エピローグ「月が照らす道」
あれから、五年という月日が流れた。
俺は、今も同じ会社で働いている。役職は少しだけ上がり、生意気だった後輩の高橋は、今ではすっかり頼もしい部下になった。仕事は相変わらず忙しいけれど、あの頃のような絶望的な息苦しさは、もう感じない。
鈴木とは、今でも時々、昼飯を一緒に食べる仲だ。
週末には、新しくできた趣味のフットサルで汗を流すようにもなった。
劇的な変化はない。けれど、俺の世界は、あの灰色だった頃と比べれば、随分とカラフルになったと思う。
もちろん、今でも後悔することがないわけじゃない。
仕事でミスをして落ち込む日もあれば、人間関係で悩む夜もある。
でも、その度に思い出すんだ。
過去は変えられない。だけど、未来は変えられる。
不器用な自分を、格好悪い自分を受け入れて、ただ、今日できる一歩を踏み出す。
そうやって、俺は少しずつ、自分の人生を歩んできた。
ある秋の夜、俺は仕事帰りに、少し遠回りをして公園を散歩していた。
空には、あの夜と同じような、綺麗な月が浮かんでいる。
公園の出口にある、大きな交差点。
信号が赤に変わり、俺は立ち止まって青になるのを待っていた。
ぼんやりと、向かい側で同じように信号を待つ人々を眺める。
その、人混みの中に。
見覚えのある横顔を見つけた気がして、俺は思わず息を呑んだ。
少しだけ大人びて、髪はあの頃より少し伸びているけれど。
優しい笑顔の面影は、少しも変わっていない。
早瀬、結衣。
彼女は、隣にいる小さな男の子と手をつなぎ、何かを優しく話しかけていた。その薬指には、細く光る指輪があった。
信号が、青に変わる。
人々が一斉に、こちら側へ向かって歩き出す。
彼女も、男の子の手を引きながら、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
心臓が、少しだけ速く脈打った。
声を、かけるべきか。いや、やめておこう。
彼女はもう、彼女の人生を、幸せに歩んでいるんだ。
俺は、彼女に気づかれないように、少しだけ俯いて、彼女とすれ違った。
ほんの一瞬、彼女が使っているシャンプーの香りが、ふわりと鼻をくすぐった気がしたそれは、あの夏の匂いとは違う、穏やかで、優しい香りだった。
それで、よかった。
彼女が幸せなら、それでいい。
あの夏は、俺の心の中だけで、大切にしまっておけばいい宝物なんだ。
俺は、もう一度前を向いた。
俺は、もう一度前を向いた。そして、自分の帰るべき場所へと、しっかりとした足取りで歩き出す。振り返ることなく、俺は空を見上げる。
振り返った時、彼女はもう人混みに紛れて見えなくなっていた。
俺は空を見上げる。
月が、まるで「それでいいんだよ」とでも言うように、俺のことを静かに、優しく照らしてくれていた。
雨上がりのアスファルトは、もう乾いている。
俺の道は、未来へと、まっすぐに続いていた。




