第12話:吊るされた男 ― 純白のアダムの林檎と逆光の葬場 ― ①
まばゆい。
白が、沸騰している。
視界のすべてが極光に塗り潰され、瞳の奥が焼ける。
その白の芯――太陽を背負った巨大な影が、ゆりえの前に立ちはだかっていた。
鋼鉄の巨神。
「犠牲の転換機関」。
死を“燃やす”ためだけの、巨大なエンジン。
唇を動かしても、声が粉になる気がした。
「……あれは、何?」
乾いた問いが、光の中に霧散した。
一歩、踏み出す。
境界線を越える。
ガシャン!
脳髄の真ん中で、硬質なシャッター音が爆ぜた。
次の瞬間、世界が音もなく、裏返る。
「……ッ!?」
平衡感覚が破断し、三半規管が熱い泥みたいに攪拌される。
ゆりえは反射で、天井を蹴った。
重力は変わっていない。
足裏には確実に、さっきまで“天”だった平坦がある。
――裏切っているのは視界だけだ。
見上げれば、かつて踏んでいたアスファルトが“空”として広がっている。
狂暴な太陽は居座り、黒いシルエットの火葬炉をこちらへ突きつけていた。
静寂。
いや、真空。
周囲の環境音が「プツリ」と断たれる。
「……、ぁ」
出したはずの声が、唇を離れた瞬間に、頭上の太陽へ向かってヒュッと吸い込まれて消えた。
自分の悲鳴さえ、自分に届かない。
右腕が、熱い。
あのシリンジの押し子を押し潰した痺れ。
それが目に見えない剛鉄の鎖となって、ゆりえをこの天井に釘付けにしている。
肩に食い込む、がま口のストラップ。
重い。
重いだけが、いまは“落ちない”を作っていた。
――カラカラ……。
――カラカラ……。
無音の真空を、その乾いた音だけが不自然な解像度で侵食した。
反転した視界のすぐ手前。
ステンレスの柩台が、慣性だけで滑り込んでくる。
(……知ってる)
既視感が、吐き気みたいに喉元をせり上げた。
鉄板の端に並んだ林檎。
みかん。バナナ。食べたくても食べられなくなったフード。
色鮮やかなガーベラ。奇跡みたいに白い百合たち。
好きだったおもちゃとボール。
――忘れてほしくなくて並べた、あたしたちの写真。
(あたしだ。あたしが並べたんだ)
現実の、あの茹だるアスファルトの上で。
泣きながら、このリンゴを剥いた。
震える手で、この百合の茎をハサミで切り揃えた。
“優しかったふり”が崩れないように、舞台装置を整えた。
慈愛。献身。介護。
そんな綺麗な言葉で飾った、最期の段取り。
――なのに。
極彩色の中心だけが、どうしても結像しない。
あの子が横たわっているはずの場所。
そこだけが、背後の太陽から溢れる光に焼かれ、眩しすぎる琥珀色のノイズになってホワイトアウトしている。
脳が拒絶している。
誰が横たわっているのか。
誰が死んだのか。
その本質だけを、網膜が焼き切って消去しようとしている。
「……思い出せ。お前は何のために、その花を飾った」
足元。
底なしの青紫の空――奈落から、その男は現れた。
一本の紐に足首を縛られた、吊るされた男。
管理人みたいに、事務的な顔。
彼はゆっくりと、ゆりえの正面まで“上昇”してくる。
男はゆりえに対して逆さまだ。
彼にとっての重力は、依然として「天(地面)」に向かっている。
逆立ちした髪が太陽へ向かって鋭く伸び、
腰のチェーンから伸びた懐中時計さえ、天に向かってぶらんと浮き上がっていた。
「思い出せ。その中心に閉じ込めた、真実を」
声は真空を無視して、耳の裏へ直接染み込む。
吊るされた男は逆さまのまま、無機質に柩台へ手をかけた。
鉄板が、巨大な炉の口へ導かれていく。
ギィィィィィィィッ!!
金属と石が擦れ合う、乾燥した、骨を削る摩擦音。
その音が響いた瞬間、ゆりえの右腕の痺れが、あの日シリンジがガラスを擦った震動と完全に同期した。
熱い。
腕が、あの子の喉になっている。
飲み込めなかった琥珀色。
拒絶しようとして震えた喉。
その熱が、脳内へ直接、謝罪の鼓動になって溢れ出した。
(ごめんね…)
(……やめて)
(もっと、一緒にいてあげたかった。……あんたを一人にして、悲しませて、ごめんね)
(謝らないで! そんなこと言わないでよ!)
(あたしが。あたしがあんなことをしたのに!)
(あたしが殺したのに!!)
言葉は、全部、太陽へ吸い込まれる。
届かない。叫びも、悔恨も、一滴も届かない。
吊るされた男は、天に向かって浮く懐中時計の文字盤を、逆さまのまま覗き込んだ。
「――時間だ」
男が、重い炉の扉に手をかけた。
一分の猶予も、情緒もない。
ただの「執行」。
ガチャン!!
取り返しのつかない施錠音。
その瞬間、強烈だった逆光が物理的に遮断され、視界は一瞬で、完璧な暗転へ叩き落とされる。
完璧な静寂。
完璧な暗黒。
扉の向こうの極彩色も、琥珀色のノイズも、あの子の謝罪も。
すべてが永久に、この世界から隔離された。
刹那。
静寂が、肺を握りつぶした。
戻れない。もう、触れられない。
その事実が、物理的な“音”として脳を貫いた。
「待って!!」
ゆりえは暗闇で叫んだ。
理性の叫びじゃない。
内臓が、皮膚が、細胞が、手遅れだと悟った瞬間の――無様な拒絶。
「待ってよ!! やっぱりやめる! やめるから!!」
「……開けてよ! まだ、あたし……ッ!!」
声は鉄の扉に跳ね返される。
自分の声だけが、ようやく自分に聞こえた。
暗闇の中、扉を叩く拳の熱さだけが、ゆりえの存在を証明していた。
――だが。
巨大な機関は、すでに点火の時刻を刻んでいる。
そして、暗闇の奥で、点火ランプが―つ、灯った。
(つづく)




