第9話:隠者 ― 掠れた投薬記録と空洞の灯火 ― ②
「何よッ! あんた、あたしを顕微鏡の『検体』か何かだと思ってるんでしょ! 黙って見てれば、あたしが勝手に罪悪感を吐き出すとでも思ってるの!? 自惚れないでよ!!」
ゆりえの声は、湿った火薬のように洞窟の壁を叩く。
老人は答えない。フードの闇の奥から、掲げたランプの微かな揺らぎを通して、執拗に、かつ無機質にゆりえを「観察」し続けている。
その視線は、感情というノイズを拒絶している。魂の深層にこびりついた『逃避』を、光のピンセットでつまみ上げ、永遠の静寂へと固定する智慧の焦点だった。
「光に隠れて、あたしの醜いところばっかり透かして見て……!」
ゆりえは老人の胸ぐらを掴もうと飛び込んだ。だが、指先は冷たい霧を裂いて空を切る。老人の質量はそこにはなく、ただランプの光だけが、ゆりえの細い手首を執拗に追う。
「卑怯だわッ! だったら言いなさいよ! あたしはあの子の数字と秒針を回すだけの、ただの歯車(標本管理者)だって! 聖者みたいな面して黙ってないで、そう叫んだらどうなのさッ!!」
老人は、やはり答えない。
ただ、手にしたランプをゆっくりと、スポットライトのように動かした。
その光軸が、洞窟の壁に刻まれた「ある一点」を射抜く。
『副作用:震え。止まらない。ごめんね、ごめんね、ごめんね。』
文字以前の、のたうち回るような執念。ペン先が紙を突き破った黒いインクの染みが、そこにこびりついた乾いた塩の跡が、光の下で生々しく隆起する。
「やめてよッ!……見ないで!そこは、あたしが一人で……あたしの『情けなさ』を許してもらうための、あたしだけの場所なんだからッ!!」
老人の沈黙は、鋭利な鏡だ。
ゆりえが自虐で塗り固めた「冷酷な管理者」という防壁を、言葉ではなく、彼女自身が残した「震え」の記録で抉り出していく。
その時、洞窟の入り口を包囲していたレシートの吹雪が、一際下卑た高周波のノイズを上げた。
一枚の細長い領収書が、メルミの鼻先を掠めるように滑り、腐った水のような声を上げる。
『ゲラゲラ! 見なよ、この投薬記録! どこにも「愛」なんて印字されてないじゃないか! あんたが愛していたのは、あの子じゃない。「管理している自分」という数字だろう!?ゲラゲラ!』
メルミの背中の毛が、一気に逆立った。
導き手としての沈黙。世界の座標としての平穏。それらすべてが、一瞬で沸騰し、弾けた。そして、彼女の喉から、理性を焼き切った「言葉」が噴出する。
「黙れえぇぇぇッ!!!」
洞窟が揺れた。メルミの咆哮は、物理的な質量を伴って壁を叩き、床に積もった紙片たちを粉微塵に吹き飛ばす。
「……パルプ(紙切れ)ごときが、この子の焼けるような『熱』を、メンテナンスなんて言葉で汚すんじゃないッ!!」
ゆりえは、その衝撃に耳を塞ぎ、目を剥いた。
それは、あの深夜の暗闇で、少女がたった一人で燃やし続け、誰にも見せなかった「執念」への、全霊の肯定。
ゲラゲラと笑っていた風の音が、悲鳴を上げて消えていく。
メルミは肩で激しく息をしながら、鋭い瞳でゆりえを、そしてランプを掲げる老人を睨み据えた。
「何をしてるのよ、ゆりえ! 自分の火を、データの羅列なんかに消させてやるんじゃないわよ!!」彼女の黄金の瞳が、そう語っていた。
「……あたし……」
ゆりえの胸の「空洞」に、逆流するように熱い血が流れ込んでくる。
自分が「醜い計算」だと思っていたあの時間は、この相棒にとっては、何物にも代えがたい「闘争の記憶」だった。
老人は、初めてランプをゆっくりと下ろした。
嘲笑っていたレシートの山は、メルミの咆哮によってただの「無機質なゴミ」へと成り下がり、無造作に床へと散らばっている。
「……あんた、あたしのために怒ってくれた?」
ゆりえの声に、もう「迷い」という名の贅肉はなかった。
洞窟の奥で、カチッ、と何かが噛み合う音が響く。
隠者の沈黙が、今度は穏やかな「受容」へと色を変え、ランプの火が黄金に輝き出した。
(つづく)




