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第10話:運命の輪 ― 銀のボルトと断絶の螺旋 ― ①



世界は、白く、速かった。

掴み取った黄金の残光を背負い、ゆりえは風そのものになっていた。がま口の中で『投薬記録』が微かに鳴る。それはもはや彼女を縛る鉄鎖ではなく、大地を蹴るための推進力へと変わったはずだった。


だが、その「完璧な疾走」に、亀裂が入る。


――脳髄の裏側で、キィィィィィィィィィン!!と音がした。

自ら「重すぎる」と閉じたはずの、バラ園の極彩色が、唐突に網膜にノイズとなって走り抜ける。


「……なによこれ! あたしはもう、あの重たい鉄屑アンカーを飲み込んだのよッ! 今さら、誰がこんなバラのノイズを流していいって言ったのさッ!!」


ゆりえは叫んだが、自分の声が、急激に重みを増した空気に吸い込まれていくのを感じた。

風が、変わる。

清冽だった空気の粒子が、ザラザラとした「砂」の質感に書き換えられていく。


「ジャリッ」


足元で、音が鳴った。

白い余白だったはずの道が、唐突に実存の牙を剥く。一歩踏み出すたびに、ズブズブと沈み込むような、あの不快な摩擦。

坂道だ。

あの子を乗せて、毎日、毎日、腕の筋肉を震わせて押し上げた、あの急な砂利道。


風の匂いが消える。代わりに立ち込めるのは、雨上がりの土の生臭さと、どこか遠くで誰かが燃やしているゴミの煙、そして――。

脳が焼き切れるほどの、バラのせ返るような香り。


「ハァッ……ハァッ……、メルミ、止まらないで。あたしたち、まだ走れる……走れるはずでしょ!?」


ゆりえは虚空を掴むように腕を振るが、脚が鉛のように重い。

砂利の向こう側、セピア色の霧を割って、「それ」が姿を現した。


そこにあったのは、あのバギー(乳母車)だった。

アルミのフレームはくすみ、日焼けした布製のシートは、あの子の体温を記憶したままたるんでいる。細いタイヤには、あのバラ園へ行った日の、黒い泥がこびりついていた。

それは「思い出」なんて生易しいものではない。

ゆりえの日常を構成していた、あまりに物質的な、逃れようのない「現実」の塊だった。


「……ふん。やっと来たわね。少し、歩き飽きていたところよ」


半歩前を走っていたメルミが、躊躇ためらいもなくその銀輪のフレームへと近づく。そこにあるのが「当然」であるかのように、彼女は慣れ親しんだ足取りでステップに前足をかけた。彼女はごく自然に、眠りに就く前の儀式のように、使い古されたシートの上で身を丸めようとした。


「触らないでッ!!」


ゆりえの喉から、生理的な拒絶が弾け飛んだ。


「……そこは、あんたの場所じゃない! そこは……もっとふわふわして、消えちゃいそうな、あたしの大事な子がいた場所なんだからッ!!」


そこまで言って、ゆりえは絶句する。

誰だ。あそこに座っていたのは、誰だ?

バラ園の赤は、こんなにも鮮明なのに。

あの子を乗せて、坂道を押し上げた時の、肩の痛みはこんなにもリアルなのに。

バラ園から帰って、あたしはあの子をバギーから降ろして、それから――。

その「次」を思い出そうとすると、脳内に鋭い高周波のハウリングが走り、意識が白濁する。


メルミはぴたりと動きを止め、不審げに首を傾げた。その黄金の瞳が、「何を馬鹿なことを言っているの」とでも言いたげにゆりえを射抜く。そのあまりに当たり前すぎるメルミの振る舞いが、ゆりえには耐え難かった。あたしの大切な「あの子」の聖域を、得体の知れないメルミが奪おうとしている。


「降りなさいよ、メルミ! あんたはあたしの『相棒』でしょ!? なのに……どうして、そんなに当たり前の顔をして……」


そこまで言いかけ、掌が、勝手にバギーのハンドルを探している。

腕が、その重みを覚えている。


ああ、そうだ。あの日のバラ園。太陽は残酷なほどに暖かくて、あの子はもう、あたしの呼びかけに耳を動かすことさえできなかった。ぐったりと横たわる、羽毛のような重み。あたしはただ、あの子に見せる景色がこれ(バラ)でいいのかと、それだけを自分に問い続けながら、砂利を蹴っていた。あたしがしていたのは、祈りだ。


あの子の時間が、このままバラの色彩の中に溶けて止まってしまえばいいと、そう願うだけの、独りよがりな散歩。


指先がハンドルに触れた瞬間、ゆりえは息を呑んだ。 掌から伝わってきたのは、あの子の柔らかな温もりではない。 心臓まで凍りつかせるような、機械仕掛けの、冷徹な「銀色の冷たさ」だった。


視界が、火花の色に染まる。

ハンドルを握る両腕に、ダンプカーに衝突したような猛烈な衝撃が走った。


「がっ……あぁッ!?」


バギーの車軸を貫く、たった一本の『銀のボルト』。 それが、狂ったような回転摩擦で白銀の光を放ち、高周波の悲鳴を上げ始めた。


キィィィィィィィィィン!!


振動はハンドルを伝い、ゆりえの鎖骨を打ち鳴らし、脳漿を直接かき回す。 愛おしかったバギーの車輪が、回転の果てに形を失い、銀色の巨大な『鋸刃のこぎりば』へと変貌していく。


ジャリジャリジャリッ!!


砂利を散弾のように撒き散らし、地表を削り取りながら、それは「散歩」の道程を、逆行する『運命の歯車』へと書き換えていった。


思い出せ。

バラ園から帰った、その後の、静かな夜のことを。

探し続けろ。

がま口が、パチンと閉まる、あの音を。


ボルトの振動は、ゆりえの腕を伝い、骨を軋ませ、脳を直接揺さぶる。

幸せだったはずの「わだち」が、今、絶望的な螺旋となって、二人を別々の地平へと引き裂きにかかる。


「……やめて。あたしはまだ、あの日から……バラの匂いから、離れたくないんだッ!!」


ゆりえの叫びは、加速を始めた銀輪の轟音にかき消された。


(つづく)



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