第11話:正義 ― 歪んだシリンジと無力な秤 ― ①
白。
白。
白。
これは色じゃない。
視界の奥の神経を、無機質なプラスチックの槌で叩き続ける――ただの暴力だ。
鼻腔を貫く。アルコール綿。
あの狭い部屋で、昼も夜もなく嗅ぎ続けた匂い。脳の奥が痺れて、息が薄くなる。
清潔という名の静止。
命のノイズを、一滴も許さない無菌室。
凍てついた空気が肺胞ひとつひとつを、細い針で刺すように焼き焦がしていく。
――メルミはいない。
千切れた指先の感覚。
その「欠損」という空洞から、ゆりえの魂が漏れていく。
光を反射することさえ拒む無音のリノリウムへ、吸い込まれていく。
(あたしは、何をしてる?)
目的は、もう砂嵐の向こうだ。
ただ指先だけが、泥沼みたいな「反復」を欲しがっている。
火傷の跡が疼く。血流が狂う。
主を失った肉体が奏でる、無様な生存本能。
「……ッ、ぐ、……はぁ,……っ、はぁ……ッ!!」
静電気を纏った空気を、引き裂くみたいな呼気。
ゆりえは鏡面仕上げのリノリウムに膝を叩きつけた。
ミシリ。
膝蓋骨が鳴る。
その痛みさえ、いまは自分をこの世界に繋ぎ止める杭だ。
肩に食い込む、がま口のストラップがずしりと重い。
重いだけでいい。重いほうがいい。
落ちないための錘。
目前にあるのは、不自然なほど静謐な「空のベッド」。
その傍らに、天を突くほど巨大なガラスのシリンジが、冷徹なギロチンみたいにそびえている。
ゆりえは透明なプランジャー(押し子)の平坦な頭に両手をかけた。
十字架に縋りつく末期の罪人みたいに。全質量を預ける。
入れなきゃ。
入れなきゃ、終わる。(何を?)
入れなきゃ、消える。(何が?)
指の節が、限界を越えて白く浮く。
薄い皮膚の下で骨の形が、剥き出しの凶器みたいに盛り上がる。
鬱血して、どす黒く変色し始めた指先。爪の隙間に黒い土がこびりついている。
押し子は動かない。
巨大な石碑みたいに重い。
コンクリートを突くような冷たい拒絶で、ゆりえの祈りを撥ね退ける。
「落ちろ……落ちろッ!」
「なんで入らないのッ、飲み込んでよ!!」
叫びが返ってこない。
返す喉が、もう世界のどこにもない。
ガラスの内壁をゴムが擦る。
キュッ、ギュッ。
鼓膜を極細の針で刺し貫く、不快な高周波だけが上がる。
腕の骨が折れる音が、いまのゆりえには「正義」だった。
押し返されるこの重さこそが、あの子を繋ぎ止めるための――唯一の秤だと、信じ込んでいた。
その刹那。
グチャリ。
耳の奥まで泥で汚されるような、生温かい音。
「……あ、……ぁ」
渾身の力が、空っぽの逃げ道を見つけた。
シリンジの筒と押し子の隙間。設計上の微かな綻び。
そこから、粘着質で、鼻が曲がるほど甘ったるい琥珀色の薬液が――勢いよく溢れ出した。
ゆりえの絶望を、横から笑うみたいに。
あの日と同じだ。
どれほど指を白くしても。どれほど心をヤスリで削っても。
肝心の筒は目詰まりを起こし、救済の雫は一滴も届かない。
ただ無残に「横」へ漏れ出していく。
琥珀色の液体は、不潔な脂みたいに側面を伝い落ち、真っ白な床を取り返しのつかない「シミ」に変える。
袖口が濡れる。手首を伝って肌を汚す。
生温かい。死ぬほど気持ちが悪い。
(――あたしの愛は、いつもこうだ。)
(肝心な場所には一滴も届かず、外側を汚すだけで終わる。)
「まただ……」
「また、あたしが下手だから、あの子に届かない」
「……なんで?」
「なんであたしは、こんな簡単なことも、まともにできないのッ!!」
琥珀色の水溜りが鏡になって、ゆりえの顔を克明に映した。
髪を振り乱し、歯を剥き出しにして、透明な虚無と戦う――醜い執行人。
愛?
そんな綺麗な言葉は落ちていない。
相手の拒絶を暴力で無視して「生かす」っていう独善的な正義。
結果として床を汚すだけの、無能な執着。
ゆりえは床に溢れた薬液へ、震える指先を浸した。
生温かいぬめり。失敗の感触。
リノリウムの冷気を吸って、それが刃物みたいに研ぎ澄まされる。
カチ、カチ、カチ、カチ。
どこからか、正確無比なメトロノームが鳴り始めた。
一滴落ちるたびに、下手くそさを数える。罪を確定させる裁判官の木槌。
床の震動が、脳内で「音」へ翻訳される。
『ゴクッ……ゴクッ……』
空のベッドから、飲み込めない喉が上げる拒絶の残響が這い上がってくる。
ゆりえの手が、時間を無理やり引き延ばしていた――あの地獄の音。
「……痛い」
「腕が、折れちゃうよ」
「でも、止められない」
呟いても、両腕は離れない。
この焼き切れるような重みを失えば、自分は永遠にこの白い地獄へ射出されてしまう。
ゆりえは再び、紫に腫れ上がった指先へ全霊の呪いを込めた。
押し子の頭に血が滲む。それでも、シリンジは一ミリも動かない。
その時。
歪んだガラスの向こう側で、琥珀色の薬液が――不気味に逆流を始めた。
深夜の記憶が、剥き出しの熱量を持って、ゆりえの脳髄を貫こうとしている。
――あつい。
死を先延ばしにするための、琥珀色の毒が指を焼く。
シリンジの口が、いまの自分を――あざ笑うみたいに指し示している。
(つづく)




