第7話:戦車 ― 磁器の音叉と火花散る未練の轍 ― ②
速度が、物理の皮膚を容赦なく剥ぎ取っていく。
磁器の平原を滑走するゆりえの足元で、摩擦という概念が死に絶えた代償として、凄まじい「震動エネルギー」が逃げ場を失い、ドロドロとした熱へと変換され始めた。
大気は焼けたオゾンと、古びた子供部屋の押し入れのような、湿った埃の匂いが混ざり合った異様な臭気に包まれる。
「熱ッ、あつい……! メルミ、焦げてる、あたしたち、どこか焼けてる!!」
ゆりえは絶叫した。肺に吸い込む空気は極限まで乾燥し、喉の奥ではパチパチと小さな放電が起きている。
背後から聞こえるのは、もはや家具が磁器を削る音ではなかった。
「ゴォォォォォォッ!!」という、巨大な猛禽類が空を切り裂くような、飢えた火炎の咆哮だ。
視線を後ろへ投げたゆりえは、網膜に焼き付くような光景に絶句した。
赤い糸で数珠繋ぎにされた思い出の残骸たち。あの使い古された布張りのソファー、脚の欠けたテーブル、思い出を飾った額縁たち。それらが磁器との超高周波の摩擦に耐えきれず、青白い火花を吹き上げ、激しく発火していた。
「あたしのソファーが……! 待って、まだあのクッションの隙間に、隠したおもちゃの骨が、あたしたちの時間が詰まってるのに……ッ」
ゆりえの支離滅裂な悲鳴を嘲笑うように、炎は「未練」を脂っこい燃料にして勢いを増していく。
オレンジ色の炎が彗星の尾となってたなびき、光速で流れる磁器の鏡に、燃え盛る過去を克明に刻みつけていく。それは思い出が物理的な形を失い、不気味な「合唱」のような震動へと昇華されていく断末魔の儀式だった。
「(……ふん、遅いわよ、ゆり。古い皮を脱がないと、次のメニューには進めないものなの。……それにしても、この炎のマント、私の毛色に絶妙にマッチしてると思わない? アンタも、その涙でふやけた顔を少しは焼いてもらったら?)」
腕の中のメルミが、泡を吹きながらも喉の奥でケタケタと歪んだ笑い声を上げた気がした。
彼女は発作の激痛に晒され、四肢をデタラメな幾何学模様のように硬直させながらも、背後の地獄絵図を「自らの凱旋」として誇示している。死の淵にあってなお、メルミの自意識は、自分が世界の中心であり、この無様な「娘」という名の馬を御しているのだという全能感に酔い痴れていた。
「いい加減にして! あんた、自分の毛まで燃えるわよ!」
「パキンッ」と、背後で額縁の硝子が弾ける。その破片が磁器の上で跳ね、カシャカシャと笑うような音を立てる。
その瞬間、ゆりえの掌の「幻痛」が、かつてないほど狂暴に跳ねた。
がま口の中の『赤い結び目』が、赤い糸を介して家具たちの「絶叫(震動)」を、血管を伝う毒液のように吸い込み始めたのだ。
掌の熱。メルミの拍動。背後の炎。
それらが一本の太い神経回路となり、ゆりえの脳髄に直接プラグを差し込む。
「……あ、ああああああああっ!!」
ゆりえは、メルミを鎮めることを完全に諦めた。
代わりに、彼女はメルミの痙攣のリズムに、自分の拍動を強引に「アース」させた。
メルミが右に跳ねれば、ゆりえは左に体重を乗せ、磁器の深淵を蹴る。
震動を止めるのではない。震動という名の「獣」の背に、跨るのだ。
二人の震えが完璧に同期した瞬間、耳を劈いていた高周波のノイズが、ふっと消失した。
いや、消えたのではない。速さが速さを追い越し、世界が静謐な「和音」へと裏返ったのだ。
「……音が、追いついてこない?」
磁器の平原の上を、ゆりえは加速し続ける。
足元の鏡には、もはや「醜い自分の顔」は映っていない。
そこにあるのは、炎の外套を背負い、金の鬣を持つ猛獣を腕に抱え――燃え盛るガラクタの山を「黄金の戦車」だと信じ込み、赤い糸を手綱にして爆走する、「白きドン・キホーテ」の残像。
それは客観的に見れば、燃えゆくゴミを引き摺る狂った少女の姿。だが、自らの主観という名の絶対的な聖域において、彼女は誰にも冒せない高潔な騎士として完成していた。
「(見てご覧なさい、ゆり。この震動……私が奏でてるのよ。世界中が、私の発作に合わせて踊ってるわ)」
虚ろなメルミの目が、ギラリと黄金色に輝く。
傲慢なまでの自尊心が、絶望的な病の痙攣を「世界への指揮」へと書き換えていく。
「……いいわよ、メルミ。あんたがその気なら、地の果てまで連れてってあげるわ!」
ゆりえは叫び、燃え上がる思い出の塊を引き連れたまま、前方に現れた「黄金の裂け目」を見据えた。
重たい「物」としての過去は、いまや赤い糸を通じて熱い「音」へと凝縮され、がま口の中で純白の磁器の音叉を錬成し始めている。
背後の「崩落」が、ゆりえの踵を掠めた。
世界がデリートされる瞬間の、冷たく、そして何も存在しない「無」の風が背中を叩く。
「いくわよ……ッ!!」
炎の彗星となった二人は、磁器の平原を蹴り飛ばし、光の壁へとその身を投げ出した。
(つづく)




