隣人はDomで前世の思い人
頭の中がめちゃくちゃにかき回されるような。
そんな酩酊に似た、酷い感覚がサブドロップによって引き起こされる。
ともすればばったり倒れてしまいそうなほどに酷い眩暈がルカを襲っていた。
しかしここはマンションの外廊下。こんな場所で倒れるわけにはいかない。
強く奥歯を噛み締めて、ルカは強くドアに額を押し付けた。
だけどこの行為が決して褒められたものではないことは分かっている。
何せ、目の前のドアは自宅のものではなかった。
面識もない、ただの隣人の家の前。
そんな場所で、ルカは呼吸すら忘れて蹲っていた。
「っ、最悪」
悪態をつこうと返ってくる言葉はない。
そろそろ夕刻。普段会社員として働いているらしい隣人はそろそろ帰ってきてしまうだろう。
急いで離れなければと思うのに、身体は思うように動いてくれなかった。
「あれ、隣の……?」
「!」
そして、ついにルカは見つかってしまった。
けれどかけられたその声に、ルカの思考は一瞬でほどけてしまう。
とろりと甘い、しびれが頭の中を抜けていった。
「ラ、イ……」
目の前の人物を、ルカは知っている。
この人生であったこともないのに、覚えていた。
「――ルカ?」
一度目の、ろくでもない人生。
告げることこそ無かった恋心。
それでもずっと心の奥にいた、大切な同性の思い人。
隣室に住んでいたのは、誰よりも大切で飽きるほどに思い続けた、幼馴染みのライだった。
ダイナミクス。そんなくだらない二つ目の性に支配された、二度目の人生。
ルカはそれに反吐が出るほど嫌気がさしていた。
褒めてほしい、尽くしたい――支配されたい。そんなサブと呼ばれる性の、被虐的な本能がルカの根底には渦巻いている。
前世の死に様のせいで、性癖がねじ曲がってしまったのか。
至ってくだらないこじつけを考えてしまうほどにルカはこの性が嫌いだった。
だってこの性は、対になるドムを求めてしまうから。
ドムは、サブの本能を満たすことを本能にした魂の片割れ。
そういう聞こえの良いオブラートに包まれた、ただの主従関係を結ぶ相手。
縛られることも決めつけられることも嫌いなルカにとって、それは最低の侮辱とかわりなかった。
それでも本能が相手の支配を求めてしまう。
それが、ルカは嫌だった。
「『いいこ』、『いいこ』。良く出来たね」
「ぅ……」
優しい声がルカを包み込む。ふかふかと値段が感じられるベッドが、ルカの身じろぎを吸収して軋んだ。
穏やかな声に合わせて頭を撫でられると、充足感で何も考えられなくなってしまう。
自宅扉の前なんて、とんでもない場所で再会したライ。
互いの正体を確かめた彼は、すぐにサブドロップ中のルカを自室に招いてくれた。
ライは、ドムだったから。
そしてルカは、隣人がドムだと気が付いていたから。
ルカは、少しだけ特別なサブだった。
ドムの存在を、五感とは違う何か――第六感で感じ取ってしまう。
その感覚が、隣室の住人がドムだとルカに教えていた。
もちろん、ルカだっていくらサブドロップに陥っていても見境なくドムに助けを求めることはしない。
ただ、隣室に住むドムの気配は何かとても懐かしく、そして心地よいものだった。
「はは、今世の君は素直だね」
「うる……さい」
その理由は、きっとその隣人がライだったからなのだろう。
「怒らないでよ。ね、『いいこ』」
「ぅ、くぅ……っ」
心の柔らかいところを指摘されて、ルカはとっさに否定を口にする。
しかし続く反論の言葉は、笑うライのせいで喉奥に消えていった。
ライの指先がルカの喉ぼとけを撫でたからだ。
触れるか触れないかの距離で、つっと肌をなぞられると全身の力が抜けてしまう。
口を開けて続きを求めなかっただけでも、頑張っているだろう。
「ねえ、ルカ。君にこんな酷いことをしたのは誰なの?」
「事故、だよ。それに俺が悪いんだ。仕事でちょっとミスをした」
「それだけで、こんなになるまで君を虐めたのかい?」
強くライがルカの身体を抱きしめる。
逃げられないぐらいに強い拘束。
だけど決して痛くはない、優しい抱擁だった。
溺れているみたいに呼吸が荒くなる。
勝手ににじむ涙が視界を塞いできて、ルカは更に強く奥歯を噛んだ。
「だから、違う。きっと向こうだって自宅にいて油断してたんだ。お前だって、一人で家にいるときに薬は飲まないだろ?」
