第9話:隠者 ― 掠れた投薬記録と空洞の灯火 ― ③
老人のランプが、黄金色の残光を放つ。
その光は、もはやゆりえを検体として照らすのではなく、彼女の魂の「核」を炙り出すための、穏やかな熱を帯びていた。
老人は、動かない。
ただ、その腕だけが、闇の中から無言のまま突き出されていた。
骨と皮だけになったような、干からびた指先が、一束の紙片をゆりえに差し出している。
「……これは……?」
ゆりえは、震える手でそれを受け取った。
瞬間、ゆりえの腕の筋肉が断裂を訴えるような悲鳴を上げ、膝がガクンと折れた。
ドサッ。
紙の束のはずだった。厚さにして数センチ。重さにして数百グラム。
だが、ゆりえの掌に乗ったそれは、「鉄塊」だった。
あるいは、彼女が自ら切り離し、捨て去ったはずの「記憶の質量」そのもの。
「……なによこれ! 重いよ! あたしの腕を折るつもり!? こんなの……こんなの、あたしが一人で持てるわけないじゃないッ!」
ゆりえは両手でその「重力」を抱え込み、石の床に膝をついたまま、呻き声を上げた。
これが、紙? 違う。これは、あの子の命の重さだ。
あの子の一分一秒を繋ぎ止めていた、あの深夜の、吐き気がするような「責任の総量」が、文字となって掌に沈み込んでくる。
掠れたインク。涙で滲んだ文字。
ペン先が紙を突き破った、黒いクレーターのような痕跡。
『ごめんね、ごめんね、ごめんね、』
冷徹な数字の羅列の間に、剥き出しの脊髄が震えるような「記憶の断片」が、失われた回路を繋いでいく。
「……、この『ごめんね』は……。 あたし、これを『管理』だなんて冷たい言葉で冷やしてなきゃ……焼け死んでたんだッ! だったら、この重さを全部あたしが飲み込んでやるわよ! 空っぽだって言うんなら、これ全部、あたしのものなんだからッ!!」
彼女は、自分が抱えていた「空洞」の正体を悟った。
それは、欠落ではなかった。
重すぎて、熱すぎて、一人では持ちきれなかった記憶を、再び引き受けるために用意されていた魂の「器」だったのだ。
「……重い。重いよ、これ! でも、収まるじゃない! あたしが空っぽだったのは、この重さを二度と放さないためだったんだッ! だったらいいわよ! 全部、あたしのわがままなんだ!!」
ゆりえは、よろめきながら立ち上がった。
腕は痺れ、全身が鉛のように重い。だが、その重さは、もう「罪」ではなかった。
それは、少女がたった一人で世界と戦い抜いた「誇り(プライド)」という名の重力だった。
ゆりえは、震える指先でがま口を開いた。
そして、その『掠れた投薬記録』を、まるで自分の心臓を戻すようにして、がま口の中へと滑り込ませた。
パチンッ!!
その乾いた音が、世界の空気を一変させた。
洞窟内に反響していた、ゲラゲラという嘲笑が消える。
肌を切り裂いていた鋭利な紙片の吹雪が、音もなく、ただの柔らかい綿雪へと変わり、ゆりえの頬で溶けていく。
消毒液の臭いは消え、代わりに、雨上がりの土のような、清冽な夜明けの匂いが満ちた。
ゆりえが顔を上げると、そこにはもう、老人の姿はなかった。
ただ黄金の残光だけが、出口を指し示すように揺らめいている。
「……ねえ、メルミ。あたし、あんな風にしか、あの子を抱きしめられなかった……」
ゆりえは、鼻を赤くしながら、隣に立つ相棒を振り返った。
「管理なんて言葉の裏に隠れてなきゃ、あたし、自分が焼き切れるのが怖かったんだ……。 あたしはずっと、あの子を計算機にして……そうしなきゃ、あの子の隣にさえいられなかったんだ……」
メルミは、ふいっと鼻を鳴らした。
彼女はいつものように、少しだけこちらを小馬鹿にしたような、ドライな矜持を湛えた瞳でゆりえを見上げている。
「いつまで浸ってるんだか」
黄金の瞳が、皮肉を込めて細められる。
「愛だろうが管理だろうが、あんたがあの夜、その重さに耐えて手を離さなかった。それだけで十分じゃない。パルプのゴミに定義されるまでもなくね」
メルミは前脚で、床に散らばったレシートの残骸を「無価値なゴミ」として無造作に蹴散らした。
「腕が千切れる前に、その「重い記憶」を運ぶ脚を動かしたらどう? 錨を手に入れたんなら、次はもう、嵐の中に突っ込むしかないんじゃない?こっちは、もう走る気満々なんだけど」
ゆりえは、涙と泥でぐちゃぐちゃになった顔を拭い、小さく、けれど不敵に笑った。
「……ええ、そうね。もういいわ。自分の形を言い当てるなんて、あたしの仕事じゃないもの」
ゆりえは、重くなったがま口をしっかりと握りしめた。
その重さは、もう彼女を押しつぶす鎖ではない。
大地を蹴り、不条理の世界を駆け抜けるための、揺るぎない「座標」だった。
「行こう! あたしの空洞を、とんでもない重さで埋め尽くして……世界ごと、あたしのわがままで引きずり回してやるんだからッ!!」
二人の影が、光の射す出口へと向かう。
そこには、孤独を智慧に変え、過去を武器へと鍛え直した者だけが持つ、泥臭くも力強い疾走感が刻まれていた。
(第9話:完)




