第10話:運命の輪 ― 銀のボルトと断絶の螺旋 ― ⑤
視界から光が剥落し、残されたのは、内臓を素手で弄られるような不快な重力だけだった。
「……ッ、げほっ……!」
ゆりえは、灰色の砂礫に顔を埋めていた。
鼻腔を突くのは、踏み潰されたバラの死臭ではない。古い電池が液漏れしたような、粘りつく金属の腐敗臭。肺の奥まで灰が入り込み、呼吸をするたびにジャリジャリと、自身の輪郭が削れる音が脳内で鳴り響く。
切れた小指の先が、そこだけ世界の体温から切り離されたように凍てついていた。
「……どこよ、ここ。……メルミ?」
返事はない。
ただ、遠くでバギーの残骸が冷却されていく「キン……」という微かな金属音が、逃げ場のない孤独を強調している。
ゆりえは這いずるようにして上体を起こした。膝の傷口から溢れた赤黒い液体が、灰色の地面を汚していく。それを呆然と見つめる数秒。無意味な、死んだような空白の時間。
ふと、砂の中に何かが「在った」。
鈍く、銀色に光る、歪んだ一本のボルト。
車軸を支えていたはずのその鉄の塊は、臨界を超えた摩擦熱を帯び、まるで生き物の心臓のようにドクドクと拍動して見える。
「……バカね。……本当に、バカよ、あんたは」
(メルミ。あんたは最高に悪趣味な道化よ。あんな見え透いた嘘で、あたしを未来へ逃がして、自分だけ綺麗な『犠牲者』でいようなんて、自惚れるのも大概にしなさいよ。あたしを救ったつもり? 違うわ。あんたは、あたしを永遠にこの地獄に縛り付けたのよ。)
「許さない。……あたしだけを生かして、一人で格好つけるなんて……死んでも、あんたを許してあげたりしないんだからッ!!」
ゆりえは、焼けたボルトをひったくるように拾い上げた。
「チリッ」と指先の肉が焼ける音がする。だが、その痛みこそが、消えた黄金の毛並みの代わりだった。
(いいわ、この熱さだけが、今のあたしの輪郭だ。あたしは、これを離さない。あんたが無理やり握らせたこの『罪』を、一生あたしの内側で飼い殺してやる。)
ゆりえは、懐から「がま口」を引き摺り出した。
震える指で、その開口部を、まるで癒着した傷口を抉り開けるように抉開ける。
暗い奈落の底へ、銀のボルトを叩き込んだ。
「パチン」
硬質な、魂の蓋を閉じるような音。
その、残響が消えぬ瞬間だった。
(……ザリッ)
すぐ背後。至近距離で、灰を踏みしめる「意志」が響いた。
「ッ!?」
ゆりえの心臓が、肋骨の裏側を激しく打ち据える。
メルミか? いや、違う。この気配。
圧倒的な、生理的な「既視感」。
地面に落ちた自分の影に、背後から音もなく伸びてきた「別の誰か」の影が、ピタリと重なった。
全身の毛穴が逆立ち、血液が逆流するような戦慄。
刹那、この場所で、物理法則がねじ切れた。
自分がボルトをがま口へ『入れた』のと、全く同じ位相で、背後の誰かが、今しがた自分がいた場所に何かを『置いた』。
「パチン」と「ザリッ」が、一つの不協和音になって鼓膜を裏返していく。
時空の肌理が無理やり引き千切られる、吐き気を催すほどの色彩の混濁。
「……だれ……そこに、誰がいるの……ッ!」
喉を鳴らし、振り返る。
だが、そこには白濁した霧が立ち込めているだけだった。
誰もいない。誰もいるはずがない。
ただ、自分が今しがたボルトを拾い上げたはずの砂の上に、「今、誰かが置いた」かのような、生々しい窪みだけが残されている。鼻先を、懐かしい石鹸の匂いが掠めて消えた。
そして。
霧の隙間から、あの調べが滑り落ちてきた。
(……laaa…… lu-laaa……)
「……っ、あ……。……待って。待ちなさいよッ!!」
ゆりえの膝から、力が抜けた。
この音色を、あたしは知っている。
あの、白銀の聖堂で、押し花にされた囚人たちの叫びを、あたしの絶望を、すべて洗い流した、あの一筋の旋律。
ハミングは、ゆっくりと、慈しむように遠ざかっていく。
それは、今の自分よりも少しだけ低く、深い痛みの果ての静謐を湛えた、――紛れもない、ゆりえ自身の喉を震わせてきたはずの「声」。
立ち去っていく影の残響。
それが何であるか、思考が追いつく前に、細胞が恐怖と郷愁で震えだす。
振り返ることも許さず、その調べは未来の向こう側へと溶けていった。
路地裏の空気から教皇の残照が失せ、ただ寒々しい風が、がま口の口金をチリチリと鳴らした。
ゆりえは、がま口を強く握りしめた。
中には、重く、歪んだ『銀のボルト』が宿っている。
メルミを失った。赤い糸は千切れた。
けれど、この手に残った『重み』だけは、愛おしいほどの残響を、まだその手を離していないという、唯一の狂おしい証明だ。
「……行くよ。メルミ」
ゆりえは、立ち上がった。
足取りは重い。視界はまだ、灰色の瓦礫のままだ。
だが、その瞳には、自分の「罪」を燃料にして、どこまでも不条理を走り抜けるための、鋭い可能性の火花が宿っていた。
ゆりえは再び、疾走を始める。
がま口が、一歩ごとに腰で「パチン、パチン」と、孤独な軍靴のような音を刻み続けていく。
(第10話・完)