「第二性の抑制薬だね。そういうルカは飲んでないの? ケアの効き、普通じゃないよ」
「俺は……あんまり薬が効かないから」
先程とは違う、たゆたうような酩酊感。
その心地よさに流されないように、ルカは必死で踏みとどまる。
けれど質問をどうにかかみ砕いて、答えるだけで精一杯だった。
脳に酸素が回らなくて、ルカは自分でも己が何を言っているかあまり分からない。
命令されれば隠そうと思っていた言葉も心地よく喋ってしまうことは、ルカも理解していた。
でも目の前のルカはそれをしない。ただ優しくルカを守ってくれていた。
「そう。君はサブの本能が強いんだね」
「どうやらそうらしい。最悪だけどな」
「ふふ、やっぱり今世は素直だね。前は一人で全部抱えて、死んじゃうまで俺に教えてくれなかったのに」
前世と言われて、ルカはふとその頃のことを考える。
大衆の勝手で政治犯に仕立て上げられて処刑された、くだらない人生だ。
ライに思いも告げずに死んでしまった。
ただ、もしも生きのびていたとしてきっとルカはライに思いを伝えはしなかっただろう。
あそこは同性の想い人に気持ちを伝えられるような世界ではなかった。
苦しくて悲しくて。
それでもどこか懐かしくて、ライとの思い出が詰まった大切な過去。
「はっ、前世の俺達に相談出来るような隠し事はなかっただろ。話し合えない悩み事もなかったけどな」
「……そっか。そうかもね」
今と昔の秘密を隠して、気丈にルカは答える。
その言葉に、ライは一瞬動きを止めた。
しかしドムの庇護に絆されて、鈍ったルカの思考がその疑問にたどり着くより早く、ライは会話を切り上げてしまう。
「――うん。そろそろサブドロップは落ち着いたかな」
言葉と共に、ライの身体がルカから離れる。
溶け合っていたはずの熱が唐突に失われた。
「ぁ」
その喪失感に、思わずルカの喉が鳴る。
とっさに口を塞いだが静かな部屋の中、飛び出した言葉は掴めない。
「そんな顔しないで。大丈夫。ここからはもうちょっと良いことをしよう?」
そんなルカを落ち着かせるように、ライは目を合わせてルカの頭を撫でた。
それだけで、ルカは刹那に胸を刺した喪失感を忘れてしまう。
つくづくこのサブの身体は単純だ。
「ルカ、誰かとプレイをした事はある? 好きなコマンドは?」
プレイ。その言葉にルカの体温がじわりと上がる。
それはドムとサブが交わす信頼の行為だ。
少しだけ怖くて、だけどちょっとだけ興味をそそる本能の行為。
他の相手に誘われたなら、直ぐに殴り飛ばして逃げてしまうだろう。
でも、ライならば。
「ない……そんな相手、いなかった」
「そう」
逃げる選択肢は浮かんでこなくて、ルカは素直に首を振った。
ルカの答えにライはこの上なく幸せそうに笑う。
「なら俺が初めてだね――『おいで』。ルカが俺を抱きしめてよ」
わずかにルカと距離を空け、ベッドに座ったライは膝を叩いて、両手を広げた。
許しと共に、ルカのためにあつらえられたライのすぐ側の居場所。
それを確認してルカはすぐさま飛び込む。
「ん」
「『いいこ』」
ライの言葉は魔法のようだ。
サブとかドムとか、一度目の人生とか。
苦しかったはずの全てが遠く、どうでも良いことみたいに霞んでしまう。
ただ今が幸福で、まるで自分とライが本当に恋人同士であるかのような錯覚に陥る。
熱いライの体温が触れた場所から染みて、溶けていく。
「初めてだし、あんまり激しいのは良くないよね。なら――『指、舐めて』?」
溶けてしまいそうに甘い声で、ライは次の指示をルカに与える。
ひらりと視線の高さに晒された長い指が、とびきりのごちそうみたいにルカを誘っていた。
「……っ」
誘うように揺らめくライの指。
口にたまった唾液を飲み込み、ルカはそこへそっと舌先を伸ばす。
少ししょっぱい、ライの指。
硬い皮膚の下で、流れる温かい血の気配がした。
舌の動きに合わせて、ひくりと震えるその指先。
夢中になって指示に従っていれば、あふれた唾液が顎を伝っていく。
思考が嬉しいで埋め尽くされて、ルカは何度もその指に舌を絡ませた。
「……ん」
「上手」
必死に吸い付いていれば、目尻を染めたライが褒めてくれる。
本当なら建前に軽口の一つも言いたかったけれど、言葉のかわりにくうと喉が鳴った。
「『いいこ』」
