夫が絶対に美味しいと言わないので、隣に住むハンサムな国境警備隊長に料理を作ることにした
「このシチューは三時間煮込んだのよ」
「うむ⋯⋯」
「今朝はオムレツにマッシュルームを入れてみたわ」
「うむ⋯⋯」
私の夫は絶対に美味しいと言わない。
◇
私が弁護士の夫と結婚したのは二年前。
私たちは夫婦喧嘩をしたことは一度もない。
夫は金曜日には花束を買ってきてくれる。
日曜日には少しおしゃれして一緒に教会に行く。
不満も悩みもない幸せな結婚生活だ。
だけど最近、気になることがある。
「あの人、一度も美味しいと言ってくれたことがないのよね⋯⋯」
たぶん言う必要を感じていないのだろう。
「毎日のことだもの。『美味しいよ!』なんて言ってられないわね」
そんなことを考えていたとき、隣に住む国境警備隊のフィリップ隊長が久しぶりに帰宅した。
◇
「フィリップ隊長!? その腕の包帯は、どうなさったのですか?」
「不注意で怪我をしてしまいました。見た目ほどひどくはないのですよ。⋯⋯痛っ」
フィリップ・ロード国境警備隊隊長は包帯を巻いた左腕を肩から吊っていた。
ひどくはないと言っているがどう見ても重症だ。
今年初めての雪がはらはらと舞い散る凍えるほど寒い通りで、ハンサムな顔が青白い。
「しばらく休暇です。のんびりしますよ」
「⋯⋯その手ではいろいろと大変そうですね」
「まあ、なんとかやりますよ。ワインと干し肉があれば十分です」
短期の傷病休暇なのでメイドは雇わないらしい。
夕食時、夫がフィリップ隊長の怪我の原因を話してくれた。
「フィリップ隊長は王弟陛下を助けようとして怪我をしたらしいよ。王都ではその噂で持ちきりだ。名誉の負傷だね」
「まあ、そうなの⋯⋯。不注意で怪我をしたとおっしゃっていたけれど」
「彼らしいね」
今夜のメニューはヒレ肉のソテーとじゃがいもとにんじんのグリル。ヒレ肉にかけたソースは私の実家に伝わる秘伝のソース。
「お肉のソースは母から教わったのよ」
「うむ⋯⋯」
「⋯⋯ねえ、あなた?」
「ん?」
「フィリップ隊長をお夕食にお招きしたらどうかしら?」
「それはいい考えだね」
「じゃあ、左手を使わないで食べられるメニューを考えるわ」
◇
「⋯⋯と夫がもうしておりますの。夕食にご招待してもご迷惑ではありませんか?」
「ありがとうございます。ご招待、感謝いたします」
では早速市場に買い物に行こう。
「右手だけで食べられるもの⋯⋯。細切れのステーキ? だめね、ステーキは塊だから価値があるんですもの」
いろいろと迷って、牛肉入りのブラウンシチューを作ることにした。
何時間もかけて弱火で煮込む。
「よし、できたわ!」
ちょうどシチューが出来上がった頃、夫が使いをよこした。
「急な案件で今夜は遅くなられるようです」
「まあ、そうなの⋯⋯。ありがとうございます」
夫が帰ってこないなら、今夜の夕食はフィリップ隊長とふたりになる。
「どうしようかしら⋯⋯。お断りした方がいいのかしら?」
悩んでいると、玄関のチャイムが鳴った。
「少し早かったでしょうか? 久しぶりの食事に気持ちが焦ってしまいました」
男らしいハンサムな顔が恥ずかしそうに笑う。
こんなに期待されたら、断ったらきっとがっかりなさるだろう。
「あの⋯⋯、実は夫は急な仕事で帰ってこれなくなりましたのよ」
「お忙しいのですね。では、あの、わたくしは⋯⋯」
「いえいえ、遠慮なさらないでください。もう料理は出来上がっていますの。シチューはお好きかしら?」
「はい、大好物です! すごくいい香りが漂っていますね」
◇
フィリップ隊長がシチューを口に運ぶのを私はじっと見つめた。
一口食べると、隊長の顔にぱっと大きな笑みが広がった。
「美味しいです!」
「え? 本当ですか?」
「もちろんです、すごく美味しい!」
どうしましょう⋯⋯。
私の料理を美味しいと言ってくれる人がいたわ!
