第7話:戦車 ― 磁器の音叉と火花散る未練の轍 ― ③
速度は、ついに時間の喉元を掻き切った。
磁器の平原を削り取る家具たちの叫びは、もはや単なる摩擦音ではない。それは空間そのものを引き裂き、震わせる「破壊の律動」へと変質していた。ゆりえが執着と共に引き摺り続けてきたソファー、脚の折れたテーブル、思い出を飾った額縁たち。それらが磁器の表面を狂暴に抉り、刻み込む「未練の轍」は、純白の世界に残酷で黒々とした亀裂を走らせる。自分の過去が、世界の皮膚を剥ぎ取り、内臓を露呈させていくような吐き気。
「あつい……っ、メルミ、もう、あたしの指が、糸が燃えちゃうよ!」
「黙りなさい! 逃げれば昨日が追いかけてくる、突き進めば今日が燃え上がる。それだけの理屈でしょ!」
腕の中のメルミは、四肢をデタラメに硬直させ、泡を吹きながらも、その声には痙攣の濁りすら消し飛ばすような鋭い意志が宿っていた。彼女はもはや救われるだけの「犬」ではない。この暴走する戦車を制御し、ゆりえの未練という名の腫瘍を切り裂く外科医の眼光で、前方の闇を見据えている。
その時、背後で物理の檻が砕ける音がした。 「パシュッ」と、真空の栓を抜いたような、あるいは肺から空気が漏れるような情けない音が響く。 ゆりえの背後で、燃え盛っていたソファーが、木片の一片さえ残さず「純白の磁器の灰」へと弾け飛んだ。
それは死の灰ではない。 かつての幸福な時間が、絶望的な摩擦という高熱によって磨き上げられ、昇華された光の粒だ。舞い上がる数千、数万の輝く灰は、ゆりえの周囲をオーロラのように美しく、そして生理的な拒絶を覚えるほどに清冽に包み込む。
「あたしの……あたしの部屋が、あたしたちの場所が、……消える」
指に食い込む赤い糸が、生き物のようにのたうち回り、磁気のリズムを帯びた「灰」を一点へと吸い寄せた。ゆりえの掌にあるがま口が、行き場を失った家具たちの絶叫を、純粋な「震動」として飲み込んでいく。
「カランッ――」
氷の星がぶつかり合うような澄んだ音が、脳髄に直接響いた。 ゆりえの手の中から、数トンあったはずの家具の質量が消失する。代わりに、がま口の口金が吸い込まれた灰をすべて噛み締め、最後に一度だけ、あの無慈悲で心地よい音を奏でた。
「パチン」
それは、過去を包み込み、自分のものにする判決の音。 がま口の中で結晶化したのは、冷たく、けれど心臓のように脈打つ『磁器の音叉』だった。重荷を捨て、一本の「震動」へと研ぎ澄まされた、未練の成れの果てだ。
その瞬間、世界からすべてのノイズが剥落した。 音が速さを追い越し、二人は「無音の真空」へと突き抜けた。
頭上には、砕け散った磁器の破片が星のように固定され、暗黒の空に「星の天蓋」を形作っている。空気の震えすら存在しない、死ぬほど静かで、死ぬほど熱い、二人だけの領域。声は届かないはずなのに、メルミの気配だけが、鼓膜ではなく神経に直接ノイズを叩きつけてくる。
ゆりえは、虚脱感の中でがま口を握りしめた。
「……燃えちゃった。あたしの全部、こんな鉄屑になっちゃった。メルミのせいだよ。あんたが、あたしを無理やり走らせたから」
メルミは、ゆりえの胸元に顔を埋めたまま、小さく鼻を鳴らした。喉の奥から、乾いた、けれどはっきりと聞き取れる声が漏れる。
「……フン。これだけ減量できれば、上出来でしょ。アンタの心臓のスペアくらいにはなるわよ、その音叉。……感謝の印に、それを鳴らして私を称えなさいな」
「何がおまけだよ。感謝なんてしないからね。死んでも許してあげないんだから!」
ゆりえは、胸元で痙攣し続けるメルミの体温に、逃げ出したくなるような既視感を覚えていた。泡を吹き、四肢を硬直させて白目を剥くその凄惨な姿。この震えのリズムを、あたしは魂の深いところで知っている。ずっと昔か、あるいは、ずっと先で、あたしはずっとこの脈動を抱きしめ続けていたのではないか。
「……本当につらかった。あたし、どうしていいか分からなくて。あの重たい家具と一緒に、このまま止まって消えちゃえばいいって、本気で思ったんだよ」
それは、剥き出しになった心から溢れた、泥のような告白だった。思い出という重力に溺れ、指一本動かせなかった自分の無力を、このメルミだけが「加速」という名の暴力で抉り取ったのだ。その恐怖と、生き延びてしまったことへの情けなさが、熱い嗚咽となって磁器の平原を濡らす。
「……ありがと」
蚊の鳴くような、掠れた声がメルミの口から漏れた。
ゆりえは耳を疑った。
「……え? メルミ、今、なんて言ったの?」
「……。……何の話よ」
メルミは瞬時に、無機質な表情に戻った。黄金の瞳が、射抜くような鋭さを取り戻す。
「今、ありがとうって……」
「アンタの鼓膜も摩擦で焼けたんじゃないの? 私はアンタの腕力が強すぎて『顎が外れそう』だって言ったのよ! いつまでそんなマヌケな顔で私を抱いてるつもり? 重力加速度も計算できないの?!」
「……っ、やっぱり大嫌い! あんたみたいな、理屈で人の心を抉る奴なんて、一生、呪ってやるんだから!」
「結構! その呪いを燃料にして、前の壁を突き破りなさい! 行くわよ、ゆりえ! 止まればそこが、アンタの『昨日』という名の墓場よ!」
光の壁が、目の前に迫る。 二人は「未練の轍」を背後に残し、閃光の中へとその身を投げ出した。
磁器の世界がガラス細工のように砕け散り、眩い白がすべてを塗り潰していく。
(第7話:完)