言葉と共に、ライはされるがままだった指先で口蓋の硬いところを撫でる。
ぱちぱちとめまいがした。
「〜〜ぅ」
「ほら、まだ終わりって言ってないよ」
けぶった視界の真ん中に、焼け焦げたライの視線が突き刺さる。
思考が明滅して、ルカの思考は蕩けて消えた。
雲の上を踊るような、浮遊感。
サブスペース。
嫌っていたサブ性の極みのような状態だけれど。
やっぱり不思議と、ライにされるのならば悪くはなかった。
「ライ、俺」
「どうしたの?」
柔らかい声がルカの心を包み込む。
月明かりの優しい光の中、擽るように頬を撫でられるとまた声が出てしまいそうだった。
「迷惑かけて、ごめん」
「え?」
「ただの隣人だったのに、こんな面倒事持ち込んだ」
夢見心地のまま、ルカは言葉を漏らす。
本心だった。
けれどルカの言葉に、ライはきょとりと目を丸くする。
それからぶはっと吹き出した。
「今更何言ってるんだ、ルカ。君と俺の仲じゃないか」
「でも」
「俺だって、別に君じゃなきゃこんなことしてないよ。知らない人だったら薬飲ませてポイだ。ドムだのサブだのに関係する諍いは、面倒だと相場が決まっているからね」
今度はルカがきょとんとする番だった。
前世と同じ優しく甘い顔付きの男から、とんでもない暴論が出てきた気がする。
「お前……相変わらず顔に似合わないドライな性格してんのな」
「合理的と言ってほしいな。夫婦喧嘩は犬も食わないとも言うし、色恋とダイナミクスは関わるべきではないだろう」
正論だ。正論だけれども、なんというか。
「その割には、楽しそうにプレイしてたけどな」
「当然だろ」
半眼になったルカの指摘に、ライはまた笑う。
それは先ほどとは違う、柔らかい笑みだった。
「相手が君なんだからさ」
まっすぐ告げられたライの言葉に、ルカはカッと顔が熱くなる。
そして、叫んだ。
「お、前なぁ! 前から言ってるだろ、そういうのは女に言ってやれって!」
「俺も前から言ってるけど。こんな言葉、君にしか言わないよ」
しかし言葉と共に振り上げたルカの拳は、こともなげにライの手で受け止められる。
歯向かおうと力を込めるも、それは叶わない。
徐々に抵抗を弱めたルカに、ライは何処か悲しげにつぶやく。
「ねえ、ルカ」
「なんだよ」
ふと、真剣なライの瞳がルカのそれを射貫いた。
その光の中に過去の郷愁を感じて、ルカは身じろぎする。
ライが仕事に真っ直ぐな騎士で、ルカが王国が蓋をするクーデターの首謀者だったあの頃。
近くて遠い、二人の関係。
また、距離が空いてしまうのかと思った。
けれどそれでいいとも思った。
しかしルカが覚悟を決めてそれを崩してしまうまでの間待てども、ライからは続く言葉は出てこなくて。
「ううん、ごめん。まだうまく話せないや」
緊張しすぎてにらみつける様になったルカの視線を遮るように、ライはルカの頭を撫でた。
「ごまかすな……よ」
「んー? かわいいって思っただけだよ。俺のサブ?」
不意打ちの行為に、ルカは言葉に詰まってしまう。
「一回やったぐらいでパートナー面すんな!」
「あはは! やっぱルカはそうじゃなくちゃね」
ライはもう、すっかり先程の気配を隠してしまった。
最後に少しだけ悲しそうな笑みを浮かべたライは、そのままベッドを下りる。
「初めてのプレイ、疲れたでしょ。先に寝ちゃっても良いからね」
「……ふん」
なだれ込むように飛び込んだこの部屋には、ライのスーツやカバンが散らばっている。
それを拾い集めたライは、そのままリビングへと続く扉を潜っていった。
見送ったルカは一瞬、その背中に腕が伸びそうになる。
しかし代わりに思い切り布団を握りしめ、鼻を鳴らして返事をした。
言葉の通り、一回のプレイですっかり落ちると思われたくなかった。
だけど、一人残された部屋の中は僅かに暖かくて、けれどとても寂しかった。
季節は春の手前。涼しいけれど、寒いはずもないこの季節。
けれど少しだけ指先が凍える気がして、ルカは身体を縮こめる。
一人丸まっていれば、ルカの頭の中には後から後から不安が湧いてきた。
「ライは――あんな言い方してたけど」
ルカだからする。ルカじゃなきゃここまではしない。
それは以前から言っていた、ライの言葉。
だけどルカは一度も、素直にそれへ縋ることが出来なかった。