「こんなに柔らかく煮込まれた肉は初めてです」
「三時間以上煮込みましたの」
「なるほど、それで柔らかいのですね」
「ただ煮込んだだけなのですけど⋯⋯」
「味も最高です」
「隊長は褒め上手ですね」
「俺はどちらかというと口下手なのです。でもこの料理は誉めずにはいられません。陛下の晩餐で頂いたシチューよりもはるかに美味しいです」
「⋯⋯そんなことはないと思いますわ。でもありがとうございます!」
例えお世辞でも誉めてもらえるのはすごく嬉しかった。
私は気持ちが明るくなって、思わず提案した。
「あの⋯⋯、よかったら明日の夕食もいらっしゃいませんか? 明日は夫もご一緒できると思いますの」
「すごく嬉しいです。しかしお言葉に甘えてもよいのでしょうか?」
「ぜひ、どうぞ。夫もお会いしたいと思いますわ」
「では、伺います。本当に楽しみだなあ」
少年のような笑顔だ。
◇
「お帰りなさい、あなた」
「ただいま。今日は夕食に帰れなくて悪かったね」
「いいえ⋯⋯。フィリップ隊長がよろしくとおっしゃっていましたわ。それで、あの⋯⋯。明日の夕食もお誘いしたんですけど、よかったかしら。隊長はワインと干し肉ばかり召し上がっていらっしゃると聞いて、放っては置けなくて⋯⋯」
「もちろん、いいよ。明日は早く帰る。国境警備の話も聞きたいしね」
次の日、私は昨日以上に気合を入れて夕食のメニューを考えた。
「ナイフとフォークが使えないと本当にメニューに悩むわね」
市場に行くとちょうど新鮮な鶏肉が売っていた。
「そうだわ、チキンポットパイを作りましょう!」
チキンポットパイはチキンシチューを器に入れてパイ生地で蓋をしてオーブンで焼く料理だ。
手間がかかるので滅多に作る気になれないこの料理を、私は久しぶりに作りたくなった。
「美味しいって言ってもらえるように頑張らなくては」
心がウキウキと跳ね上がる。
そして、夕刻——。
「ご招待感謝いたします、ハスキンさん」
「王弟陛下の命の恩人をお招きできて光栄です、フィリップ隊長」
「いやあ、恥ずかしいなあ⋯⋯。たまたまそういうことになっただけなんですよ」
「ご謙遜を。ここ最近の国境は平穏だったので驚きましたよ」
テーブルに着くと夫とフィリップ隊長は政治や外交の話を熱心に交わした。
熱々のポットパイを並べるとフィリップ隊長が歓声を上げる。
「これはもしやポットパイですか? 俺の母がよく作ってくれていました。嬉しいなあ」
「まあ、そうですの? お口に合えばいいのですけれど」
「もちろん合いますよ!」
にこにこと笑いながら一口食べる。
「うーん、美味しいです! とても美味しい!!」
「そうですか? 本当に?」
「ええ、もちろん本当です。こんな美味しいポットパイは初めてです。母のはチキンが固かったのですが、カトリーヌさんのはとても柔らかい。どんな工夫をされているのですか?」
「特別なことは何も⋯⋯。ただ、調理の前に白ワインに漬け込んでおきました」
「ああ、なるほど! ほのかに香るのは白ワインか!! 美味しいです、すごく美味しいです!」
「⋯⋯ありがとうございます」
「ハスキンさんは幸せですね、こんなに美味しい料理を毎日食べられて」
「ええ、まあ⋯⋯。ところでフィリップ隊長、先ほどの国境警備の話ですが⋯⋯」
夫は今夜も美味しいとは言わない。
でも私は平気だった。
フィリップ隊長が美味しいと言ってくれたから⋯⋯。
◇
「今日は早く帰れるよ」
「ええ、わかったわ。フィリップ隊長をまた夕食にお呼びしたらご迷惑かしら? ⋯⋯王都の英雄をおもてなしできるのは嬉しいわ」
「もちろんいいさ。怪我が治るまでうちで食べてもらったらいい。政治の話ができるのは嬉しいしね」
「じゃあ、そうするわ⋯⋯。行ってらっしゃい」
扉を開けると、空には黒い雪雲が流れている。
「寒くなりそうだわ、気をつけてね」
「ああ、行ってくるよ」
夫を見送った後で隣に声をかけた。
フィリップ隊長は遠慮しながらも嬉しそうな顔をしてくれた。
「今夜は何をつくろうかしら?」
市場に行くと新鮮なリンゴが山のように売っている。
「そうだわ、デザートにアップルパイを作りましょう。アイスクリームも添えようかしら。きっとすごく美味しくなるわ」
私は張り切って夕食の準備を整えた。夫は朝の約束通り早く帰ってきたが、なぜかフィリップ隊長が遅い⋯⋯
