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第7話:戦車 ― 磁器の音叉と火花散る未練の轍 ― ①



足元は、見渡す限りの「白」に塗り潰されていた。


破裂した「腫瘍」の生々しい残骸は、いまや乾いた鱗のようにパラパラとめくれ落ち、その下から鏡面仕上げの磁器が剥き出しになっていく。


継ぎ目一つない巨大な皿のような平原。あまりに滑らかで、あまりに無機質なその床は、光を反射することさえ拒むように冷たく、二人の間に横たわる絶望的な距離をただ沈黙して引き伸ばしていた。


「……何よ、ここ。何もないじゃない。ねえ、メルミ、あたしたち、お皿の上にでも乗ってるの?」


ゆりえの声は、湿り気のない空気に吸い込まれ、反響さえしない。乾燥しきった静寂が鼓膜にへばりつき、自分の鼓動が「ドク、ドク」と不快なほど大きく頭蓋に響く。彼女は立ち尽くしたまま、数歩先で背を向けている愛犬の、あの小さく、けれど岩のように頑なな背中を見つめた。


「ねえ、メルミ! 怒ってないでこっち向いてよ、……メルミ?」


縋るような呼びかけが、彼女の耳に届いた、その刹那だった。


「……ヒュッ」


メルミの喉が、鋭く鳴った。

弓なりに反る背骨。抑えきれない痙攣。

それがスイッチだった。

世界が、巨大な音叉おんさとして覚醒する。


「キィィィィィィィィィィィィィィィィン!!」


鼓膜を極細の針で刺し貫くような高周波。

音ではない。空間そのものが、メルミの発作に同期して激しく震えているのだ。その震動はゆりえの歯をガタガタと鳴らし、脳髄をシェイカーのように揺さぶる。震動が臨界を超えた瞬間、磁器の床から「摩擦」という概念が消失した。


「なっ……!?」


ゆりえの足元が、スケート靴を履いたかのように滑る。

摩擦係数を失った世界では、踏ん張ることさえ許されない。重力はあらぬ方向へ捻じ曲がり、二人は氷の上のスケーターのように無機質な滑走を開始した。

いや、違う。背後の世界が、巨大な磁器の皿が割れるような音を立てて、粉々に砕けながら奈落へ落ちているのだ。


パキィィン、という、理性を逆撫でするような乾いた破壊音が、ゆりえのかかとの数センチ後ろまで迫る。

止まることは、そのまま虚無への落下を意味していた。


「……ッ、こっちへ!」


ゆりえは滑りながら、激しく打ち振るわれるメルミを、無理やり横抱きに抱え上げた。

その瞬間、がま口の中の『赤い結びノット』がメルミの鼓動と共鳴し、ゆりえの掌を幻の熱が焼き貫く。かつての火傷の跡が、内側から爆発するように疼いた。


「(離しなさい、不器用なシェフ! 自分で立てるわ!)」


抱えられたメルミが、白目を剥き、口端から泡をこぼしながら吠える。

意識が混濁し、四肢をあらぬ方向に捩らせながらも、彼女の前足はゆりえの胸元を力任せに突き返した。

この期に及んで、「助けられる側」に甘んじることを魂が拒絶している。その瞳には、憐れみへの猛烈な拒絶と、「娘」の庇護を鼻で笑うような、母親としての峻厳な誇りがギラついていた。


「黙ってて! 噛んじゃうよ!」


ゆりえは磁器を蹴った。

その指に絡みついた「赤い糸」が、猛烈な勢いでピンと張る。

糸の先には、崩壊した肉の部屋から引き摺り出されたソファー、焼け焦げたテーブル、無数の写真を留めた思い出の額縁たち。それらが執着の数珠繋ぎとなって、磁器の上を「ガガガガガガガガッ!」と火花を散らしながら引き摺られていく。


思い出の重みが、ゆりえの肩を脱臼しそうなほど後方へ引き戻す。

磁器と家具が擦れる摩擦音は、まるで巨大なヤスリで魂を削られているような不快な重低音となり、耳劈く高周波と混ざり合って地獄の二重奏デュエットを奏でていた。


「絶対に落さない……。この荷物おもいでは、みんなみんな! あたしのものなんだから!」


肺を焼くような乾燥した熱気を吸い込み、ゆりえはさらに加速した。

視線を落とせば、高速で背後へ流れていく磁器の表面が、鏡となって彼女の姿を克明に映し出している。そこには、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになり、見開いた眼球に狂気を宿した「醜い自分」の顔が、光速で現れては、残像となって後ろへ引き千切られていく。


磁器の中に映る「もう一人の自分」が、一瞬、嘲笑うように口角を上げた気がした。


音、熱、速度。

鼓膜を削る高周波と、背後で思い出が削れる摩擦音。

幻痛をメルミの体温で押し潰し、ゆりえは「戦車」の車輪となった。

彼女は今、自らの重すぎる執着を引き連れて、崩落し続ける世界の淵を、ただひたすらに滑走していく。


メルミがゆりえの腕を、震える牙でガチリと噛んだ。

痛みではない。

「勝手に止まったら承知しないわよ」という、猛獣の手綱の感触だった。

その牙から伝わる熱が、ゆりえの掌の幻痛と溶け合い、二人の境界線が速度の中で再び曖昧になっていく。


(つづく)


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