第3話「完璧だったはずの夏」
耳をつんざくような、けたたましい鳴き声。
全身を焦がすような、じりじりとした太陽の熱。
むっとするほど濃い、緑の匂い。
意識がゆっくりと覚醒していく中で、俺の五感を支配したのは、あまりにも懐かしい夏の感覚だった。
ゆっくりと目を開ける。
視界に飛び込んできたのは、突き抜けるような青空と、その青に負けないほど鮮やかな緑の葉を茂らせた、巨大なクスノキだった。
「……ここ、は」
掠れた声で呟き、ゆっくりと体を起こす。俺が倒れていたのは、固い芝生の上だった。見渡せば、見慣れた、いや、見慣れていたはずの景色が広がっている。レンガ造りの校舎。学生たちが行き交う中庭。十年以上前に卒業した、大学のキャンパスそのものだった。
そして、目の前には数人の男女が立っていた。二十歳そこそこの、若さで輝いている学生たち。その顔には、見覚えがあった。十年以上、一度も会っていなかったはずなのに、昨日も会ったかのように鮮明に思い出せる顔。
「おいケンゴ! 何ぼーっとしてんだよ、早くしないと講義始まっちまうぞ!」
快活な笑顔で俺に手招きしたのは、大野拓也。当時、俺たちが所属していたイベントサークルの中心的存在で、いつもみんなを引っ張っていくリーダーだった。
その隣で、心配そうにこちらを覗き込んでいるのは、ショートカットがよく似合う、快活な笑顔の少女。
早瀬、結衣。
「ケンゴ、顔色悪いよ? 昨日の飲み会、ちょっと飲みすぎたんじゃない?」
結衣の優しい声が、鼓膜を震わせる。
俺が、ずっと心の奥で想いを燻らせていた相手。結局、この想いを伝えられないまま、俺たちは卒業して、別々の道を歩んだ。それもまた、俺の大きな後悔の一つだった。
混乱する頭が、ようやく状況を理解し始めた。
これは現実だ。夢じゃない。
俺は本当に、大学二年生の夏、人生で最も輝いていたと同時に、最も後悔を残したあの夏に戻ってきたんだ。
砂時計。羊皮紙。路地裏の自動販売機。
全ては、この瞬間のためにあったのか。
「いや、大丈夫。ちょっと寝ぼけてただけだ」
俺は喉の奥から無理やり声を絞り出し、ぎこちない笑顔を作った。
後悔している暇はない。これはチャンスなんだ。失われた時間を取り戻すための、奇跡みたいなチャンス。
今度こそ、この夏を最高の一夏にしてみせる。
過去の俺ができなかったこと、言えなかったこと、その全てをやり遂げる。
仲間たちと最高の思い出を作る。そして、結衣に、ずっと言えなかったこの想いを、今度こそ伝えるんだ。
「わりぃわりぃ、行こうぜ!」
俺は立ち上がり、芝生の土を払いながら、仲間たちの輪に加わった。
拓也が俺の肩を強く叩き、他の仲間たちも「しっかりしろよー」と茶化してくる。そのやり取りの一つ一つが、涙が出るほど懐かしかった。
俺は、未来を知っている。
この先に何が起こるか、どんな失敗が待っているかを知っている。拓也がどの講義で単位を落とすのかも、サークルの夏合宿でどんなトラブルが起きるのかも、全部覚えている。
その知識を使えば、最高の夏を「演出」することなんて、簡単なはずだ。
失敗を避け、成功だけを積み重ねていく。全員を笑顔にさせて、誰一人後悔させない、完璧な夏。
「ケンゴ、本当の本当に大丈夫?」
隣を歩く結衣が、もう一度俺の顔を覗き込む。
その真剣な眼差しに、心臓が大きく跳ねた。十年前の俺は、こうして彼女と二人きりになると、緊張して何も話せなくなってしまったんだ。
でも、今の俺は違う。
「ああ、大丈夫。それよりさ、早瀬。今度の週末、駅前に新しくできたカフェ、行ってみないか? なんか、パンケーキがすごく美味いらしいぜ」
俺は、数週間後にテレビで紹介されて大行列になるカフェの名前を、さも今思いついたかのように口にした。未来の知識を使った、ささやかなジャブ。
結衣は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐにぱっと表情を輝かせた。
「え、本当!? 行きたい! みんなで行こうよ!」
「いや……できれば、二人で」
思い切って言うと、結衣は少しだけ頬を赤らめ、小さな声で「うん」と頷いた。
やった。
心の中でガッツポーズをする。幸先の良いスタートだ。
過去の俺が踏み出せなかった一歩を、俺は今、いとも簡単に踏み出してみせた。
太陽が、俺の新たな始まりを祝福するように、じりじりと輝いていた。
遠くで鳴り響くセミの声が、まるで俺へのエールのように聞こえた。




