私はあなたの妹ではありません
「え?」
ベリング公爵令嬢であるアンジェは、自分の耳を疑った。
なぜなら、三年前から『アンジェが社交界デビューしたら結婚しよう』と約束していた年上のダリルが、見知らぬ女性と手をつなぎながらこう言ったからだ。
「驚かせちゃったかな? 彼女はキャシー。僕の恋人なんだ」
紹介されたキャシーは、頬を赤らめながら微笑んでいる。彼女は、ダリルと同じライトブラウンの髪で、ブラウンの目のダリルとは違い青い瞳を持っていた。並んだ二人は、年頃も近くとてもお似合いだ。
キャシーは、まるで小さな子どもに接するように、優しくアンジェの顔をのぞき込んだ。アンジェは、もうすぐ社交界デビューする予定の十六歳だというのに。
「初めまして、ダリルからお話は聞いているわ。ふわふわの金髪に宝石のようなピンク色の瞳。お母様に似ているのかしら? なんて可愛らしいの! こんな可愛い妹がいるなんてダリルがうらやましい」
アンジェが「妹……?」とつぶやくと、ダリルは「ね? 可愛いでしょう」とキャシーに甘い笑みを向ける。
それを見たアンジェは、頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
(そんな顔、私は一度も向けられたことがないわ)
アンジェは、ダリルと婚約しているつもりだった。まだ正式ではなかったが、ダリルのことを婚約者だと思ってこれまで大切に向き合ってきた。
(私はダリル様にとって、ただの妹だったの……?)
このときになってアンジェは、自分が長年とんでもない勘違いをしていたことにようやく気がついた。
*
アンジェがダリルに初めて会ったのは、今から五年前。
アンジェの兄ヘンリーが、学園で知り合った友人たちを公爵家に招いたときだった。皆、未来の騎士候補生だったので、公爵家の訓練場を借りて剣術を鍛えようとしていたらしい。
十一歳になったばかりのアンジェは、兄の友人たちに興味津々でこっそりと見にいった。アンジェは必死に隠れていたつもりだったけど、隣にいたアンジェ付きの侍女が隠れていなかったので、すぐに兄に見つかってしまった。
「あれ? アンジェ?」
怒られると思い、兄から逃げようと走り出したところ、勢いよく転んでしまった。そんなアンジェにいちはやく手を差し伸べたのがダリルだ。
「大丈夫?」
優しく微笑みながら、アンジェを抱き起して、服についた土を手で払ってくれた。
「見学しに来たの?」
アンジェがコクリと頷くと、ダリルは優しく微笑む。
「じゃあ、僕と一緒に見学しよう」
その後、兄たちが剣の訓練をしている中、ダリルだけがずっとアンジェのそばにいて話し相手になってくれた。
その間、「妹ってかわいいなぁ。ヘンリーがうらやましいよ」なんて言っていた。
優しい年上のダリルに、アンジェが好意を持ったのは言うまでもない。
ダリルは、その後もちょくちょくと公爵家に来るようになった。その度に、アンジェの話し相手になってくれた。いつも「かわいいね」と褒めてくれるのが嬉しかった。
そうして、徐々に交流を重ねて二年が経ったころ、アンジェはダリルへの恋心を自覚した。自覚したのなら伝えるのみ。
「ダ、ダリル様のことをお慕いしております」
パッとダリルの表情が明るくなった。
「ほんと? 嬉しいなぁ」と言ってもらえたときには、アンジェの瞳に涙が滲んだ。
「私をダリル様のお嫁さんにしてくださいますか?」
「もちろん!」
ダリルは、優しい手つきでアンジェの頭を撫でてくれた。それからは、「僕のお姫様」と呼びながらアンジェを大切にしてくれるようになった。
アンジェとしては、すぐにでも婚約したかったが、この国では社交界デビューを済ませるまで婚約することが禁じられている。
過去に、親が決めた幼いころからの婚約で苦しみ、悲劇がおこってしまったからだそうだ。
アンジェが父である公爵に「将来的にダリル様と結婚したいです。彼も同じ気持ちです」と告げると、公爵は難色を示した。
「おまえはまだ婚約できる年ではない。それまでに、気持ちが変わるかもしれない」
「そんなことはありません」
「ならば、おまえが社交界デビューしたあとも、お互いに心変わりしていなかったら二人の婚約を認めよう」
「お父様、ありがとうございます!」