一度目の人生。あのときのルカは、思いを告げずにいることは失うよりも安いと思っていた。だから最後まで、ルカはライに核心を告げなかった。
たとえ奇跡的に思いが通っていたとしても、ライはルカを選ぶべきではなかったから。
「俺との再会は、もしかしてアイツにとっての重荷になるのかな」
前世、ルカは国を守るべく反逆の道を選んだ。今もそれに後悔はない。
だけどライは同じように国を思いながら、上層の腐敗に気が付いてもなお実直に政の内側から正そうとした。
ルカはただ幼馴染みに生まれたと言うだけで、そんな彼の汚点に他ならない。
そんな人間が、たった一度生まれ変わったからといっていけしゃあしゃあとライの隣に並んでも良いものだろうか。
良くない考えが、半紙に落ちた墨汁のように零れ、心が黒く滲んでいく。
ぽたりぽたりと不安が積もる。
「……はっ」
呼吸が詰まって、ルカはライの枕に鼻先を埋めた。
視界がきゅうと狭まって、体内の酸素が欠けていく。
まずいと思った時にはもう手遅れだった。
先程までの幸福感は跡形もなく消えて、途方もない孤独感がルカの全身を支配している。
サブ、ドロップだ。
一人で生きてきたはずなのに、ちょっと優しくされたらこれ。
本当に、この性が嫌になる。
「違う、こんなの。こんなの、俺は……っ」
意思に反して、本能がライを求めていた。
何でいないの、どうして置いていかれたの。
もう、戻ってこないんじゃないの?
誰かが頭の奥で囁いた。
そんな馬鹿な事はないと、分かっているのに。
ライは用事があって部屋から出ていっただ。
置いていったわけでもないし、戻ってこないわけがない。
愛想を尽かされて、もう二度と自分を見てくれないなんてわけ、ないのに。
良くない考えばかりが頭を支配していく。
上澄みだけの呼吸が繰り返されて、吸っても吸っても苦しいのが無くなってくれない。
「『助けて』……『助け』……ひぅ……」
普段使わない言葉を、と設定したセーフワード。
ルカに言ってほしいから。なんてどこか真剣に告げたライの言葉に、ふざけるなと笑ったのはつい数時間前のことなのに。
届かない言葉が、こんなに苦しい。
「ライ……助けて……」
前世、好きと並んで最後まで言えなかった言葉を口にする。
本当はライの隣で生きたかったなんて。
誰かの代わりの罪で、死にたくなかったなんて。
空回りした呼吸が視界を真っ白に染める。
最後にどうにか絞り出した力で、ルカはベッドから滑り落ちた。
ドタン!
響いた重い音に、遅れて足音が近づいてくる。
「ルカ? 今何か……」
伺うように扉が空いて、床に這いつくばったルカと見開いたライの目が合った。
「ルカ⁉」
支えるようにライの手がルカの肩に回る。
そうすると、ルカの呼吸は多少楽になった。
肺が急に広くなったみたいで、吸わなきゃという焦燥感がなくなっていく。
吸って、止めて、長く吐き出す。
それを3回ほど行ったところで、ようやくルカは苦しさから解放された。
「悪い、もう大丈夫だ」
「大丈夫って……顔色すごく悪いけど」
「大丈夫。……だけど、ちょっと、あと少しだけ」
多くは説明せず、ルカはライの胸に鼻先を埋めた。
ライは困ったように眉を下げて、その頭を撫でる。
指先が髪を梳き、地肌に触れた。
まるで小さい子をなだめるようなその動作に、少しだけ反発心が産まれる。
けれど、やめろと跳ねのけたい衝動と同じぐらい強く、もっとしてほしいと感じてしまう。
そんなジレンマに挟まれて、ルカは犬猫みたいにライに顔を押しつけながら唸った。
「ごめんね、ルカ」
「なんで急にお前が謝るんだよ」
「だって、僕のせいでしょ」
「違え。うぬぼれんな」
「違う方が困るでしょ。そんな、サブドロップ引き起こしちゃってさ」
「違うし……」
口先だけで否定してもルカの体はライから離れてくれない。
でも絶対に認めてやるつもりはなかった。
だって惨めだ。
認めれば、見ないフリをしていたサブという性と今すぐ向きあわなければならない。
それどころか、隠して閉じて閉まって。無くしたつもりになっていたライへの思いまで引っ張り出されてしまうかも知れない。
そんなこと、考えたくもない。のに。
「それでもいっそ、俺のせいにしてよルカ。せっかくまた会えたんだから」
「なんだよそれ。俺は別に一人でもやっていけるんだぞ」
意地を張る。もうボロボロで崩れそうな虚勢を立てて、必死で立った。
