第10話:運命の輪 ― 銀のボルトと断絶の螺旋 ― ③
「ピキ……ッ、ピシィッ!!」
空間が悲鳴を上げた。銀のボルトはもはや白熱を通り越し、青白い燐光を放ちながら時計回りに捩じ切れていく。最後の一山。ネジ山が潰れるたびに、バギーのアルミフレームが「ギィィ!」と嫌な音を立ててゆりえの右腕を引き絞った。
「……あ、が……ッ! まだ、離さないッ……絶対に離さないんだからッ!!」
ゆりえの意識は、すでに混濁していた。
掌の焼ける匂い。指先から滴る鮮血が、遠心力でバラの火花の中に霧となって溶けていく。
(放しちゃダメ。これを放したら、あたしはまた、あの子を独りぼっちにする)
その強迫観念だけが、砕けそうな関節を繋ぎ止めていた。
渦の中心。
泥の底へ沈みゆくメルミの視界に、そんなゆりえのボロボロの姿が映る。
(……もう、いいのよ。ゆり。そんなに泣かないで)
メルミの喉が、細く震えた。
(あたしは覚えているわ。あの水槽の中、あんたが差し出した手の温もりを。……それだけで十分だった。それ以上に、何を望むっていうのよ)
メルミは黄金の瞳を一度だけ激しく揺らし、そして、それを「冷酷な光」へと無理やり固定した。
「……っ、ふん。ねえ、ゆり。あんた、鏡を見たことある?」
轟音を切り裂いて、メルミの乾いた声が響く。
バギーの焼けたクロームメッキのフレームに、ゆりえの顔が歪んで映る。遠心力で引き伸ばされ、汗と涙でぐちゃぐちゃになったその顔は、もはや少女のそれではなく、過去に執着する亡者の形相をしていた。
「……え……?」
「必死すぎて、見てられないわよ。……あんたが後生大事に抱えてるその『あの子』への愛とやら。……もしあたしがあの子だったら、今のあんたを見て、心底反吐が出るわね」
「……っ!! なに、を……」
ギィィィィィィィィ!!
耳を劈く金属の摩擦音が、ゆりえの反論を圧殺する。中心軸でバギーのフレームが雑巾のように絞られ、ゆりえのすぐ足元から、底なしの『黒い泥』が意思を持って這い上がり、彼女の爪先を腐食させていく。
「自惚れないでよ! 自分の罪悪感(酔い)を冷ますために、あの子を鉄屑に使って……。あの子が本当に望んでいるのは、あんたが腕を腐らせながら泥の中で一緒に死ぬことだと思う? 笑わせないで。……そんなの、あの子に対する最低の『侮辱』だわッ!!」
「やめて……メルミ、やめてよッ!!」
ゆりえの絶叫。
だが、メルミは沈みゆく闇の中から、さらに残酷な追い打ちをかける。
「……わかったら、さっさとその手を放して、独りで勝手に走りなさいよ。……あたしは、あんたといるのに、もう飽き飽きしたの。……消えてよ。あたしの視界から、あんたなんて、消えなさいッ!!」
叫ぶメルミの黄金の瞳が、一瞬だけ激しく明滅した。それは剥き出しの憎悪に見えて、その実、過負荷で今にも砕け散りそうな、限界を超えた慈愛の火花だった。喉が震え、吐き出した言葉の毒が、メルミ自身の心臓を切り裂いていく。
「……っ、あ……」
ゆりえの心臓が、一瞬、停止したかのような錯覚。
ハンドルから伝わっていた「熱」が、急速に凍りついていく。
メルミの言葉は、ゆりえの聖域――「あの子を救いたい」という唯一の生きる理由を、内側から徹底的に蹂躙した。
信頼していた。メルミなら、この苦しみを共有してくれると信じていた。
なのに、彼女は「あの子」の立場を騙り、ゆりえの愛を「反吐が出る」と断じた。
「……嘘。嘘よ。メルミ……嘘、だよね……?」
ゆりえの視界が、涙で白く濁る。
遠心力で引き伸ばされた世界の中で、メルミの顔だけが、遠く、冷たく、手の届かない場所へと沈んでいく。
「……あーあ、せいせいするわ」
メルミは、最後に一度だけ、黄金の瞳を細めた。
その瞳の端に、決してゆりえには見えない、一滴の熱い光が滲んだのを、轟音と火花が隠した。
(さよなら、ゆり。……)
「……ぁ……」
ゆりえの指先から、力が抜ける。
愛していたものに、もっとも残酷な形で自分を否定された空白。
その「拒絶された瞬間」を待っていたかのように、銀のボルトが最後の螺旋を捩じ切った。
ピキィィィィィィィィン!!
時計回りに限界まで回ったボルトが、高周波の閃光を放ち、空へ向けて弾け飛ぶ。
二人の間に、取り返しのつかない断層が走った。
(つづく)




