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星空の片隅

作者: 揚羽(ageha)
掲載日:2026/01/21

 夕方には少し早い時間だった。日が落ちきるにはまだ間があり、街は夜景になる前の色をしている。明るさを失いかけ、輪郭だけが黒く沈んでいく。天望デッキへ向かう列は、思ったより静かだった。観光客は多いが、誰もが高い場所へ行く前の、妙に落ち着いた顔をしている。チケットを買い、案内に従って進む。春夏秋冬、四基あるエレベーターの前で、人は自然と振り分けられていく。誰かと誰かが、意図せず同じ列に並ぶ。理由はない。ただ流れが、そうなっただけだ。ガラス越しに見える街は、まだ夜ではない。なのに、足元だけが先に暗くなっていくような感覚があった。

 エレベーターに乗り込むと、箱の中は一気に詰まった。人の香水が入り交じり、誰のものともつかない匂いが漂う。扉が閉まる。わずかな振動とともに、上昇が始まった。中央に立つ男は、割れていた。背筋は伸びている。だが肩には力が入り、首の後ろに薄く汗がにじんでいる。視線は正面の扉に固定されたまま、外れない。後ろは、振り返らない。振り返れば、何かが決まってしまう気がした。速度が落ちる。床が、ふっと浮くような感覚。耳の奥が詰まり、空気が一段、重くなる。

 エレベーターが止まる。その、ほんの一瞬前。男は、扉を見たまま言った。

「……いつまで、追ってくるつもりだ」

 空気が、ひび割れた。

「すいません」

「ごめんなさい」

「ちょっと、話を聞いてもらえますか」

「ん?」

 同時に、複数の声が返る。男は、思わず振り返った。

「……何? 何の話だ」

 扉が開く。円になる。男を中心に、七人が、無意識に距離を取ったまま立っていた。天望デッキに降りたあとも、しばらく誰も動けなかった。

 最初に口を開いたのは、ひとりの男だった。

「あなた、麻薬の売人だな、岩田!」

「……は?」

「名前が出てるんだよ。買ったやつが吐いた」

「人違いです。身に覚えがない」

 警察だった。だが、話はすぐに崩れた。外国人の自白に出てきた名前は「イワタケル」。岩田 ける。目の前の男は、岩 武尊。岩さん、と呼ばれている。読みは同じだった。だが、漢字も、区切りも違った。張り込み中、たまたま売買の現場で、誰かが男を「イワタケル」と呼ぶのを聞いた。それだけだった。

「一週間、尾行してしまった。ほんとに申し訳ない」

 岩さんは、額を押さえた。指先が、汗で湿っている。

「あんたから声をかけられたと思って、つい……人違いだった」

「わかってもらえて、安心しました」

 岩さんは、背中に立っていた人物に向けて言った。二十歳の大学生。息子だった。スイッチ2が、どうしても欲しかった。母親に頼み込み、買ってもらってしまった。遊んでばかりいて、単位を落とし、つい最近、父に強く叱られたばかりだった。

「謝りたくて……」

 父は、何も言えなかった。

「ごめんなさい!」

 警察の男が「端に寄りましょう」と皆を促す。なぜか、岩さんを中心に、順番に話を聞く流れになった。次の男は、面接帰りだった。冷や汗で顔がべたつき、トイレで洗っている間に、バッグを取り違えられた。強面の岩さんに、声をかけられなかった。ただ、後を追った。深く、頭を下げる。

「すみません、すみません」

「あら、わるかったね。申し訳ない」

「こちらこそ、すみません」

 バッグはその場で確認され、無事に戻った。

 次は、女だった。小さい頃、両親は離婚した。出ていった父の背中に、よく似ていた。肩。首。立ち止まる癖。それだけじゃない。自分にも、似ている気がした。確かめられず、ついてきてしまった。誤解だったとわかり、恥ずかしそうに俯く。

 次の女は、カプセルホテルのフロント係だった。毎日、指名手配の写真を見ている。

「そっくりで……職業病です」

「完全に、勘違いでした」

「私の顔、そんなに似ていたんですね」

「はい……その……すみません」

「良いんですよ。誰しも勘違いはあります」

 場の緊張が、少し緩んだ。

 次の男は、探偵だった。依頼はない。仕事でもない。

「ただ……配置が、きれいすぎた。俺には一つの固まりに見えていた」

追う者。追われる者。何かが起きる前の形。

「なにか起きたら止めようと思って。俺の勘は外れだった」

「いや、当たりですよ。とんでもない事件です。私が代表して。本当に仕事の邪魔をしてしまい、すみません」

 同じ光景でも、立つ場所が違えば、見える形は変わる。正しさも疑いも、蜃気楼のようなものだ。

「すいませんばかり出てくるな。日本人だなぁ」

 探偵は笑顔で、周囲を見渡した。海外からの観光客が、無邪気に写真を撮っている。

「皆さん、幸せそうですね」

 最後の男は、肩をすくめた。

「僕は……たまたまです」

 駅を出て、改札を抜け、トイレに寄り、チケットを買い、同じタイミングで、同じ方向に動いただけだった。

「流れが、同じだっただけですかね」

 沈黙のあと、全員が息を吐いた。

「……なんだこれ」

「すごい偶然ですね」

「ほんとですね」

 円が崩れ、距離が縮まる。ガラス越しに、街が広がっている。夜景には少し早い光が、じんわりと目に染みる。

「コーヒー、飲みません?」

「せっかくだし」

「いいですね」

「……お父さん、ごめんなさい」

 岩さんは、肩の力が抜けるのを感じた。追われていたわけでもなく、追っていたわけでもない。ただ、同じ瞬間に、同じ場所にいただけだった。岩さんは、距離を保ってついてくる息子が、どこかで諦めて帰るものだと思っていた。だが、息子は最後まで黙って、背中にいた。

 天望デッキでコーヒーを飲み、自己紹介が始まる。息子には反省させたかった。どこまでついてくるのか、根性を試していた。それで、夜景を見ながら、きちんと話せると思って、ここに寄ってみた。探偵が最後に言った。

「勉強、頑張れよ。お父さんの気持ちを、ちゃんと受け止めろ」

 息子の背中を、ぽん、と叩き、背中で挨拶をして帰っていった。

 岩さんは涙が自然にこぼれ、深く頭を下げていた。子供と長年向き合ってきた日々を思い出していた。

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