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第9話:隠者 ― 掠れた投薬記録と空洞の灯火 ― ①



「行くわよ、メルミ!」


踏み出した一歩は、白磁のような「余白」を砕く確かな衝撃だった。

がま口の中で『不滅の膠』が鼓動のように跳ね、喉の奥にはまだアイソを罵倒した時の熱が焦げ付いている。あたしたちは走れる。このまま、不条理の壁をすべてぶち抜いて。


だが、その「熱」を嘲笑うかのように、世界の解像度が急激に剥落していった。


「……え?」


視界が、白濁したノイズに飲み込まれる。

疾走するゆりえの頬を叩いたのは、風ではない。それは、意志を持った「無機質な鱗」の群れだった。

空から降り注いでいるのは雪ではなく、細かく、執拗に、機械的に裁断された「領収書」や「薬の説明書」の破片。数万という紙の刃が、凍りついた突風に煽られ、旋回する剃刀の渦となってゆりえの肌を削りにくる。


カサッ。


微かな、けれど鼓膜に刺さる嫌な音。

薄氷のような紙の角が、ゆりえの皮膚を「ピッ」と、外科手術のメスさながらに切り裂いた。

黄金の疾走感は一瞬で霧散し、代わりに鼻腔を突いたのは、刺すような消毒液の匂いと、古いインクが酸化した死の臭い。


『クスクス……』

『ゲラゲラ、ゲラゲラ!』


風の咆哮が、下卑た嘲笑へと変質していく。

舞い散るレシートたちが空中でパクパクと「口」を開き、印字された「ステロイド」「¥45,000」「副作用」といった無機質な文字列が、生理的な嫌悪を伴って蠢いた。


『見てよ、あの標本箱の番人を!』

『愛を語る口で、あと何錠いくら残っているか数えていたんだって!』

『「残り3錠」? 「次は6時間後」? ゲラゲラ! あんたがやっていたのは祈りじゃない。ただの在庫管理メンテナンスじゃない!』


「……勝手なことを! 誰が、あんたたちにそんなの見せていいって言ったのよッ!!」


耳を塞いでも、紙片の笑い声は脳髄に直接書き込まれてくる。

たった一人の少女が、暗い部屋で、誰にも代わってもらえない責任という名の毒を煽りながら、数字の羅列と戦っていたあの夜――その孤独を、紙片たちは「冷酷な事務作業」と定義し、彼女の誇りを泥で塗り潰そうとしていた。


「ハァ、ハァ……! メルミ、どこなの!? 世界が、世界がカサカサうるさいのよ!」


視界を埋め尽くすレシートの吹雪。

その先に、口を大きく開けた黒い陥没――氷のように冷たい、岩肌が剥き出しになった洞窟の入り口が現れた。

吸い込まれるように飛び込んだその場所は、さらなる「静かなる地獄」の標本箱だった。


洞窟の壁一面。

そこには、ゆりえ自身の震える筆跡で綴られた「闘病記録」が、古い血文字のように脈打っていた。


『2:00 投与。反応なし』

『4:30 呼吸数増加。もう、お金が足りない』

『副作用:震え。あの子の目が、あたしを責めている気がする』


壁から漂うのは、清潔という名の絶望。

生を無理やり繋ぎ止めようとする執念が放つ、ホルマリン漬けの祈りの匂い。


「……やめてよ。見せないで。あたし、もう計算なんかしたくない!」


ゆりえは膝を突き、壁の文字から目を逸らした。

だが、その視線の先には、メルミがいた。

彼女は、洞窟のさらに深い、光さえも凍りつくような闇の奥を、低い姿勢で凝視し続けている。


メルミは、一切喋らない。

ただ、喉の奥から漏れる不規則で重たい吐息だけが、閉ざされた空間で唯一の「生きたメトロノーム」として、ゆりえに現実という名の秒針を刻み続ける。


「……メルミ。あんたまで、あたしを無視するの? 透明な標本にして、眺めてるだけなの?」


メルミは答えない。ただ、指先に絡みついた赤い糸が、グイッと、指を千切らんばかりの力で引かれた。

「自分の影を数えろ」――そんな、言葉を超えた冷徹なまでのナビゲート。


「……ひどいよ。あたしが、あの時どれだけ……ッ!(あの時?)」


ゆりえの独白は、洞窟の壁に反響し、鋭利な刃となって自分へと返ってくる。 誰にも届かなかった祈り。誰にも見せなかった計算書の裏の涙。 深夜の静寂の中で、少女が背負わされた「命の重さ」を、世界はただの「投薬記録データ」として、ゲラゲラと笑い飛ばそうとしていた。


その時、洞窟の奥から、一つの小さな光が近づいてきた。 カチッ、カチッ。 凍った地面を叩く、骨のように白い杖の音。


「……誰? 誰かいるの?」


ゆりえが顔を上げた。 そこには古びたランプを掲げ、顔が見えないほどフードを深く被った老人が立っていた。 光は小さく、頼りない。 だが、その光が真っ先に照らし出したのは、壁に刻まれた「絶望的な数字」と、そこに醜く震えるゆりえ自身の影だけだった。


「……。……何とか言ったらどうなのさ!」


老人は答えない。石像のように動かず、ただランプの炎を揺らしている。 その無言の佇まいに、ゆりえの胃のあたりがキュッと縮み上がる。


自分の醜さを黙って見つめ続ける「得体の知れない観察者」。


その名を呼ぶ代わりに、外を舞うレシートの吹雪が、さらに下卑げびた歓声を上げて洞窟の入り口を包囲した。


『ゲラゲラ! 孤独な夜の答え合わせをしようよ、お嬢さん!』

『あんたの「熱」は、この管理記録メンテナンスログより本物だって、証明できるかな!?』


ゆりえの精神が、紙片の角で刻まれるように悲鳴を上げる。 「走り続ける」と誓った少女の前に立ち塞がったのは、他ならぬ自分自身の、冷たく凍りついた記憶の墓標だった。



(つづく)

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