父としては、今は亡き妻によく似た娘が可愛くて仕方なかった。最愛の妻の遺言は「どうか子どもたちを幸せにしてくださいね。そして、あなたも幸せになってください」だった。
だから、相手の家が子爵位でこの結婚になんの利益もなくとも、娘が幸せになれるのなら将来的に二人の結婚を許すつもりだったのだ。アンジェの幸せこそが、自分の幸せでもあったから。
しかしながら、ダリルは子爵家の次男でこのまま結婚するとアンジェまで平民になってしまう。
(とりあえず、ダリルとやらを我が公爵家の騎士団に入団させて、アンジェとの婚姻が整い次第、余っている伯爵位を継がせるか)
愛おしい娘が将来的に伯爵夫人になってしまうが仕方ない。本当なら王家との婚約ですら可能だったが、アンジェの幸せを一番に考えた結果だった。
念のため、ダリルの実家ともその流れで話をつけておいた。
まさか三年後に、ダリルのほうが心変わりをしてアンジェが捨てられるなんて、夢にも思わず。
*
愛おしい娘から報告を受けたベリング公爵は、執務室で怒りに震えていた。
「ダリルがそう言ったのか?」
「……はい。恋人を紹介されました」
アンジェの声は、今にも消え入りそうだ。
兄ヘンリーはガンッと乱暴にテーブルを叩いた。
「あのクズ野郎、命が惜しくないようだ」
いつも紳士で令嬢たちからも絶大な人気を得ているヘンリーが暴言を吐いているところを、アンジェは初めて見た。
(ヘンリーお兄様……。私のために怒ってくださっているのね)
刃物でズタズタに切り裂かれたように痛んでいたアンジェの心が、兄の優しさで少しだけ温かくなる。だからこそ、アンジェはヘンリーに無理にでも微笑みかけた。
あまりうまくいかず、泣き笑いのようになってしまったけれど。
「ダリル様は、お兄様のご友人だったのに……。こんな結果になってしまい申し訳ありません」
「アンジェが謝る必要はないよ。そもそも、友人でもないからね。初めて我が家に来たときもアイツは誘っていないのに、友人の友人としてついてきただけなんだ。しかも、転んでしまったアンジェに一番にたどり着けたのは、アイツが訓練をさぼって端っこにいたからだ! そうじゃなければ、私が抱き起していたのに!」
「そ、そうだったのですか?」
「アンジェが気に入っていたから、何も言わなかったがアイツのことは昔から気に入らなかった」
ヘンリーの横で父も頷いている。
「アンジェよ。あの男は、まだ正式に婚約もしていないのに、アンジェの名で買い物してあちらこちらの支払いを公爵家に回していただろう?」
「そうですね……」
ダリルがほしいというものは、なんでも買ってあげていた。
「アンジェの資産から出していたので、何も言うまいと思っていたが、あまり褒められた行動ではない。それにしても、ダリルがアンジェと結婚するつもりがなかったのなら、一体、この三年間はなんだったのだ?」
「えっと、ダリル様は私のことを妹だと思っているそうで?」
父と兄の声が「はぁ⁉」と重なる。
父が「どうして、うちのアンジェがアイツの妹になるんだ!」と怒鳴ると、ヘンリーも「アンジェは私の妹だ!」と叫ぶ。
「それに妹だと思っているなら、どうしてアンジェに支払いを回すんだよ!? そんなことをする兄なんて、どう考えてもおかしいだろう?」
「言われてみれば、そうですね……」
アンジェだって、ダリルのことを兄だなんて思っていなかった。
未来の夫として、手紙や贈り物はきちんとしていた。その度に、ダリルはいつも大げさなくらい喜んでくれていたので、アンジェも嬉しかった。そこでふと気がつく。
「あれ? 私、ダリル様から手紙や贈り物をいただいたことがないかもしれません」
その場で摘んだ花をもらったことはある。会えばいつも可愛いねと褒めてくれる。だが、それだけだ。
思い返せば、手はつないだことがあるものの、まともにエスコートしてもらった記憶がない。しかも、出会ったころならまだしも、いまだにアンジェの髪をなでて乱してしまうときがある。そのたびにアンジェが「やめてください」と伝えても「君が可愛くてやめられない」と笑うだけで謝りもしない。
「あれ?」
