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第11話:正義 ― 歪んだシリンジと無力な秤 ― ②



押し子が、震える。

指の皮がガラスに吸い付き、じりじりと剥がれる。

無理に押し下げようとするたび、プランジャーのゴムが乾いた内壁を噛み、指先へ「キュッ……ギュッ……」という嫌な震動を返してくる。


ミシリ。


世界が断絶する音。

――いや。断絶したのは、ゆりえの方だ。


その摩擦音。

鼓膜の奥を極細の針で刺すような高周波。

それが、リノリウムの底から響くあの嚥下音ゴクッと、完全に重なった。


同期シンクロ


瞬間、音が死んだ。

荒い呼吸も。狂ったメトロノームも。

全部が「なぎ」へ叩き落とされる。


凪いだのに、静かじゃない。

鼓膜の裏で、自分の心臓だけが遅れて打ち始める。


ドクン…

ドクン…


唾液がひどく甘くて、喉の奥に貼りついた。飲み込む音が怖い。息だけが浅くなる。


(……あたし)

(あの子に、こんなことをしてたの?)


「あの日」の映像が、ただの記録映像から――「今、この指がしていること」へ、生々しく変質する。

白銀の壁が剥落し、現像されるのは西日の差し込む、あの狭い和室だ。


アルコールの裏側から、乾いたイ草の匂いが、逃げ場もなく押し寄せた。

その上に、使い古したタオルの湿り気と、あの子の毛並みが放つ、少し生臭い熱。

鼻の奥が、ぎゅっと縮む。


指先に、喉の感触が戻る。

プラスチックの先端が、逃げる喉の粘膜を無理やり突く、あの頼りない抵抗。

「生きて」という呪文を唱えながら、あの子の口角をこじ開けていた。


琥珀色が、溢れる。

飲み込めない。


流し込まれた液体が喉で渋滞し――。

行き場を失った救済は、あの子の鼻から、泡を吹いて逆流した。

窒息。

あたしが、あの子を溺れさせていた。

あの瞬間の、指先を伝う生温かい喉の震えまで、戻ってきた。


(助けたい。そう言いながら、あたしはこれをしていたんだ)

(この指の力で。この身勝手な独善で)

(上手くできなかったんじゃない。あたしは、あの子の尊厳を――琥珀色の泥水で踏みにじっていた)


(正義?)

(これが?)

(殺そうとしていたのは、あたしの方じゃないか)


「……ッ、あああああああッ!!」


声にならない叫び。

ゆりえは巨大な押し子へ、全体重を叩きつけた。

膝蓋骨が悲鳴を上げ、腕の骨がミシミシと軋む。

この腕ごと折って、この「加害」の事実まで粉々に砕いてしまいたかった。

でも――折れるのは、世界じゃない。自分だ。


指先が、呪いみたいに熱い。


掌に伝わる感触が、硬質なガラスから、泥のような柔軟物へと変質する。

巨大なガラスの筒が、ゆりえの放つエゴの熱量に耐えきれず、歪み始める。

パキン、という小気味いい音じゃない。


ぐにゃり。


ぐにゃり、と曲がったガラスが、熱の匂いを吐いた。焦げた甘さ。アルコールの白さ。

目盛りの線が、汗で滲むみたいに波打つ。

ゆりえの指紋が、柔らかい法に沈んで、二度と戻らない形で刻まれていく。


熱した飴細工みたいに、冷徹なシリンジが、ゆりえの独善に合わせて曲がっていく。

垂直だった目盛りが、苦しげに波打つ。

「命の計量」だったはずの線が、意味をなさないゴミになる。

シリンジの隙間から溢れ出した琥珀色の液が、ゆりえの袖口を浸し、脇の下まで不快なぬめりを伴って伝っていく。


汚い。

あたしの愛は、こんなに汚い。


――それでも、押し子は落ちない。

落ちてほしいのは、許しだ。

落ちてこないのは、当然だ。


パキンッ。


最後の一滴が床に落ちた。

音は羽のように軽いのに、胸が、鉛を流し込まれたみたいに重い。


巨大なシリンジは一瞬で熱を失い、手のひらサイズの「歪んだガラス」に収束する。

ゆりえの手の中に残されたのは、指の跡が深くめり込み、熱でぐにゃりと曲がった『歪んだシリンジ』。

透明なそれは、ゆりえの不器用さが結晶化した、醜い勲章だった。


達成感なんて、どこにもない。

両腕にじわじわ広がる、芯から疼くような重い痺れだけ。

まるで、あの子の喉を絞め続けていた感覚が、自分の腕に呪いとして定着したかのような。


重力に逆らい、死という平穏を否定しようとした代償。

(この、消えない疼きが……あたしに下された判決なんだ)


「……ごめんね。あたし、……本当に、下手くそで」


ゆりえはリノリウムの上に崩れ落ちた。

琥珀色のシミが、自分の涙でさらに滲み、床を汚していく。

苦しめた。


ゆりえの手が。

ゆりえの技術が。

ゆりえの正義が。

その事実だけは、この先、どんな奇跡が起きても書き換えられない。


震える手で、がま口のらっきょうを弾く。

傷口を無理やりこじ開けるみたいな、鈍い金属音。


『歪んだシリンジ』を、暗い奈落へ叩き込んだ。

自分の罪を、一生閉じ込めるみたいに。


パチン!


硬質な断絶。

裁判官の木槌ガベルが、ゆりえの罪を確定させた音。


音と同時に、白銀の世界が瓦解した。

清潔という名の欺瞞で塗り固められた無菌室が、光の粒子になって暗転していく。


暗闇のなか。

腕の痺れだけが、いつまでも、いつまでも疼き続けた。

その不快な拍動だけが、ゆりえと“あの子”が、泥を啜りながら共にいたという、逃れようのないあかしだった。


不意に。


世界の底が、抜けた。


上下の感覚が霧散する。

重力が剥がれ落ち、空が足元に、床の白が頭上に。

血が頭に上り、視界が真っ赤に染まっていく。


逆さまに吊るされた世界。


その暗闇の先で――。

逆さまのままの一人の男の冷徹な瞳が、こちらを見ている。

そして――天秤にかけられた、ゆりえの魂を、“測った”。


(第11話・完)



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