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第8話:力 ― 不滅の膠と張り子の獅子 ― ①



「ポスン」


あまりに間の抜けた、柔らかい衝撃。


ゆりえが恐る恐る目を開けると、そこには不自然なほど穏やかな黄金色の芝生が広がっていた。さっきまでの殺伐とした真空、鼓膜を抉り取るような摩擦音が嘘のような、春の昼下がりを思わせる温かな木漏れ日。


しかし、ゆりえの心臓は「戦車」の熱を帯びたまま、肋骨の檻を突き破らんばかりに暴れていた。視界が歪む。内臓がひっくり返るような虚脱感と、生き延びてしまったことへの情けなさが、喉の奥まで苦くせり上がってくる。


「……あ、」


乾いた唇から、掠れた音が漏れた。彼女は、髪を逆立て、血走った目で、自分の腕の中で平然と前足の毛繕いを始めたメルミを睨みつけた。この小さなフレンチブルドッグは、地獄の轍を駆け抜けた直後だというのに、まるで昼寝から覚めたばかりのように無機質な黄金の瞳を輝かせている。


「……いい加減にしろって言ってるでしょ! あんたが、あたしのソファーをっ、あたしの居場所を焼いたんだからね!」


ゆりえの絶叫が、庭園の静寂を切り裂いた。だが、メルミは顔を上げず、丁寧に肉球の間の汚れを舐め取ると、鼻を短く鳴らして言い放った。


五月蝿うるさいわね。命の値段を布切れ一枚と等価交換バーターにしてあげたのよ、感謝しなさいこのピノコ」


「ピノコって誰だよ! メルミのバカ!」


ゆりえはメルミの両脇を掴み、狂ったように前後に揺さぶった。メルミの平べったい顔がガクガクと揺れるが、その視線は既にゆりえを通り越し、前方の「異物」を捉えていた。


その時、ゆりえは生理的な違和感に身を震わせた。膝に触れている芝生に、生命の湿り気が一切ない。


カサッ、クシャッ。


動き直すたびに、足元から乾いた、何かが折れるような不快な音が響く。よく見れば、黄金の芝生は細かくシュレッダーにかけられた黄色い色画用紙の集積だった。


見上げる木々の幹は茶色のクラフト紙、葉は千代紙。空に浮かぶ雲さえ、くしゃくしゃに丸めたティッシュペーパーを貼り付けたような、あまりに軽薄で脆い、「紙」の世界。


鼻を突くのは、古い図書館の地下で嗅ぐような、えた澱粉糊でんぷんのりの匂いだ。


「なによ、ここ……なんなのよ!」


「……ああ、もう。なんてこと。最悪だわ」


すぐ傍から、深いため息とともに投げやりな声がした。

数メートル先で、白いエプロンをつけたお姉さんが、巨大な裁断バサミを握りしめたまま、泣きそうな顔でこちらを睨んでいた。


「な、なによ。あんた誰?」


「……せっかく穏やかな『自制』の時間を過ごしていたのに。あんたたちがそんなドロドロした未練の熱を持って降ってくるから、この子に火がついちゃったじゃない」


お姉さんがハサミの先で示したのは、彼女の隣に鎮座する、劇画調の濃い顔を段ボールに描き殴った巨大な獅子の張りぼてだった。

首からはクレヨンで「がおー」と書かれた札を下げ、胴体は古新聞が詰まった米袋のように歪んでいる。だが、その絵具で塗られた眼光だけは、射抜くような威圧感を湛えていた。


「この子……、普段はただの大人しい張りぼてなの。でも、あんたたちみたいな『制御不能なノイズ』が来ると、自分が本当の王様になったと勘違いして、抑えが効かなくなるのよ! どうしてくれるのよ、私の糊付けが剥がれちゃうじゃない!」