また別の日には、アンジェはダリルと公爵家の別荘に遊びにいく約束をしていた。しかし、直前に「行けなくなった」と連絡があり、仕方がないので侍女と向かうと、なぜかダリルが友達をたくさん招いて我が物顔で別荘を使っていた。
それらの無礼をアンジェは、おかしいと思いながらも「好きだから」と自分に言い訳をしてすべて笑顔で許してきた。
でも、その「好きだから」という理由を取っ払うと、そこには何も残らない。驚くほど、何一つ楽しい思い出がなかった。
そして、恋人のキャシーを紹介された日は、よりによってアンジェとダリルがデートをする日だった。その場に、事前連絡なくいきなり恋人を連れてきて紹介されたのだ。もちろん、デートはなくなり、アンジェは一人、馬車に乗って帰った。その途中、腕を組みながら仲良く歩くダリルとキャシーを見かけて、馬車の中で静かに涙を流した。
今思えば、あまりにもアンジェのことを軽視した行動だ。
「……私、どうしてダリル様が好きだったの?」
初恋の熱から冷めたアンジェの問いに答えられる者は、誰もいなかった。
**
一方、ダリルは幸せを感じていた。
これまでも可愛らしい妹アンジェと、信頼できる友人たちに囲まれて幸せに暮らしていたが、そこにさらに愛する恋人キャシーまでできたのだ。
キャシーとの出会いは、もはや運命だった。
街中で、キャシーが道に迷っていたので助けてあげたのだ。
キャシーは、これまでずっと王都から遠く離れた男爵領で暮らしていたらしい。
貴族でありながらあまり裕福ではなく、この年まで社交界デビューできなかったとか。
「田舎暮らしが嫌で逃げてきたの」とも言っていた。
都会に憧れがあるキャシーは、ダリルが何かをするたびに、大げさなくらい感動して喜んでくれた。
適当なカフェに連れていっただけで、「こんな素敵な場所に連れていってくださるなんて」と頬を赤く染める。
気まぐれに安物のアクセサリーを贈ったら、「嬉しい」と涙ぐんでくれた。
キャシーといると居心地がいいし、自尊心が満たされる。
もちろん、妹のようなアンジェのほうが可愛いが、一緒になるなら断然気楽なキャシーだった。
(アンジェは僕のことが大好きだから、きっと僕が選んだ女性のことも好きになってくれるよね)
そう思い、アンジェと会う予定の日にキャシーを連れていって紹介した。
キャシーは、可愛らしいアンジェを見られて大喜びだった。アンジェは、驚いていたけどキャシーを受け入れてくれたようだ。
(僕は実力で副団長にまで登りつめているし、公爵からも認められていて後々、伯爵位をいただく話まで出ている。結婚しても十分キャシーを養っていける)
ダリルは、本気でそう思っていた。しかし、アンジェとキャシーを合わせた次の日。
騎士団の仲間たちは、ダリルによそよそしかった。
先輩たちは目すら合わせないし、これまで「ダリル先輩!」と慕ってきてくれていた後輩たちですら近づいてこない。
(なんだ?)
おかしな空気の中、ダリルは団長に呼び出された。そこで、あっさりと副団長の役職を解かれた。
「は? 急にどうしてですか?」
騎士団長が、ダリルに向ける目は冷たい。
「ここは、ベリング公爵家に忠誠を誓い、その方たちのために剣を振るう騎士団だ」
「それがなんなんです⁉」
「分からないのか? だからだよ」
「はぁ⁉」
「元から実力も伴っていなかったからな。今回のことは、いい機会だった。話は終わりだ」
団長の拒絶の意志は強く、取り付く島もない。
ならばとダリルは、公爵家令息であるヘンリーを捜した。
(ヘンリーなら団長を説得できる!)
ちょうどヘンリーが体を動かしに訓練場に現れたところだった。ダリルは、いつものようにヘンリーに駆け寄り、気安く声をかけた。
「ヘンリー、聞いてくれ!」
ヘンリーは聞こえなかったのか、こちらを振り向かない。ダリルは、回り込んで話を続けた。
「団長が急に、僕を副団長から外すと言ったんだ! 君からやめるように言ってくれ」
それでもヘンリーは返事をしない。
「おい、聞いているのか⁉」
ヘンリーの肩をつかもうとしたら、それより先にヘンリーに剣の刃を首元に突きつけられた。ダリルに向けられたのは、本物の殺意だ。
「立場を弁えろ」
恐怖でその場に座り込んだダリルに、誰も近づこうとしない。まるでダリルなど存在しないかのように、団員たちは訓練を始めた。
(くそっ! なんなんだよ!)