でももう、限界だった。
「良く知ってるよ。でも一人でやっていける君が、それでも俺に助けを求めてくれたんだろ」
「別に、お前に助けを求めたわけじゃ……偶然、隣にお前が住んでたってだけだろ」
無意識に助けを求めた相手がライだったこと。
その事実はルカに安堵を与えてくれた。
誰でも良かったわけじゃない。サブだからドムの気配に逆らえないわけじゃない。
そう、実感できたから。
「そうだね。でも俺は君が助けを求めたのが俺で良かったと心の底からそう思う」
同じ言葉を言って、ライはルカを抱きしめる。
枕の残り香よりもずっと濃い匂いがした。
「『いいこ』。一人にしてごめん。でも信じて、俺は君に酷いことはしない。君の性が不安になって、君が悲しむような事をしないと誓うよ」
「やめろって」
「嫌だ。だって、やっと君に触れられたんだ」
真剣な、ライの瞳がルカを射貫く。
ほんのりと、ライの瞳には涙が張っていた。
思えば、初めて見る涙だった。
「ねえルカ。お願いだから一人全部抱えないで。死ぬまでたった一人で苦しんだりしないで欲しい。そして一緒にいる相手は俺を選んでよ。前はあれだけ苦しい思いをしたんだから、二度目ぐらい。俺の隣で、幸せに笑って」
ころりと光の雫が落ちる。
無駄に綺麗で、ルカは顔に熱が集まるのを感じた。
「お前、だから……っ、そういうのは好きな女に言えって」
否定の言葉も、勢いがない。
「だから言ってるじゃない。君にだけ、こういうこと」
闇の中、ライの瞳に月の光が映っていた。
あの頃の青はもうないけれど。それでも海に似て綺麗な瞳だった。
「逃げるなら、今が最後だよ」
「……っ」
ライの唇がルカのそれに触れる。
柔らかくて、温かい。
「逃げないの?」
すぐに離れた唇でライは言った。
まるで、逃げて欲しいとでも言いたげだった。
その言葉で、逆にルカの心は一つに決まる。
だってここまでルカの気持ちを釘づけておいて、ライは最後の一歩から逃げたのだ。
無性に腹が立った。
前世を心残りにして、生まれ変わってもまだ縋って。
自分がサブでライがドムなことに無駄に喜んでしまって。
一回やったぐらいでパートナー面するななんて反発しておきながら、自分自身がパートナー面で少し離れた程度で勝手に不安になる。
ああそうだ。認める認めないではなく、もうとっくに。
「もう、諦めたよ」
ルカは手遅れだったのだ。
「お前が思うより、俺は重いからな」
言って、今度はルカがライの胸ぐらを引き寄せた。
そのまま、二度、三度と口づけを繰り返す。
「ふふ、前ほどじゃないけど俺は今でも鍛えてるよ」
「……分かっててそういう変なボケを挟むんじゃねえ」
軽口を咎めるように唇に噛みつけば、ライはくふくふと幸せそうに笑った。
「許してよ、浮かれてるんだ」
「ふん」
返事の代わりにキスをして、返答の代わりにキスが返ってくる。
思えば、いつだって二人はそうだった。この関係に、言葉は必要なかった。
幼い頃は、背中を預けるだけで言いたいことが伝わった。
成長してからは、格好だけは憎み合って合わせた剣で語り合った。
ならこの随分とわかりやすい愛が、きっと今の二人の形なのだろう。
「ルカ、『セーフワード』」
「『助けて』。なんだよ、そんな酷いことするつもりなのか?」
「しないよ――多分」
「信用ならねえな」
深くなる口づけに思考が溶けて甘くなる。
二人の夜は、そっと更けていった。
*********************
「俺、お前のこと好きだったぜ」
そう言って、ライの唇を奪ったルカは――大罪人として処刑された。
唯一無二の親友だった。絶対に、未来永劫失われない相手のはずだった。
少なくとも、ライはそう思っていたのだ。
だから。
「そうか、頑張れよ」
騎士になり、昇進するのだと報告した日。
隣でウォッカを傾けるルカが、寂しげに笑ったのをライは深く考えずに流してしまった。
だから。
「どうして、君がそちらに……!?」
クーデターの首謀者として再会し、剣を合わせた時だって。
心のどこかではルカを信じていられた。
それでも。
「この世界は腐ってる。持たざる者の声は、いつだって握り込まれて潰されるだけなんだ」
問い詰めたルカがそう言ったことを。
真にライの敵になったわけではないのだと知ったときは安心した。
そして。
「急に呼び出してごめんな」
