第10話:運命の輪 ― 銀のボルトと断絶の螺旋 ― ②
「あ……がっ……、あああああッ!!」
衝撃が、ゆりえの脳漿をかき回す。
ハンドルを握る両腕には、ダンプカーに衝突したかのような猛烈なトルクが襲いかかっていた。バギーは前進を止め、その場で火花を散らしながら猛烈な自転を始めている。それは「歩む」ための道具であることをやめた、巨大な銀色の独楽だった。
キィィィィィィィィィン!!
車軸を貫くたった一本の『銀のボルト』が、もはや音とは呼べない高周波を上げ、摩擦熱で白銀に輝いている。ハンドルのビニールグリップが溶け出し、ゆりえの指の腹に熱い泥となって吸い付いた。
「熱い」という感覚すら、脳に届く前に次の振動に塗りつぶされる。
だが、本当の地獄はその先にあった。
猛烈な回転が見せる情景は、四輪のタイヤが削り取る地表から、あの日、あの子の散歩を汚した『黒い泥』が、意志を持つドロドロとした液状の闇となって溢れ出してきたのだ。
「地面なんて、あたしが蹴り飛ばしてやるわよッ!! 空っぽなら、どこまでだって飛んでいけるんだからッ!!」
ゆりえの叫びは、虚空を蹴る靴の空しさに掻き消された。もはや地表は、彼女を支えるための土台ではない。猛烈な遠心力で宙へと投げ出されたゆりえの体は、ただハンドル一本の質量にぶら下がり、光の渦の中を振り回されている。
下方で渦巻く『黒い泥』は、意志を持つ喉となって、宙を泳ぐ彼女の爪先を今にも舐めとらんと這い上がってくる。
チク、タク、チク、タク。
砂利がアルミフレームを叩く音は、何万個もの古い時計が狂ったように時を刻む合唱へと書き換えられ、ゆりえの平衡感覚をズタズタに切り裂いていく。
渦の中心。
回転の「軸」にいるメルミは、猛烈な引力(G)によってバギーのシートへと押し潰されている。
メルミが座るシートの真下は、この世界から切り離された絶望の陥没穴――現実の裏側へと通じる消失点に変貌している。
そこには、周囲へ弾き飛ばす力など一ミリも存在しない。中心軸へ、深淵へ、すべてを圧縮して叩き込もうとする狂気的な引力だけが荒れ狂っていた。
「……っ、ぁ……!」
メルミは抗おうとした。だが、その身体は巨大な鉄の掌で押し潰されたかのように、バギーのシートに縫い付けられている。黄金の毛並みは重力の圧力で不自然にへりくだり、四肢は鉛を流し込まれたかのように重い。前足一本動かすことさえ許さない絶対的な「停止」の重圧。
バギーそのものが砂利を掘り下げるドリルとなり、メルミだけを連れて、この世界から退場しようとしている。
「メルミッ!! 勝手に一人で、あっち側へ行かせたりしないんだからッ!!」
ゆりえは叫ぶ。自分だけがこの虚無の縁に残され、メルミという「熱」だけが自分の宇宙から消えていくことへの、根源的な恐怖。
だが、メルミにできることは、ただ一点を見つめることだけだった。急速に遠ざかり、闇の底へと沈降していくバギーの座面で、メルミは自由を奪われたまま、ただその黄金の瞳に、必死で自分を呼ぶゆりえの姿を焼き付けていた。
指先の皮がズルりと剥け、露出した真皮がハンドルの熱い鉄に焼き付く。激痛はもはや「愛」の代替品だった。これを放してしまえば、この『黒い泥』の底へメルミも、思い出も、あの子も、すべてが飲み込まれて二度と戻らない。
ゆりえの視界の中で、世界の輪郭が解けていく。砂利はあの子の抜け殻(毛並み)になり、火花は腐りかけた果実の匂いを放ちながら、彼女の意識を濁らせる。
「……っ、ゆり……ッ!」
轟音の隙間、沈みゆくメルミの口が、初めて苦しげに動いた。
だがその声は、白熱した銀のボルトが放つ「ピキッ」という不吉な亀裂音にかき消される。
見てしまった。
中心で回転を支える銀のボルト。その頭が、猛烈な負荷に耐えかねて時計回りに「一歩」分だけ、不気味に緩んだのを。
「……あがっ、ああああッ!! こんなんで終わらせるもんですかッ!!」
ゆりえの指先から、爪が剥がれるほどの力を込めた抵抗を嘲笑うように、ボルトは「世界の終わり」を告げるカウントダウンを開始した。
このネジが完全に外れた瞬間、バギー(思い出)はバラバラになり、メルミは闇へ、ゆりえは虚空へと永遠に分断される。
その「絶望の予感」が、焼けるような振動を伴ってゆりえの腕から心臓へと駆け上がった。
銀輪の回転はさらに速度を上げ、もはや二人の間に躊躇する余地は一ミリも残されていなかった。
(つづく)