気分が悪い。ダリルは、いつものように訓練をさぼって街に出た。そこで、気分転換に買い物をしようとして店に入ると、キャシーに似合いそうな指輪を見つけた。
(そうだ、これを婚約指輪として贈ろう)
きっと、キャシーはまたうれし泣きしてしまうだろうなと口元を緩める。
いつものようにアンジェの名前で支払いをしようとしたとたんに、それまでニコニコしていた店員の表情が変わった。
「お引き取りください」
「は?」
「今後、二度と当店にはお越しになりませんよう」
乱暴に店から追い出されてしまった。
何がなんだか分からない。
いつもなら『支払いは、グランツ公爵家のアンジェへ』と告げるだけでなんでも買えたのに。
仕方がないので、お気に入りのレストランに向かうと入店拒否された。そういうことが何回も続いて、ようやくダリルは原因を思いついた。
「もしかして、アンジェが僕に嫌がらせを……?」
*
アンジェは、兄ヘンリーからの報告を聞いてきょとんとしてしまった。
「えっ、ダリル様が騎士団をやめさせられた?」
ダリルから恋人キャシーを紹介されて、まだ二日しか経っていない。向かいのソファーに座っているヘンリーも呆れ顔だ。
「副団長から外されたことを不服に思い訓練をさぼった挙げ句、戻ってきたかと思ったら『店で買い物ができない! アンジェから嫌がらせを受けている! アンジェを出せ』と喚いたんだ」
「私の名前で支払いができないって……。私と結婚するつもりがないのなら、当たり前のことでは?」
ヘンリー曰く、ダリルは訓練もさぼってばかりで真面目でなく、しかも弱い。でも、将来的にアンジェの夫を名乗るので、お飾りで副団長の座についていた。
それは、少しでもアンジェにふさわしい男だと周囲に証明するために必要なことだった。ちなみに、ダリルの代わりにもう一人、本物の副団長がいてその方はとても真面目な方だとか。
なので、ダリルがキャシーと恋仲になった瞬間、副団長から外されるのは当たり前だった。
アンジェの名前で買い物ができないのも、アンジェとの将来がなくなったので必然だ。そのことを、ダリルは理解できていないらしい。
アンジェは、ため息をついた。
「私、本当にどうして、あんな人のことが好きだったの?」
そのせいで、周囲にたくさん迷惑をかけてしまっていた。
「お兄様、今まですみませんでした」
「アンジェが謝る必要はないよ。私もダリルがここまで愚かだとは思っていなかったから。今回のことは、お互いいい勉強になったね」
コクリと頷いたアンジェは、ダリルのことを早く忘れてしまおうと、社交界デビューの準備を始めたのだった。
*
社交界デビューの当日。
他国では白い衣装を着て王族に挨拶するらしいが、この国では好きな色のドレスを着て参加する。そして、王族に挨拶するのではなく、王宮主催のパーティーでダンスを踊りきったら大人の仲間入りだった。
アンジェは、自分のピンク色の瞳に合わせた華やかなドレスを身にまとっていた。美しく着飾ったアンジェをエスコートするのは、父である公爵だ。兄もエスコートしたがったが、アンジェと初めてダンスを踊る約束をしたことで、エスコート役はしぶしぶ父に譲った。
もうすぐダンスが始まるので、アンジェは父のもとを離れてヘンリーの手を取った。
アンジェたちの周囲には、他にも社交界デビューする令嬢たちがパートナーと手を取りながら曲が始まるのを待っている。
その中に、見覚えのある男女を見つけた。
アンジェの初恋だったダリルと、その恋人のキャシーだ。ダリルは、何か言いたそうにこちらを睨みつけているし、キャシーは戸惑っているように見える。
(どうしたのかしら?)
