月半。もし女が真っ先にそれを言っていたのなら、俺は何も考えずに女の依頼に飛びついていただろう。それを嫌がる女の気持ちを考えられただろうか。冷静さを欠いていただろう自分が想像できる。
だが、それは仕方がないことかもしれない。その報酬は今までの中で一番の長さだ。一ヶ月半もあっちの世界で自由を謳歌できる。素晴らしい報酬だ。
「感謝するよ。標的を殺し屋なんかに殺させはしない」
「こちらこそ。殺し屋パンダちゃん。でも、失敗したらどうなるか分かっているわよね?」
「分かっているよ」
失敗したら自分がなくなる。それだけだ。どうやらそれは、あっちの世界でいう死に近いものらしい。しかし、何もできずにここにいるのも死んでいるようなものだ。享楽できる可能性があるのなら、やらなければ損だ。
感じていた光が徐々に弱くなっていった。それに合わせて俺の欲は膨れていった。温かなものが去り、冷たいものがやってくるような気配がした。つまりは女がここから出ていくのだ。そして、俺も。
「じゃあ、準備はいい?」と女は言った。口に咥えていたものは、どこかへ消えたようだ。
「ああ。いつでも」
体の表面を液体のようなものが流れた。浮遊していた俺は地面へと落ちていく感覚を覚える。どんどんと意識が遠のいていく。初めは恐怖だったものが、今は快感になっていた。これで自由が得られる。手足を自由に動かせる。飯も食える。女も抱ける。それらを考えると思わず笑いがこみ上げた。