お姉さんの愚痴を無視するように、張り子の王、アイソが重々しい声を発した。動くはずのない段ボールの顎が、ギギギと不気味に軋む。


「——黄昏のパルプに包まれたこの『コロニー』へようこそ。私はアイソ。地球の重力ならぬ、未練の重力に魂を引かれた人類の業を現像する者だ。 お嬢さん、そしてそこの黄金の獣よ。諸君らも『若さゆえの過ち』を認め、真の目覚めを得るための『力』が欲しいとは思わないか?」


ゆりえが「はあ?」と間抜けな声を出すより先に、メルミの様子が一変した。


「フガッ……フガッ!!」


メルミがゆりえの腕からすり抜け、カサカサと鳴る紙の芝生に着地する。

その瞬間、彼女の野生のスイッチが入った。広大な平原(紙製だが)、そして自分を挑発する巨大な獣。メルミは四肢を突っ張り、後脚で紙の芝生を激しく蹴り上げた。


バササッ! と黄色い紙吹雪が後方に舞う。メルミの低い重心はさらに地面に沈み込み、耳は後ろに完全に寝かされ、白目が剥き出しになる。後ろ足を何度も蹴り上げる予備動作、爆発的な興奮状態の予兆――「ロケットダッシュ」の構えだった。


「メルミ!? ちょっと、あんた何するつもり――」


ゆりえの制止は届かない。メルミの後脚の筋肉が岩のように硬直し、お尻が小刻みに左右に振れる。理由なんてない。ただ、この開放感とアイソの不遜な態度が、彼女の本能を沸騰させたのだ。


「フゴーッ!!」


爆発。メルミは一直線にアイソへと突進した。肉の弾丸が紙の世界を切り裂き、黄金の塵を巻き上げる。


ズザザザザザッ!!


メルミの加速は紙の地を無様に蹴り散らし、アイソの側面に無遠慮に叩きつけられた。


バリッ、ベコォッ。


空っぽの段ボールがひしゃげ、無理な折り目がつく情けない音が、穏やかな箱庭に不快なノイズを撒き散らす。だが、アイソの描き殴られた表情には、明らかな強がりの笑みが浮かんでいた。 激突の衝撃を、風に吹かれたようにヒラリと数ミリだけ不自然に逃がした「ふり」をして――アイソは、ひしゃげた脇腹を無視したまま、優雅に(実際はガタガタと震えながら)直立し直した。


「当たらなければどうという事は無い。……と言いたいところだが、今の衝撃で私の自尊心プライドが数ミリほどズレたようだな。 だが、所詮は獣の突撃。段ボールの装甲を削ったところで、私の理想フォルムを貫くことなど出来んというものだ」


黄金の紙屑が舞い落ちる中、張り子の王は、傲慢な余裕を漂わせて言い放つ。


「いや、めちゃくちゃ当たってるしっ!!」


メルミの熱に当てられたゆりえの喉から、叫びが弾け飛んだ。 思考ではない。指に食い込む赤い糸を通じて、メルミの野生の心拍がトクトクトク!と暴力的なまでの熱を持って流れ込んでくる。その獣の鼓動がゆりえ自身の心音と共鳴し、沸騰した怒りとなって肺を焼き尽くす。


目の前のアイソが放つ、インクの匂いのする傲慢さに、全身の毛穴が逆立っていた。


「あんたなんてただの紙じゃない! そんな偉そうな言葉で自分の薄っぺらさを誤魔化しちゃってさ!」


「てか、メルミ! この張りぼて何かムカつく!」


ツボに入ったゆりえの咆哮に呼応するように、メルミの鼻息がさらに激しさを増す。 加速の熱は冷めていない。むしろ、この軽い世界を焼き尽くさんと、赤い糸を通じてゆりえとメルミの激情が混ざり合い、膨れ上がっていく。


「フゴッ、フゴーッ!!」


メルミが再び紙の地を蹴る。 次は掠めるだけでは済まない。ゆりえの「生理的な怒り」というガソリンを注がれたロケットダッシュが、再び黄金の庭を切り裂いた。


(つづく)




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