と思ったものの、もうアンジェには関係ない。曲が流れると、すぐに二人のことを忘れてしまった。
無事にダンスが終わり、アンジェがヘンリーと共に父のもとへと戻ろうとしたそのとき。
「ひどいじゃないか、アンジェ!」
振り返るとダリルとキャシーがこちらに近づいてきていた。
ヘンリーは「相手にしなくていい」と言ったが、アンジェは立ち止まった。
「お兄様、ダリル様が何をひどいと言っているのか興味ありませんか?」
「言われてみれば、確かに」
「後学のために聞いてみたいです」
アンジェにとってダリルへの初恋は、もはや黒歴史になっていた。二度とあんな愚かなことをしないように、この失敗を活かしたいと思っている。
そういう思いでアンジェは、ダリルと向き合った。
「ダリル様。私の何がひどいのでしょうか?」
あれほど優しく『可愛いね』と言ってくれたダリルの目は、親の仇を睨むかのようにつり上がっている。
「いい加減、嫌がらせはやめてくれ!」
「嫌がらせというと?」
「僕が店やレストランを使えないようにしただろう? しかも、別荘まで使用禁止にして。君の嫉妬には、もううんざりだよ!」
アンジェの隣から盛大なため息が聞こえてくる。ヘンリーだ。
「ダリル、おまえはそこのキャシー嬢と恋仲なのだろう?」
「そうだよ?」
「だったら、なぜアンジェの名前を使って買い物や食事をしようとするんだ? 別荘だって、あれは公爵家の持ち物だ。おまえが使う権利などない」
不服そうなダリルの横で、キャシーが信じられないものを見るようにダリルを見た。
「ねぇ、どういうことなの? さっきからずっと不思議だったんだけど、アンジェ様はダリル様の妹なのでしょう? それなのに、どうして公爵家の方とダンスを……?」
「うん、アンジェは僕の可愛い妹だよ」
それを聞いたアンジェは、はっきり「いいえ」と否定した。
「私はダリル様の妹ではありません。グランツ公爵家の一人娘です」
キャシーの口から「ひっ」と小さな悲鳴が上がる。
「わ、私、勘違いでなんて失礼なことを」
震えるキャシーの肩をダリルが抱き寄せた。
「アンジェ、キャシーを怖がらせないでくれ! 君がそんなに意地悪だなんて知らなかった」
キャシーは、ダリルの手を振り払った。
「どうしてアンジェ様が公爵家のご令嬢だと教えてくれなかったの⁉ ひどいじゃない!」
「えっ?」
キャシーの瞳は疑心に満ちている。対照的にダリルは戸惑っていた。
「だって、アンジェは僕の妹のようなもので」
「妹のようなものは、妹ではないでしょう? そもそも、あなたは公爵家の人間じゃないわ!」
「で、でも公爵様は僕のことを認めてくださっているよ? 将来的に伯爵位を譲ってくださるそうだし」
ここまで聞いてキャシーは、とある可能性に気付いた。
「伯爵位を譲るって……。それってもしかして、あなた、アンジェ様と……」
キャシーは、その言葉のつづきは口にしなかった。代わりに「嘘でしょう」と絶望の声が聞こえてくる。
(ダリル様より、よほど賢い方なのね)
つい最近まで領地で暮らしていたらしいので、キャシーは本当にアンジェとダリルが将来の約束をしていることを知らなかったようだ。
そして、今になってその事実に気がついてしまった。
キャシーは、涙ぐみながらアンジェに頭を下げた。
「申し訳ありません! 何も知らなかったのです。決して、公爵家に立てつこうなど――」
「そこまでだ」
キャシーを止めたのは、いつのまにかアンジェの隣に立っていた公爵だった。ダリルとキャシーが騒ぐので周囲に人垣ができてしまっている。
公爵が、キャシーにかけた声は落ち着いていた。
「あなたが心配しているようなことはない。安心してダリルと一緒になりなさい」
キャシーは震えながら「に、二度とダリル様には近づきません。大変申し訳ありませんでした」と涙ながらに去っていく。
その場に取り残されたダリルは、事情がのみ込めないのか呆然と立ち尽くしていたが、公爵の声で我に返ったようだ。
「ダリル卿」
「は、はい」
「嘘はいけないな。君は、我が公爵家となんの関係もないのに、伯爵位を譲る予定などあるはずがない。今日は祝いの席だから見逃すが、次はないぞ」
冷酷な瞳を向けられてたじろいだものの、ダリルは引き下がらない。