「遅いわね、隊長さん⋯⋯。何かあったのかしら?」
「仕事だろう」
「仕事? でもお休みでしょう?」
「軍人も彼ぐらいの地位になるといろいろと書類仕事があるのさ」
「ふうん、そうなのね⋯⋯」
私は窓からじっと隣の家の玄関を見つめる。
今夜は来られないのかしら? お忙しいのかしら? 急に気持ちがどんよりとしてくる。
「あら? いらしたわ!」
慌てた様子で飛び出してきたフィリップ隊長が我が家に走ってやってくる。
「怪我人なのに走ってはだめですわ」
そう言いながら迎え入れると、隊長は照れて笑った。
「遅れたら食べられなくなると思って」
「まあ⋯⋯」
私も思わず笑ってしまった。
◇
「このアップルパイは最高ですね。え? このアイスクリームは手作りなんですか? それはすごい。 本当にカトリーヌさんは料理上手ですね」
「そんなに誉めていただくほどのものではありませんわ」
「正直に言ってるだけです」
「ところでフィリップ隊長、先ほどの王弟陛下の話ですが⋯⋯」
夫と隊長はまた政治の話に戻る。
食事の後、隊長はすごく悲しい顔になった。
「実は明日は、隊に顔を出さなくてはいけないのです。お夕食に伺えなくても残念です」
「あら、そうなのですね⋯⋯」
私もものすごく残念だ。
次の日の夕食はチキンソテーを作った。
「ねえ、あなた?」
「ん?」
「このチキンのソースは母から教えてもらった秘伝のソースなのよ」
「うむ⋯⋯」
「⋯⋯紅茶を用意するわね」
なんだろうこの気持ちは⋯⋯?
考えたけれどよくわからない。
だけど、ベッドに入って瞼を閉じた時にわかった。
これはたぶん、寂しい——だ。
◇
次の日、フィリップ隊長は夕食にやってきた。
「昨日は失礼しました。とても残念でした」
「⋯⋯私もすごく残念でしたわ。えっと、あの⋯⋯今夜はお魚料理ですのよ。お好きだといいけど」
「もちろん好きです」
こんがりと焼いた鱒と焼き野菜のグリルを食べた隊長は、天井を仰ぎ見て感動する。
「これほど美味しい鱒は初めてです、なんて美味しいんだ。本当に美味しいです。怪我をしてよかったな、カトリーヌさんの料理を食べることができて」
「ありがとうございます!」
その夜私は枕に頭をつけてわくわくした気持ちで明日のメニューを考えた。
何を作ろうかしら? フィリップ隊長はどんな味付けがお好きかしら? それに、⋯⋯どんな女性がお好きなのかしら?
「嫌だわ私ったら⋯⋯」
「ん?」
「いいえ、なんでもないの。おやすみなさい、あなた」
「おやすみ、カトリーヌ」
美味しいと言ってもらえて嬉しいだけよ。
ただ、それだけよ⋯⋯。
◇
そんな日々が続いた数日後、夫がシルクハットに雪を積もせて帰ってきた。
今夜は大雪だ。
「よく降るね」
「ええ、ほんとうに」
夕食の準備を整えた時、フィリップ隊長がドアベルを鳴らした。
「緊急の呼び出しがありました。これからすぐに国境に向かいます」
「まあ——。でもまだお怪我が」
「もうだいぶいいのです」
フィリップ隊長が左腕を上げる。そこにはもう包帯はなかった。
「あの⋯⋯、お気をつけて⋯⋯」
「カトリーヌさんもお元気で。本当に美味しかったです。一生の思い出になるぐらい美味しかった。⋯⋯ご主人にもよろしくお伝えください。時間がないのでこれで失礼します」
フィリップ隊長が急ぎ足で門を出ていく。
私は思わず玄関から飛び出した。ショールも羽織らないまま走り出し⋯⋯。
「⋯⋯」
私はいったい何をしようとしているのかしら?
真っ白な雪が、美味しいと言ってくれた人の背中を消していく⋯⋯。
「違う⋯⋯。違うわ!」
くるりと踵を返して家に戻った。
「カトリーヌ?」
「ねえ、あなた。⋯⋯美味しいと言って」
「え?」
「美味しいと言って!」
「もちろん美味しいよ、君の料理は全て美味しい」
私は子供のように泣いてしまった。
「どうしたんだい、カトリーヌ? ⋯⋯美味しいよ、もちろん美味しいよ。魚料理もシチューもパイもすごく美味しい。本当に美味しい」
夫がぎゅっと強く抱きしめてくれる。
「⋯⋯明日は、⋯⋯明日は、あなたが大好きなミートボールを作るわ。オレンジスフレも作るわ」
雪の向こうに消えたのは、寂しさが見せた幻⋯⋯。
だから、あなた。
私に、美味しいと言って——。
了




