第2話「失われた時間への招待状」
土曜日の昼過ぎ、重たいまぶたをこじ開けた俺の目に映ったのは、見慣れた自室の天井だった。カーテンの隙間から差し込む光は弱々しく、外はまだ雨が降り続いているらしい。体は鉛のように重く、眠ったはずなのに疲労は全く抜けていなかった。心の重さも、もちろん変わらない。
虚ろな頭でベッドから這い出し、とりあえず沸かしたお湯でインスタントのコーヒーを淹れる。苦い液体が喉を通り過ぎていくが、味なんてほとんどしなかった。意味もなくテレビの電源を入れると、楽しげな笑い声とカラフルなテロップが、灰色の部屋には不釣り合いに響き渡る。
その時だった。
ピンポーン、と間延びしたチャイムの音が鳴った。
こんな時間に誰だ。宅配便の予定もないはずだ。訝しみながらドアスコープを覗くと、制服を着た配達員の姿が見えた。仕方なくドアを開けると、彼は小さな段ボール箱を一つ、無言で差し出してきた。
「サインかハンコをお願いします」
「はあ……」
言われるがままにサインをすると、配達員はそそくさと立ち去っていった。手元に残された、縦横三十センチほどの小さな箱。差出人の欄は空白で、どこから送られてきたのか全く見当がつかない。
不審に思いながらも部屋に戻り、カッターでテープを切って箱を開ける。緩衝材に包まれていたのは、使い込まれた木製の小箱だった。
大きさは弁当箱くらいだろうか。表面には細かな傷が無数についていて、長い年月を経てきたことがうかがえる。濃い茶色の木肌は、ところどころ色が褪せていた。そして、その中央には、古めかしいデザインの鍵穴が一つ、ぽっかりと口を開けていた。
まさか。
心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
俺は慌ててコートを脱ぎ捨ててあるソファに駆け寄り、ポケットを探った。指先に、ベルベットの柔らかな感触と、硬い金属の輪郭が触れる。
ゆっくりと、あの鍵を取り出す。
震える手で、鍵を小箱の鍵穴にそっと差し込んだ。まるで最初からそこにあったかのように、鍵は吸い込まれるように奥までぴたりとはまった。
息を呑み、祈るような気持ちで鍵を捻る。
カチリ、と乾いた、しかし心地よい音が響いた。小箱の蓋が、わずかに持ち上がる。
ゆっくりと蓋を開けると、そこには二つのものが入っていた。
一枚は、羊皮紙を思わせる、ざらついた手触りの古い紙。
そしてもう一つは、手のひらに収まるほどの、小さな木枠の砂時計。
まずは羊皮紙を手に取った。そこには、万年筆で書かれたような、流れるように美しい文字でこう記されていた。
『失われた時間を取り戻す機会を。ただし、砂が落ちきるまでに決断せよ』
「失われた、時間……」
その言葉が、錆び付いた心の歯車を無理やり回し始めた。
脳裏に、数えきれないほどの後悔が渦を巻いて溢れ出す。
もっと真面目に勉強して、良い大学に入っていれば。
就職活動の時、周りに流されず、本当にやりたいことを探していれば。
数年前に些細なことで喧嘩別れしてしまった元カノに、もっと優しい言葉を一つでもかけていれば。
後悔、後悔、後悔。俺の人生は、選ばなかった選択肢への未練で埋め尽くされている。
ふと、視線がもう一つのアイテム、砂時計へと移った。中の白い砂は、まだどちらにも落ちていない。これをひっくり返した瞬間、何かが始まるというのか。
ゴクリ、と喉が鳴った。
迷信だ、悪質ないたずらだ。そう思う一方で、心のどこかで期待している自分もいた。この灰色の日々から抜け出せるなら、どんな非現実的なことにだって賭けてみたい。
俺は覚悟を決め、砂時計を手に取った。そして、意を決してそれをひっくり返した。
サラサラサラ……。
白い砂が、くびれたガラス管を静かに流れ落ち始める。まるで、俺の命そのものが削られていくような錯覚。残された時間は、見たところ五分もないだろう。
砂が落ちる無慈悲な速さが、俺の思考を焦らせる。
どの後悔を正す? 何をやり直す?
良い大学? いや、今さら学歴が変わっても意味がない。
別の会社? どんな会社なら幸せになれたという保証もない。
元カノとの関係? あの頃の俺では、きっとまた同じ過ちを繰り返すだけだ。
決められない。選べない。
砂はもう、上側のガラスにほとんど残っていなかった。どうしよう。どうすれば。
パニックになった頭が、思考を放棄した。そして、ほとんど無意識に、一番鮮烈で、一番輝いていて、一番もう戻れないと諦めていた記憶の欠片を、喉から絞り出すように叫んでいた。
「大学時代! あの夏だ! サークルの仲間たちと、ただ馬鹿みたいに笑い合っていた、あの夏にもう一度……もう一度だけ、戻りたい!」
最後の砂が一粒、カタリと音を立てて落ちきった。
その瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。
激しいめまいと吐き気に襲われ、立っていられずにその場に崩れ落ちる。視界が急速に白く染まり、テレビの音も、雨の音も、何もかもが遠のいていく。
これが、俺の選んだ結末なのか。
薄れゆく意識の片隅で、俺はそんなことをぼんやりと考えていた。