吹っ切れた笑顔を浮かべたルカが。
「俺、お前のこと好きだったぜ」
そう言ってキスをしてきたことを、疑いもせず少し浮かれて受け止めてしまったんだ。
がしゃがしゃと鎧が鳴る。
金属に制御された関節の動きが煩わしい。
それでも鎧を脱ぎ捨てる時間も惜しくて、今まで鎧で戦場を駆け回る訓練をしてきた自分を信じ、ライは走り続けた。
足の速さには自信があった。幼い頃には、一度もルカに負けなかった。
それでも、ライがたどり着いた時。既に全ては終わっていた。
「あ……あぁ……」
焦げた臭い。頭が絶望で塗りつぶされるような、酷いもの。
その中心には、首輪で繋がれた黒焦げの遺体がある。
「違う、嘘だよな?」
よろけるように近づいて、ライは後悔する。
だって、気が付いてしまったのだ。
その遺体の耳に光る、己とおそろいのピアスの存在に。
「ああああああああああ!」
酷い叫びと共に、ライは目を覚ます。
身体を包む柔らかさに、ライは瞬時に理解がおよばなかった。
「んん……」
「……ルカ?」
けれどすぐ側で眠る、あの頃とは違う色をしたルカの姿に。
ライは悪夢の先の二度目の人生を思い出した。
*********************
その日は、ルカが所謂二度目の生を受けて初めての穏やかな朝だった。
それはきっと慣れ親しんだ知らない部屋の中で、誰よりも落ち着く相手の側で目覚めたからだ。
「おはよう」
「おはよ……って、何でそんな俺の顔ガン見してんだよ。ライ」
「んー? 懐かしいなって思ってさ」
「やめろ、減るだろ」
照れ隠しにルカは微笑むライの肩を押しのける。
と、そこでライが部屋着ではなく、スーツになっていることに気が付いた。
「今日って土曜日じゃなかったっけ?」
「ああ、ちょっと問題がね……まあ代わりに昨日は早く帰らせてもらったし。おかげで君にも会えたんだからこのぐらいなんてことないさ」
「そっか……」
咄嗟の返事には寂しさがにじんでいた。
多分、無駄に温もりに包まれていたせいだ。
やばいと思ったときには手遅れで、ライの表情を伺う。
すると無駄に眩しい笑顔でライは微笑んでいた。
「朝食、用意しといたから。合鍵は置いておくけど……良かったらうちで待っててよ」
「気が向いたらな」
伝えて、二度寝の姿勢を示す。
被った布団の先から、喜びをはらんだ手のひらが押し当てられた。
「さっさと行けよ」
だからルカは手首だけを布団から出し、しっしと追い払う動作で会話を終わらせる。
そうすれば、笑いを潜めた了承が返ってきた。
バタンと離れた玄関の音を聞いて、ルカは埋めた顔を布団から出す。
知らないけれど、自宅と同じ天井だった。
それからしばらく、ルカは布団の中で寝返りを打っていた。
けれど、目を瞑ればライの熱が思い出されて落ち着かない。
結局ルカはそのまま、普段より健康的な時間に活動を始めることにした。
「うわ、眩し……」
ベッドルームからダイニングへ足を踏み入れると、テラス窓からの日差しが全身に突き刺さる。
陽あたり良好! なんて売り文句だったこの物件が朝の日差しを存分に取り込んでいるようだ。
「なんか真人間になった気分だな」
ダイナミクスに屈するのが嫌で、就活の際、ルカは性差が生まれにくい仕事を探した。
その結果、ルカが見つけた動画関係のクリエイター職だった。
種類を絞っているわけではない。
サブ性に振り回されるよりはマシだと、寝る間も惜しんでできることは手当たり次第からやっていた。
そうして、ルカは気がつけばマルチクリエイターと名乗れる程度には成果を上げていた。
この生き方に後悔はない。楽しいし、合理的だ。
だけど少しだけ、自分が世間一般の普通とはズレてしまったなと感じることがある。
今日などは、それをとても感じた。
「うわ、あいつ仮にも出勤前にこんなしっかり作ったのかよ」
リビングへ出て、机を覗く。
そこに用意されていたのはどこか懐かしいホットサンドとスープだった。
ハムとチーズ、レタスを挟んだホットサンドは前世のルカのお気に入りで、何度かライのいる騎士キャンプに潜り込んで一緒に食べた覚えがある。
スープもスープで、いつだかライが寝込んでいた時に作ってやったごった煮スープと同じものだった。
美味いし栄養が摂れる、あの頃の贅沢品。
「というか、料理できるようになったんだな。まあ、現代なら普通か」
