環境問題
「奇麗な金魚鉢ね」
女は男の部屋に入るなり、先ずは目についた金魚鉢に感歎の声を上げた。小さな器に、水草と魚が一緒に入れてある。魚自体は金魚ではなく、何か他の小さな魚だった。
「いいだろ? お気に入りさ。環境問題を考えるには、もってこいでね」
「確かに、日頃からエコがどうとか、地球環境がどうとか、うるさいものね。そうね。こんなに奇麗な水と魚を見てると、私もエコと自然とか考えちゃうわ」
「熱心だと言ってくれよ。このマンションも、エコを考えて選んだんだぜ」
「へぇ。普通のマンションに見えるけど?」
女は部屋を見回しながら、リビングのソファーに腰を下ろした。
「はは。エコロジーだからと言って、特別我慢する必要はない。ということかな。普通に生活しているだけで、この部屋なら地球環境に優しい暮らしができるんだ」
「へぇ。すごい。でも、高くつかないの?」
「いや、そんなことはないよ。これが先月の請求書。電気代や水道代を見てご覧」
「えっ、安い。でもこのエコ負担金て何?」
「エコ発電装置の維持管理費や、ゴミリサイクル費だね。後はその他の日常生活における、環境ニュートラル負担金。もちろん水処理費も入ってる。相応の負担だよ。ま、その他に、水は毎日一定量を使わないといけないけどね」
「何で? それで、エコになるの?」
「元より環境に配慮して、このマンションは建てられているからね。指定されている水量程度じゃ、普通の水道水をちょろちょろ使うより、断然エコなんだよ」
「ふぅん。どうして?」
「数は力だからね。一定の水量がないと、肝心のエコの処理がうまくいかないからだよ」
「へぇ、そんなものなの?」
「そうだよ。でも、いい部屋だろ。電気も水も安くつくよ。で、ここからが本題。ねぇ、ここに住みたいと思わない? 二人でさ」
「え? そんな。急に言われても……」
女は戸惑いに辺りを見回す。
奇麗に整頓された部屋だ。余計なものが何もない。男の一人暮らしにしては、随分とさっぱりしている方だろう。
奇麗な金魚鉢のあるこの部屋は、まるでその金魚鉢そのもののように見えた。何と言うか、余分なものや、不純なものが、そう――環境に悪そうなものが何もないのだ。
それが男の誠実さや、実直さを表している。
そう素直に感じたられ女は、
「こんな私でよければ……」
と、男の申し出を受け入れた。
「あなた。最近この部屋、水の出が悪いのよ」
妻となった女は、夕食の席に着きながら夫に相談を持ちかけた。女がこの部屋に住み始めて数ヶ月。エコ生活を満喫していたが、ここ数日は水道の出が気になっていた。
「そうかい?」
「そうよ。そりゃ、節水だって言われれば、我慢するけど。むしろ一定量を使えって言われてるぐらいでしょ、ここ? でもいくらエコでも、全く出ないのは話にならないわ」
「そりゃ、そうだね」
「ねぇ、管理会社に電話してよ。あの魚みたいには、私達はいかないもの」
女は結婚を決めた時に見た、金魚鉢に目をやる。一度も餌をやった覚えがない。元より密封されており、餌のやりようがないのだ。
夫によると地球環境を模した、閉鎖系と呼ばれるシステムとのことだった。魚を水草と一緒に入れ、十分な太陽光にあてる。それだけで酸素と二酸化炭素、その上餌に栄養素まで、この狭い金魚鉢の中だけで自己完結するらしい。互いの老廃物が栄養になるのだ。
もちろん誰も、水すら換えたことがない。
実際にはどんな魚でもよい訳ではないらしい。少々低酸素の為、それを問題としない頼もしい魚が入れられているとのことだった。
「分かった。今から電話するよ」
こちらも頼もしい夫はすぐその場で電話を始め、妻はその様子を誇らしげに見つめた。
「で、その頼もしい夫と、何で別れたの?」
「だって――」
そう訊かれて女は、転がり込んだ先の友人の部屋で口を開く。
「だって、上の階の人が自殺していたのよ。浴槽で手首切って、数週間そのままだったんですって。湯船に少しずつ水を出しながらね。でね、分かったの。私達はあの金魚鉢の魚だったってね。一定量の水を使うことで、上から下へ水を循環させていたのよ。エコ負担金でね。ううん。そんなことは問題じゃないの。だってあの人は――」
女はそこで、一度大きく身震いをした。
「あの人は――環境ってそんなもんだろって、それでもそれを『問題』にしなかったのよ」