第10話「売り切れランプ」
その日の帰り道、俺は自然と、あの路地裏へと足を向けていた。
何かを確かめたい、というわけではない。ただ、もう一度だけ、あれを見ておきたかった。
薄暗い路地の奥には、あの自動販売機が、相変わらずぼんやりとした光を放ちながら静かに佇んでいた。まるで、俺が来るのを待っていたかのように。
ゆっくりと、その前に立つ。
並んでいる懐かしいジュースのラインナップは、あの夜と何も変わらない。
俺は、視線を一番右下のスペースへと移した。
そこは、空になっていた。
黒いベルベットの小袋も、古びた鍵も、もうどこにもない。
そして、白紙だったはずの商品プレートには、小さな赤いランプが、静かに灯っていた。
「うりきれ」
たった四文字の、カタカナ。
それを見た瞬間、俺の心の中に、ほんの少しだけあった寂しさのようなものが、すっと消えていくのを感じた。
チャンスは、もうない。
でも、それでいいんだ。
あの不思議な体験は、一度きりで十分だ。
俺は、自動販売機に向かって、誰に言うでもなく小さく呟いた。
「ありがとう」
そして、小さく頭を下げると、踵を返して路地を後にした。
もう、ここに来ることはないだろう。
過去に囚われていた俺は、もういないのだから。
路地から出た瞬間、俺はふと空を見上げた。
いつの間にか、あれほどしつこく降り続いていた雨はすっかり上がっていた。分厚い雲の切れ間からは、大きな、まんまるい月が顔を覗かせている。
その優しい月明かりが、雨に濡れたアスファルトを静かに照らし出していた。
水たまりが、まるで鏡のように月を映し、世界が新しく生まれ変わったかのように、きらきらと輝いて見えた。
俺は、その場に立ち止まり、少しだけ深く息を吸い込んだ。
ひんやりとした夜の空気が、肺いっぱいに満たされる。その空気には、雨上がりのアスファルトの匂いと、ほんの少しだけ、あの夏の夜の匂いが混じっているような気がした。
劇的に人生が変わったわけじゃない。
相変わらず仕事は大変だし、面倒なこともある。
でも、もう大丈夫だ。
明日は今日より、もう少しだけ良い一日にできるかもしれない。
その次の日は、もっと。
そうやって、不器用ながらも一歩ずつ、未来を作っていけばいい。
そんな小さな、しかし確かな希望を胸に、俺はしっかりとした足取りで、家路についた。
月明かりが照らす道を、まっすぐに見つめながら。