机に着く前にとちょこっとつまみ食いをすれば、それは欲目なしに満点を与えたくなる出来で。
少しだけ胸が痛む。
「当然だけど、もう俺が作ってやる必要もないんだよな」
完璧な騎士さま。そんなライの唯一の欠点。それが生活能力の欠如だ。
そもそも必要が無かったから覚えなかっただけだけれど。
小言を言いながらライの世話を焼いてやったのは、なんだかんだルカにとって良い思い出だったのだ。
それがいらなくなったことは、少し寂しい。
「いやいやいや。俺はお母さんじゃないし、アイツはでっかい子どもでもないだろ!」
また暗くなりそうになって、ルカはばしんと自身の頬をひっぱたく。
変に考え込んで、またサブに振り回されるのはごめんだ。
そして大きな声で気持ちを入れ替える。
それに優秀で家事もできるようになったとはいえ、ライは休日に出勤するぐらいに仕事が忙しい。だったら家事周りなら適当に手伝える事もあるはずだ。
「ざっとこんなもんだな」
懐かしさを感じる食事を終えて、早三時間。
目に付く限りの掃除洗濯を片付けたルカは達成感に満ちあふれていた。
いくらライが優秀な男でも、一人暮らしの社会人の自宅が完璧なはずはない。突然の休日出勤日なんてなおさらだ。
細々残された家事を片っ端から片付け、ルカはふうとため息を一つつく。
そしてチラリとキッチンの方へ目をやる。
掃除中、幾度と思考にちらついた最後の家事。
「まあ……一宿一飯の恩義、みたいな……もんだし」
言い訳をして、ルカは鍵を手に取る。
「貰っちまうからな、ばーか」
足取りは軽かった。
環境が変わると思考も変わる。だからクリエイターはカフェで仕事をするのだ。
そんなことを、以前友人が言っていた。
ただ、ルカ自身はそれを実感したことはない。
何せルカがこの職業を選んだのは、人に何かを伝えたいとか、後世にものを残したいとか、そう言う高尚なモノではなくただの消去法だったので。
それでもプロの端くれ。フリーランスが一日連絡を放置するなんて、早々していいことではない。
買い物に出たルカは鍵を取り出してライの自宅に帰る直前、自室で待つ昨日の後始末を思いだした。
「仕事……だもんな」
本来、仕事に性別など関係ない。むしろ公には男だ女だドムだサブだという差別だの区別だのは淘汰されつつある。
それでも人の心はどうしたって一朝一夕に入れ替わるものではない。
今の依頼人は、少しだけ古い思想の持ち主のようで。
ルカがサブだとうっかりバレてしまってから、妙に威圧的な態度を取るようになった。
「言われるまま適当に直して適当に終わらせちまおう……」
ファーストコンタクトで人となりを見抜けなかったのは単なるルカのミスだ。
これは勉強料としてありがたく頂戴すべきだろう。
覚悟を決めて、自宅に戻ったルカは超速で作業に取りかかる。
意味も無くカメラをつけて、グレアを込めた瞳で叱責して来るような相手でも仕事は仕事だ。
色のバランスが悪い、音の出だしがダサい、繰り返しすぎて新鮮味がない。
声を張り上げ、依頼にはルカにダメ出しをした。
事を荒立てないよう、やんわりとグレアを辞めるように告げても話は聞いてもらえない。
それどころか、依頼人はその叱責にルカが喜んでいると思っている節があった。
何が、サブはこういうのが好きなんでしょ、だ。
ルカはお仕置き好きのサブではないし、そもそもそんなことされて喜ぶほどお前の事が好きじゃない。
考えれば考えるほどイライラが湧いてきて、苛立ちのあまりクリックの音が荒くなる。
仕上げる作品だけはどうにか粗を見せないようにして、ルカはひたすら画面と向き合った。
だかだかと声高らかにキーボードが鳴く。果たしてこれは怒りか集中か。
答えはどこからも得られなかったけれど、ひとまずルカは目の前の作業を完了する。
「終わったぁ!」
前傾に緊張していた身体を思い切り後ろへ引き伸ばす。
いくら良い椅子を買ったって、前のめりになっていてはあまり意味は無かった。
ふと時計を見ると夕方五時半。休日出勤にどの程度時間がかかるのかは知らないが、今から帰って夕飯を作れば比較的常識的な時間に食事を食べられるだろう。
適当にしたためたメールに別れを添えて依頼人に送りつけたルカは、先程袋ごと冷蔵庫へ押し込んだ食材を手に玄関へ向かう。
何故冷蔵庫にそれほどの空きがあったのかは気にしてはならない。
