表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
路地裏の自販機が売っていたのは、失くした青春でした  作者: 久遠翠


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/12

第3話「完璧だったはずの夏」

 耳をつんざくような、けたたましい鳴き声。

 全身を焦がすような、じりじりとした太陽の熱。

 むっとするほど濃い、緑の匂い。


 意識がゆっくりと覚醒していく中で、俺の五感を支配したのは、あまりにも懐かしい夏の感覚だった。


 ゆっくりと目を開ける。

 視界に飛び込んできたのは、突き抜けるような青空と、その青に負けないほど鮮やかな緑の葉を茂らせた、巨大なクスノキだった。


「……ここ、は」


 掠れた声で呟き、ゆっくりと体を起こす。俺が倒れていたのは、固い芝生の上だった。見渡せば、見慣れた、いや、見慣れていたはずの景色が広がっている。レンガ造りの校舎。学生たちが行き交う中庭。十年以上前に卒業した、大学のキャンパスそのものだった。


 そして、目の前には数人の男女が立っていた。二十歳そこそこの、若さで輝いている学生たち。その顔には、見覚えがあった。十年以上、一度も会っていなかったはずなのに、昨日も会ったかのように鮮明に思い出せる顔。


「おいケンゴ! 何ぼーっとしてんだよ、早くしないと講義始まっちまうぞ!」


 快活な笑顔で俺に手招きしたのは、大野拓也。当時、俺たちが所属していたイベントサークルの中心的存在で、いつもみんなを引っ張っていくリーダーだった。


 その隣で、心配そうにこちらを覗き込んでいるのは、ショートカットがよく似合う、快活な笑顔の少女。


 早瀬、結衣。


「ケンゴ、顔色悪いよ? 昨日の飲み会、ちょっと飲みすぎたんじゃない?」


 結衣の優しい声が、鼓膜を震わせる。

 俺が、ずっと心の奥で想いを燻らせていた相手。結局、この想いを伝えられないまま、俺たちは卒業して、別々の道を歩んだ。それもまた、俺の大きな後悔の一つだった。


 混乱する頭が、ようやく状況を理解し始めた。

 これは現実だ。夢じゃない。

 俺は本当に、大学二年生の夏、人生で最も輝いていたと同時に、最も後悔を残したあの夏に戻ってきたんだ。


 砂時計。羊皮紙。路地裏の自動販売機。

 全ては、この瞬間のためにあったのか。


「いや、大丈夫。ちょっと寝ぼけてただけだ」


 俺は喉の奥から無理やり声を絞り出し、ぎこちない笑顔を作った。

 後悔している暇はない。これはチャンスなんだ。失われた時間を取り戻すための、奇跡みたいなチャンス。


 今度こそ、この夏を最高の一夏にしてみせる。

 過去の俺ができなかったこと、言えなかったこと、その全てをやり遂げる。

 仲間たちと最高の思い出を作る。そして、結衣に、ずっと言えなかったこの想いを、今度こそ伝えるんだ。


「わりぃわりぃ、行こうぜ!」


 俺は立ち上がり、芝生の土を払いながら、仲間たちの輪に加わった。

 拓也が俺の肩を強く叩き、他の仲間たちも「しっかりしろよー」と茶化してくる。そのやり取りの一つ一つが、涙が出るほど懐かしかった。


 俺は、未来を知っている。

 この先に何が起こるか、どんな失敗が待っているかを知っている。拓也がどの講義で単位を落とすのかも、サークルの夏合宿でどんなトラブルが起きるのかも、全部覚えている。


 その知識を使えば、最高の夏を「演出」することなんて、簡単なはずだ。

 失敗を避け、成功だけを積み重ねていく。全員を笑顔にさせて、誰一人後悔させない、完璧な夏。


「ケンゴ、本当の本当に大丈夫?」


 隣を歩く結衣が、もう一度俺の顔を覗き込む。

 その真剣な眼差しに、心臓が大きく跳ねた。十年前の俺は、こうして彼女と二人きりになると、緊張して何も話せなくなってしまったんだ。


 でも、今の俺は違う。


「ああ、大丈夫。それよりさ、早瀬。今度の週末、駅前に新しくできたカフェ、行ってみないか? なんか、パンケーキがすごく美味いらしいぜ」


 俺は、数週間後にテレビで紹介されて大行列になるカフェの名前を、さも今思いついたかのように口にした。未来の知識を使った、ささやかなジャブ。


 結衣は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐにぱっと表情を輝かせた。


「え、本当!? 行きたい! みんなで行こうよ!」

「いや……できれば、二人で」


 思い切って言うと、結衣は少しだけ頬を赤らめ、小さな声で「うん」と頷いた。


 やった。

 心の中でガッツポーズをする。幸先の良いスタートだ。

 過去の俺が踏み出せなかった一歩を、俺は今、いとも簡単に踏み出してみせた。


 太陽が、俺の新たな始まりを祝福するように、じりじりと輝いていた。

 遠くで鳴り響くセミの声が、まるで俺へのエールのように聞こえた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