「で、でも、公爵さまは僕を認めてくださっていましたよね?」
「ああ、あれは我が愛しの娘の話し相手として、一時的に受け入れていただけだよ」
「は、話し相手?」
「そうだろう?」
公爵の有無を言わせない空気に、さすがのダリルも危機感を覚えた。友人だと思っていたヘンリーの目も恐ろしいほど冷たい。
「ア、 アンジェ……」
アンジェに縋りつこうとしたら、サッと避けられてしまった。
「ダリル様。今までお話し相手になってくださりありがとうございました。とても勉強になりましたわ」
ニコリと感情を読ませない表情で微笑むアンジェは、可愛い妹ではなく、美しい淑女だった。
*
二曲目のダンスを父と終えたアンジェはため息をついた。
「お父様。私の結婚相手はお父様が決めてくださいね」
「急にどうしたんだい?」
「だって、私ったら本当に見る目がないんですもの……」
先ほどのダリルの姿は、呆れを通し越して、『どうして理解できないの?』と恐怖すら感じてしまった。
そのとき、アンジェに声をかける者がいた。
「グランツ公爵令嬢、どうか私と踊っていただけないでしょうか?」
黒髪の青年が、どこか緊張した面持ちでアンジェに向かって右手を差し出している。アンジェと同じ年の第二王子エヴァンだ。
アンジェがチラッと父を見ると「踊ってきなさい」と背中を優しく押された。
戸惑いながらエヴァンの手に自分の手を重ねると、彼の頬がほんのりと赤く染まる。
「受けてくれてありがとう。どうか、私のことはエヴァンと呼んでください」
「はい、エヴァン様。私のことはアンジェと」
「嬉しいです。アンジェ嬢」
アンジェに微笑みかけたその瞳は、どこか甘くて。
(あっ、この目……)
キャシーを恋人だと紹介したときのダリルも、こんな目をしていた。
(もしかして、エヴァン様は私のことが?)
そこまで考えてアンジェは小さく首を振る。
(駄目よ。私、見る目ないもの)
だからエヴァンに、「アンジェ嬢は、どんな男性を好ましいと思いますか?」と尋ねられたとき、にっこりと微笑んでこう返した。
「どんな方でも構いません。私は、お父様が決めてくださった方と一緒になります」
「そうですか……」
その後、覚悟を決めたエヴァンが、グランツ公爵に自分を売り込みに行くようになることをアンジェは知らない。
*
一方、ダリルは、パーティーから戻るとすぐに父である子爵に呼び出された。そこにはダリルの兄の姿もある。
子爵はパーティーに参加していなかったが、その一部始終をダリルの兄が見ていたのだ。そして、あまりの恐ろしい光景に割って入ることができず、今にも気を失ってしまいそうな妻を支えながら家に帰るのが精いっぱいだった。
「グランツ公爵令嬢を妹扱いなどと……」
子爵も胃が痛くて仕方ないといった様子だ。そんな二人をよそに、ダリルは納得していなかった。
「だって、これまでずっとアンジェは僕の可愛い妹で」
兄が頭を抱えている。
「バカだな。アンジェ嬢はおまえを兄だなんて思っていなかったよ。恋愛対象として慕ってくれていたというのに」
「えっ、アンジェが僕のことを?」
「それすら気がついていなかったのか⁉ おまえ、アンジェ嬢から告白されたのだろう? 将来、結婚する約束をしていたんじゃないのか⁉」
「は? 告白って、あんなのただのおままごとじゃないか。本気にするほうがどうかしてるよ」
「どうかしているのはおまえのほうだ! 本気な証拠に、『アンジェ嬢が十六歳になってもお互いの気持ちが変わらなかったら婚約する』という契約を公爵家と秘密裏に交わしているだろうが!」
ダリルは、気まずそうに視線をそらした。
契約書だなんてややこしいものには、これまで、まともに目を通したことがない。
父も頭が痛そうだ。
「あの契約があったから、これまであんなにも優遇していただいていたんだぞ? でなければ、不真面目なおまえが副団長になれるわけがない。そもそも騎士団に入団できたかすら怪しいのに。しかも、恋人ができたことを当主の私に報告する前に、アンジェ嬢に報告するなんて、おまえはどこまで愚かなんだ」
父と兄から聞いた言葉を、ダリルなりに解釈するとこうなった。
「じゃあ僕が、キャシーと別れてアンジェと結婚すればいいんだろう? そうすれば、すべて元通りになる。別にアンジェのことは嫌いじゃないから、結婚してあげるよ」