一日中家にいてもフリーランスは忙しいのだ。生活も終わっているし。
軽く靴を突っかけて、ルカはライの部屋の扉に鍵を差し込む。
しかし解錠の手応えがなかった。
「あれ、ライ?」
首を傾げてノブを回せば、扉が開く。
どうやら家主が帰ってきているらしい。防犯意識は足りていないようだけれど。
「なんで鍵開けっぱなしなんだよ。危ないだろ?」
声をかけながら部屋に上がる。
そのまま進んでいけば、寝室の扉の前を過ぎたところで突然腕を引かれた。
「は?」
ルカは驚いて、とっさに迎撃態勢を取った。
身体を沈め、みぞおちと思われる場所に思い切り肘を埋める。
「……ぐっ」
硬い肉の感触がして、低いうめき声が響いた。
そして、当然ながらその声はライのもので。
「ら、ライ! 悪い、急だったからつい!」
「いや……大丈夫。むしろ受け身を取れなかった俺が悪いよ」
「確かにお前ならこんなの捌けるだろうけど……って、いや。今世でそんなこと出来るのか!?」
「鍛えてるよ、一応ね」
反射的に撃退してしまったライに、ルカは謝罪の言葉を口にする。
けれど酷い目に遭ったというのにライの声はどこか嬉しそうに弾んでいた。
「――ありがとう」
「へ? ど、どうしたんだ。もしかしてお前、そっち寄りの願望があるとか……? う、ううん……俺、サブの本能は好きじゃないけど流石にそこまでハードなドムの真似事は出来ない気が」
「違うよ」
混乱してあらぬところまで思考を飛ばしてしまったルカを、やや半目になってライは抱きしめる。
同時に背中に回った手が、背中をスルリと撫でた。
「ちょっ!」
とっさに咎めようとして、ルカはライのその手が震えていることに気が付く。
思わず言葉が止まって、ルカはライの様子をうかがった。
「また捨てられたんだと思った」
少しして、静かにライは語り始める。
けれど意味が分からず、ルカは首を傾げた。
「捨てる? またって何だよ」
「最後のあの日、君が俺に残した傷の話だよ」
「最後……って前世だよな。最後にお前と会ったのって、いつだっけ。処刑の一ヶ月前ぐらい?」
首をひねって思い出そうとするも、ルカの記憶には該当のシーンが存在しなかった。
最後に会ったのは多分、城近くの森で工作作業をしていたときだ。
君の首は必ず俺が取る、なんてルカの方が脅しつけられた気がする。
その時、ルカは何かライにケガを負わせたりしただろうか。
「え」
「なんだよ」
答えが見つからず、うんうん唸っているとライが驚いた声を上げる。
ようやく真っ直ぐに目を合わせてくれたライは、目を見開いて幼い表情をしていた。
それが妙に可愛くて、ルカは思わず口角が上がりそうになる。
それを防ごうととっさに睨み付ければ、思ったよりも不機嫌な声が出た。
「そもそも、ちょっと家に帰ってただけだろ。だいたい、元から隣に住んでるんだから尋ねてくれば良いじゃねえか」
「それは、確かに……思いつかなかった」
「なんでだよ!」
とぼけた事を言い出したライに、わざとらしい怒ったフリがつい本当になる。
ルカはライの頬を引っ張って続ける。
「というか。昨日は俺のサブとか言ってたくせに、そんな簡単に諦めちまうのか? 俺のドムは!」
「!」
「例え逃げようとしてたって、もうちょっと粘ってくれても良いだろ」
ルカはライを信頼していた。だからむかついた。
今までがそうだったように。ライはルカがいなくたって生きていけると確信があった。
それでももしも、ルカがライに縋るなら。きっとらしくないと発破をかけながら、それでも支えてくれるのだと信じていた。
それを裏切られたことが、あまりにも腹立たしい。
「ルカ……」
「あーあ。俺、また不安になっちまったな?」
サブの本能は好きじゃない。
でも使えるものは何でも使うべきだ。
ルカはつんと拗ねた表情を作りながら、一瞬煽るようにライへ視線を送る。
そうすればライの瞳の熱が、あのときのように強くなった。
「尽くさせてくれよ、今度はさ。そんでちゃんと受け取って」
そんなライの額に、ルカは口づけを落とす。
じわりと身体の奥が熱くなった。
ころりと落ちたじゃがいもがフローリングの床に影を落とす。
今日はそれほど暑くない。数時間ぐらいなら、きっと多分大丈夫だろう。
時刻は午後六時前。夜のとばりは、もうすっかり辺りを包み込んでいた。




