第12話:吊るされた男 ― 純白のアダムの林檎と逆光の葬場 ― ②
轟音。
巨大な機関が、肋骨の内側から殴ってきた。
管理人(吊るされた男)の指がレバーを落とす。
それだけで、視界の端から「紅」が滲み出した。
炉の奥で爆ぜる火。
逆光を塗り潰し、網膜を、意識の縁を、無慈悲に焼く。
熱で膨張した鉄のリベットが軋み、排気ダクトから甘ったるい金属の死臭が漏れた。
右腕が、熱い。
あの時。
シリンジを押し切って、喉の奥へ琥珀を流し込んだ――あの掌の「抵抗」。
それがいま、沸騰した鉛になって血管を逆流する。
心臓を突き上げる。
脳が焦げる。
炉のピストン運動に合わせて、右腕の筋肉が勝手に跳ねた。
(あたしの腕が、この火葬炉の歯車になったみたいに。
絶望のリズムで、刻む。)
(……謝らないで)
脳内に直接、「熱」が流れ込んだ。
形にならないのに、拒絶できない。
赦しなんて生ぬるい言葉じゃない。
魂の内側から焼き切るほどの、暴力的な肯定。
(怖くなかったわ)
(怖かったのは、あんたの方だよね)
(ずっと、抱きしめてくれてた。あの腕のあったかさ――忘れない)
「……っ、……やめて……ッ!」
喉の奥で、鉛が固まる。
あの子――「彼女」は、ゆりえが握りしめていた「加害者」という免罪符を、優しい手で奪っていく。
赦してほしくなんてなかった。
「人殺し」でいることで、ようやくこの喪失の重さに耐えていたのに。
それなのに、この火は、このノイズは。
罪をまるごと飲み込んで、ただの「愛」へと純化させてしまう。
(ありがとう)
(……あんたのそばにいられて、本当に――)
脳裏に溢れたのは、惨劇じゃない。
泥だらけになって笑い転げた午後の光。
指先を甘噛みした、柔らかな口内。
一緒に見上げた、名前も知らない夕焼け。
それらすべてが、いま自分を焼く炎と同じ温度だと知った瞬間。
ゆりえの胃が、ひどく持ち上がった。
殺した相手に、抱きしめられている。
殺した相手に、「幸せだった」と笑われている。
その多幸感が刃になる。
自己否定を、ズタズタに切る。
愛されている――その事実が、どんな刑罰よりも重い。
「謝らせてよ!」
「ひどい奴だって、責めてよ!」
「……なんで、あんたは……ッ!」
叫びは太陽へ吸い込まれ、真空に消える。
頭上の炉から、灰色の煙がキラキラと“降って”きた。
燃え尽きていく肉。記憶。
それが重力に従って、ゆりえの足元へ重く沈殿する。
ゆりえは、残骸に膝まで浸かった。
熱い沈黙の中で、立ち尽くす。
――そして。
雨だ。
ポツリ、ポツリ。
下から上へ降り注ぐ「逆さまの涙」。
雨脚が強くなるほど、ゆりえの顔を、鼻孔を、口を、容赦なく塞ぐ。
溺れる。
重力は足元にあるのに、呼吸だけが天へ奪われる。
吐き出した悲鳴が雨粒に砕かれて、自分の頬へ叩きつけられた。
誰が泣いているのか。
自分が泣いているのか。
もう、わからない。
溶け合って、熱くて、どうしようもなく苦しい。
――ドクン。
心拍みたいな脈動が、唐突に止まった。
巨大な機関が沈黙する。
吊るされた男が炉の扉を、無造作に開けた。
「……持っていけ」
「これが、お前たちが分かち合った、最後の形だ」
灰の中から拾い上げられる、白い塊。
喉仏(アダムの林檎)。
あの時、針が貫き、そして「ありがとう」が通った場所の、結晶。
男の手から放たれた骨が、ゆりえの掌へ“落ちて”くる。
熱い。
心臓が止まるほど、冷たい。
苦痛の証で。
愛の遺物で。
掌の上に、白く乾いた、たった一つ。
さっきまで、あんなに熱かったのに。
甘噛みした口元。
琥珀を飲み下した喉。
これだけ?
命が。
重さが。
(あたしたちの時間が。)
これっぽっち?
「……やだ」
「やだよ……」
「返して……」
「……骨じゃない。あの子は、こんなのじゃない……」
口を開いた。
でも、声が出ない。
唇だけが震えて、喉の奥で嗚咽が折れた。
肺が裏返りそうなのに、泣き声はどこにも届かなかった。
肺も内臓も、ひっくり返る。
理屈なんて、もうどこにもない。
(愛してた。)
(あたしが殺した。)
(守りたかった。)
(あたしが焼いた。)
ぐちゃぐちゃの慟哭が、鼻水と涙になって、逆さまの雨に混ざる。
視界が歪む。
「なんでだよ……!」
「なんで、こんな形なんだよ……ッ!!」
「なんでこれっぽっちなんだよ……ッ!!」
幼くて、偽りのない怒り。
脳内のノイズが、一瞬だけ、慈しみの微笑みを形作りかける。
――でも、結ばせない。
ゆりえは震える手で、その「林檎」を、剥き出しの真実を、がま口の口へ運んだ。
がま口の闇。
暗く、冷たい、銀の淵。
ここに仕舞えば、二度と触れられない。
掌を焦がす熱も、指先に残る痺れも。
ぜんぶ「記録」になって、色褪せる。
……嫌だ。
まだ、持っていたい。
この熱を閉じ込めたら、自分は本当の「独り」になる。
この痛みが消えたら、自分はただの「人殺し」として、明日を生きるしかなくなる。
震える指が――残酷なほど正確に、らっきょうを合わせた。
パチン。
らっきょうが噛み合う硬質な音。
それが、反転した世界の均衡を断ち切る合図だった。
さっきまで「上」へ引いていたものが、今度は「下」へ。
空も、炉も、逆光も、景色も、動かない。
――落ちるのは、ゆりえだけだ。
「……あ」
天井に縫い付けられていた圧が、ぷつりとほどける。
足裏が、踏んでいた面を失うんじゃない。
“引かれる方向”が変わって、踏めなくなる。
内臓が遅れて沈み、喉が空っぽのまま息を呑む。
ゆりえの身体は、「空」へ――真っ逆さまに墜落を始めた。
加速。
突き上げていた雨雲を突き抜ける。
色彩が剥がれ、空気が消える。
風の音さえ置き去りになる。
空を越え、落ちる先は――
暗黒の宇宙。
冷ややかに瞬く星々。
ゆりえは、がま口の中の「骨」の重みだけを抱いて、静寂の虚無を落ちていく。
温度も、音も、重さも消えていくのに。
その重みだけが、腕に、一生消えない痣みたいな確信を刻む。
(あたしは、愛されて)
(あたしは、あんたを――)
墜落。
掌を焼く「アダムの林檎」だけが、冷えていく宇宙で唯一の太陽だった。
闇の底。
巨大な銀の弧が、彼女の視界を、存在を、一息に刈り取ろうと横たわっている。
ゆりえは、まだ――
あの子の、本当の名前を――。
(第12話・完)




