第10話:運命の輪 ― 銀のボルトと断絶の螺旋 ― ④
「ピキ……ィ、カシャァァァァァァァンッ!!」
神の肋骨が折れたような音が、鼓膜の裏側で弾けた。
臨界点に達した銀のボルトが、ついに物理的限界を破砕し、数千の白銀の破片となって虚空へ四散した。それはもはや単なるネジの破片ではない。
空中で一瞬にして姿を変えた「白銀の時計の針」と「鋭利なメスの刃」が、ゆりえの周囲を埋め尽くす。それらは意志を持つかのように、ゆりえが握りしめていた「現在」という時間を残酷に切り刻みながら降り注いだ。
バギーのアルミフレームが、生き物のような悲鳴を上げて捩じ切れる。
その瞬間、世界から一切の重力が消失した。
凄まじい遠心力と、底から引きずり込む引力が相殺し合い、ゆりえとメルミの身体は、黒い泥の深淵の上で、コンマ数秒の「完全な静寂」に捕らえられる。
舞い上がる砂利は、滞空したまま一つ一つが精巧な真鍮の歯車へと姿を変え、宙で噛み合いながら「チク、タク」と狂った秒読みを奏で始めた。
その極限の静止の中で、二人の間に一本の「赤い糸」が奔った。
『肉塊』の闇の中で、自らの意志で結び合った、体温と心拍を分かち合うための精神的導線。今、離れゆく二人の物理的距離に引き絞られ、糸は赤から白熱した白へと色を変え、キィィィィィィィンと耳鳴りのような高音を立てて震えている。
(……ああ、そう。あたし、あの日もこの匂いを嗅いだわ)
脳漿を灼くのは、踏み潰されたバラが放つ、少し生臭い青酸のような匂い。
バギーから散った火花は熱を失い、鋭利な赤いガラスのバラへと結晶化する。それはゆりえの頬を撫で、真皮を裂いては、砕け散っていく。視界の隅で、アルミの破片が「無駄な時間」を謳歌するように、万華鏡のような幾何学模様を描きながら泥の中へと沈んでいった。
「…………ぁ」
声が出ない。視界が反転し、解体されていく「死が止まったような静寂」の中で、ゆりえは正面を見た。そこに、メルミがいた。
自分を突き放し、罵り、あんなにも冷酷に軽蔑しきったはずのメルミの顔。そこから剥がれ落ちたのは「拒絶の仮面」だけではない。露わになったのは――。あの日、自分を最後に見上げていた「あの子」の瞳、そのものだった。
哀しくて、愛おしくて。ゆりえのすべてを肯定し、許し、そして「さよなら」を強引に告げる、あまりに透明で残酷な慈愛の表情。
「……やめてよ! なんでそんな、そんな目で見るのさッ! あたしを突き放したなら、最後まで卑怯でいなさいよ!! 今さら、そんな綺麗な顔を見せるなんて……ずるいじゃないかッ!!」
ゆりえの脳内に、「冷たい指先」の記憶が、熱い電流となって駆け巡る。
メルミが吐き捨てていた言葉の毒。そのすべてが、ゆりえをこの死の回転から引き剥がし、生き延びさせるためだけに演じられた「嘘」だったことを、その微笑みにも似た表情が暴いてしまった。
「ゆり!!」
メルミの声が、崩壊する世界のノイズを掻き消して届く。
沈みゆく泥の底から、メルミが必死に喉を震わせる。
「ゆりッ!! ……あんたは、あたしの……あたしのッ!!」
ドォォォォォォォォォンッ!!
ボルトが抜けた虚無の穴から、世界の底が抜けたかのような爆圧が噴き出した。
その衝撃が最高潮に達した瞬間――。
「ブチン」
ゆりえの小指の芯から、何かが無理やり引き抜かれるような衝撃が走った。
それは糸が切れた音ではない。自分の身体の一部、あるいは魂の半身をメルミに持っていかれたような、生々しい「欠損」の感覚。
白熱していた赤い糸は中央から無残に弾け、メルミへと続く長い端が、闇の向こうへシュルシュルと吸い込まれていくのをゆりえは見た。
伝えきれなかった言葉が、宙に溶ける。
静止した時間は再び残酷な加速を開始し、ゆりえの右手から、生命線のように繋がっていたハンドルの感触が消失した。
摩擦で焼けた掌には、何も掴めなかったという虚無的な熱さだけが、呪いのようにこびり付いている。
物理法則の枷を外されたゆりえの身体は、何も持たないまま、眩い「未来」という名の白い虚無へと射出された。
「メルミィィィィィィィィッ!!」
伸ばした指先が、空を掴む。
ゆりえの視界の中で、メルミはバギーのシートごと、黒い泥の奥へと引きずり込まれていく。
最後の一瞬まで、メルミは同じ表情をゆりえに向けていた。
あたしを救うために、あたしの心をあんなにズタズタにしておきながら!
なんで、最後にあんな顔をして笑うのよ。
なんで、あたしを置いていくのに、そんな目で見んのよ……っ!!
「嘘つき……! メルミの、嘘つきーーーッ!!」
ゆりえの叫びが、砕け散る真鍮の歯車の合唱の中に響き渡る。
それは、結び直したはずの『赤い糸』さえ守りきれず、半身を捥ぎ取られた者による、やりきれない抗議だった。
視界が激しく点滅し、世界は細切れのフィルムとなって散乱する。
ただメルミが最後に残した「ゆり」という呼び声の残響と、切れた糸の断面が小指で燻るような熱さだけが、ゆりえの脳漿に消えない焼印を残していた。
バギーは死んだ。
メルミはもう、この手の届かない「底」へ消えた。
ゆりえはただ、光り輝く絶望の彼方へと弾き飛ばされ続け、「孤独」だけを残し堕ちていく。
(つづく)