「まてまてまてー!!」
ニッコリ笑うダリルを、父が必死に止める。
「もうそういう段階ではないし、どうして上から目線なんだ!? 相手は、あのグランツ公爵家なんだぞ?」
「でもっ」
「でもじゃない!」
兄は素早く父に耳打ちした。
「父上、コイツはもう駄目です。ご決断を」
「そうだな……。このままにしておくと、アンジェ嬢に会うために公爵家に笑顔で突撃しかねない。そうなったら我が家は終わりだ」
子爵は、ダリルを縄でぐるぐる巻きにさせて、部屋に閉じ込めた。
「何をするんだ!」
「おまえの処遇は、公爵様に決めていただく。ここで大人しくしていろ」
勢いよく扉が開かれたあと、ガチャリと鍵をかける音が聞こえた。
「くそっ!」
ダリルがどれだけ叫んでも、もう誰も来なかった。
いつのまに眠っていたのだろうか。ダリルが気がつくと、朝日が昇っていた。空腹だし、縄が食い込んで痛い。しかし、一晩中叫んでいたので、これ以上ダリルが叫ぶことはできなかった。
そのとき、部屋の扉が開いた。
「父上……」
父はダリルの目の前で手に持っていた契約書に火をつけた。
「これは、おまえとアンジェ嬢の将来について書かれた契約書だ。公爵様との話し合いの末、すべてなかったことになった」
「は?」
「だから、おまえとアンジェ嬢の間には何もなかった。いいな?」
「何もなかったって! アンジェは僕のことが好きなんだろう⁉」
「いいや、そんな事実はない。おまえは妄言でアンジェ嬢を侮辱したから、罰として子爵領へ送る。連れていけ!」
父の合図で屈強な使用人がダリルを担いで、荷馬車に無理やり押し込めた。
子爵領は、王都から遠く離れていて、のんびりとした田舎だ。
「嫌だ! あんなところに行きたくない!」
喚くダリルに、父はため息をつく。
「領地へ送るのが、私からおまえへの最後の情けだ。領地から出たら、おまえを始末する。……お願いだから、私に子殺しをさせないでくれ」
父の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。その涙を見て、ダリルはようやく自分が何か大変な間違いを犯したのだと気がついた。
その後、ダリルは質素な小屋で一人きり、自給自足の生活をすることになる。子爵家からの援助はなかった。
日々、食べるものにも困るような生活の中で、ダリルは王都でどれほど無駄な散財をしていたのか気がついた。しかも、それは自分で稼いだお金ではなく、妹扱いしていたアンジェのお金だ。
「そうか、僕はアンジェの好意を利用して大金を貢がせていたのか。それなのに、責任を取りたくないから彼女を都合よく妹扱いして、最後には捨てた。そして、捨てたあとですら、貢がせようとしていたんだな……」
本当ならグランツ公爵に始末されても仕方がないくらいのことをしていた。貢がせた分のお金は、アンジェから返済要求されていない。もし、されていたら、ダリルは今頃、領地ではなく鉱山にでも送られていただろう。
二人が正式に婚約していなかったことが、両者にとってせめてもの救いになった。
公爵もアンジェも、ダリルと婚約する予定ごと記憶から消し去り、すべてをなかったことにしたのだ。そうすることで『長年慕っていた子爵令息ダリルに、捨てられた哀れな公爵令嬢アンジェ』という醜聞がつくことを避けた。
「僕は、確かにアンジェを可愛い妹のように思っていたはずなのに……。どこで間違ってしまったんだろう……」
しばらくして、風の噂でアンジェが第二王子と婚約したと聞いた。
ほんの一時、ダリルと恋仲だったキャシーは、真実を知ったあと、逃げるように男爵領に戻り、そこで幼馴染の青年と結婚して幸せに暮らしているらしい。
おわり
【以下、宣伝です】
〇11/16 コミックス2巻
【白良木羅々先生】によるコミカライズ
『最恐魔法使いの愛が一途すぎる 封印された元聖女は禁忌の愛でお目覚めです』
〇来年1/9 小説3巻(この巻で完結です)
『社交界の毒婦とよばれる私~素敵な辺境伯令息に腕を折られたので、責任とってもらいます~』
イラストは、コミカライズを担当してくださっている【霜月かいり先生】です
どうぞよろしくお願いいたします♪




