表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
38/39

第12話:吊るされた男 ― 純白のアダムの林檎と逆光の葬場 ― ①



まばゆい。

白が、沸騰している。


視界のすべてが極光に塗り潰され、瞳の奥が焼ける。

その白の芯――太陽を背負った巨大な影が、ゆりえの前に立ちはだかっていた。


鋼鉄の巨神。

「犠牲の転換機関」。


死を“燃やす”ためだけの、巨大なエンジン。

唇を動かしても、声が粉になる気がした。


「……あれは、何?」


乾いた問いが、光の中に霧散した。

一歩、踏み出す。

境界線を越える。


ガシャン!


脳髄の真ん中で、硬質なシャッター音が爆ぜた。

次の瞬間、世界が音もなく、裏返る。


「……ッ!?」


平衡感覚が破断し、三半規管が熱い泥みたいに攪拌される。

ゆりえは反射で、天井あしもとを蹴った。


重力は変わっていない。

足裏には確実に、さっきまで“天”だった平坦がある。

――裏切っているのは視界だけだ。


見上げれば、かつて踏んでいたアスファルトが“空”として広がっている。

狂暴な太陽は居座り、黒いシルエットの火葬炉をこちらへ突きつけていた。


静寂。

いや、真空。


周囲の環境音が「プツリ」と断たれる。

「……、ぁ」

出したはずの声が、唇を離れた瞬間に、頭上の太陽へ向かってヒュッと吸い込まれて消えた。

自分の悲鳴さえ、自分に届かない。


右腕が、熱い。


あのシリンジの押し子を押し潰した痺れ。

それが目に見えない剛鉄の鎖となって、ゆりえをこの天井に釘付けにしている。


肩に食い込む、がま口のストラップ。

重い。

重いだけが、いまは“落ちない”を作っていた。


――カラカラ……。

――カラカラ……。


無音の真空を、その乾いた音だけが不自然な解像度で侵食した。

反転した視界のすぐ手前。

ステンレスの柩台カーゴが、慣性だけで滑り込んでくる。


(……知ってる)


既視感が、吐き気みたいに喉元をせり上げた。


鉄板の端に並んだ林檎。

みかん。バナナ。食べたくても食べられなくなったフード。

色鮮やかなガーベラ。奇跡みたいに白い百合たち。

好きだったおもちゃとボール。

――忘れてほしくなくて並べた、あたしたちの写真。


(あたしだ。あたしが並べたんだ)


現実の、あの茹だるアスファルトの上で。

泣きながら、このリンゴを剥いた。

震える手で、この百合の茎をハサミで切り揃えた。

“優しかったふり”が崩れないように、舞台装置を整えた。


慈愛。献身。介護。

そんな綺麗な言葉で飾った、最期の段取り。


――なのに。


極彩色の中心だけが、どうしても結像しない。

あの子が横たわっているはずの場所。

そこだけが、背後の太陽から溢れる光に焼かれ、眩しすぎる琥珀色のノイズになってホワイトアウトしている。


脳が拒絶している。

誰が横たわっているのか。

誰が死んだのか。

その本質だけを、網膜が焼き切って消去しようとしている。


「……思い出せ。お前は何のために、その花を飾った」


足元。

底なしの青紫の空――奈落から、その男は現れた。


一本の紐に足首を縛られた、吊るされた男。

管理人みたいに、事務的な顔。


彼はゆっくりと、ゆりえの正面まで“上昇”してくる。

男はゆりえに対して逆さまだ。

彼にとっての重力は、依然として「天(地面)」に向かっている。


逆立ちした髪が太陽へ向かって鋭く伸び、

腰のチェーンから伸びた懐中時計さえ、天に向かってぶらんと浮き上がっていた。


「思い出せ。その中心に閉じ込めた、真実を」


声は真空を無視して、耳の裏へ直接染み込む。

吊るされた男は逆さまのまま、無機質に柩台へ手をかけた。

鉄板が、巨大な炉の口へ導かれていく。


ギィィィィィィィッ!!


金属と石が擦れ合う、乾燥した、骨を削る摩擦音。

その音が響いた瞬間、ゆりえの右腕の痺れが、あの日シリンジがガラスを擦った震動と完全に同期した。


熱い。

腕が、あの子の喉になっている。


飲み込めなかった琥珀色。

拒絶しようとして震えた喉。

その熱が、脳内へ直接、謝罪の鼓動になって溢れ出した。


(ごめんね…)


(……やめて)


(もっと、一緒にいてあげたかった。……あんたを一人にして、悲しませて、ごめんね)


(謝らないで! そんなこと言わないでよ!)

(あたしが。あたしがあんなことをしたのに!)

(あたしが殺したのに!!)


言葉は、全部、太陽へ吸い込まれる。

届かない。叫びも、悔恨も、一滴も届かない。


吊るされた男は、天に向かって浮く懐中時計の文字盤を、逆さまのまま覗き込んだ。


「――時間だ」


男が、重い炉の扉に手をかけた。

一分の猶予も、情緒もない。

ただの「執行」。


ガチャン!!


取り返しのつかない施錠音。

その瞬間、強烈だった逆光が物理的に遮断され、視界は一瞬で、完璧な暗転へ叩き落とされる。


完璧な静寂。

完璧な暗黒。


扉の向こうの極彩色も、琥珀色のノイズも、あの子の謝罪も。

すべてが永久に、この世界から隔離された。


刹那。


静寂が、肺を握りつぶした。

戻れない。もう、触れられない。

その事実が、物理的な“音”として脳を貫いた。


「待って!!」


ゆりえは暗闇で叫んだ。

理性の叫びじゃない。

内臓が、皮膚が、細胞が、手遅れだと悟った瞬間の――無様な拒絶。


「待ってよ!! やっぱりやめる! やめるから!!」

「……開けてよ! まだ、あたし……ッ!!」


声は鉄の扉に跳ね返される。

自分の声だけが、ようやく自分に聞こえた。


暗闇の中、扉を叩く拳の熱さだけが、ゆりえの存在を証明していた。


――だが。


巨大な機関は、すでに点火の時刻を刻んでいる。



そして、暗闇の奥で、点火ランプが―つ、灯った。



(つづく)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