第6話:恋人 ― 脈打つ密室と赤い糸の忘却 ― ③
メルミの全体重が、がま口を握りしめたゆりえの掌にのしかかる。 掌の中で硝子の棘が肉を焼き、さらに深く突き刺さった。だが、その鋭い痛みでさえ、今のゆりえにとっては全身を支配する蜜の快楽を深めるための「味付け」に過ぎない。
現実に引き摺り戻そうとする棘の熱量は、彼女を甘く溶かし続ける密室の陶酔の中に、無力に飲み込まれていった。
肉の壁がまつ毛を掠めるほどに迫り、すべてを飲み込もうとしたその刹那。
掌の衝撃と同期するように、一枚の額縁が「カチリ」と音を立てて焦点を結んだ。
「え?……」
その写真にあったのは、暴力的なまでの極彩色だった。
白、黄色、ピンク、赤、オレンジ――。
この世の全ての色彩を煮詰めたような、圧倒的なバラの海。
その中央に、バギーに揺られるメルミと、彼女を支えながら微笑む自分の姿がある。
あの日、確かに幸せだった。けれど、その幸せは、「何か」を前提にして、燃え尽きる直前の電球のように狂おしく輝いていた。
どこからともなく鼻腔を突くのは、弾けるような生の嬉しさと、それが指の間から零れ落ちていく絶望が混ざり合った、時間そのものの匂い。
「何でメルミがいるの!? 見せないで! こんな眩しいの光じゃないよ!」
ゆりえは叫んだ。その美しさが「決定的な何か」と形を結び、自分を確定させてしまう前に、彼女は脳のコンセントを力任せに引き抜いた。
……。
…………。
視界が急速に狭まり、極彩色の世界が闇に食われる。
テレビの主電源を切った後のように、一筋の光が中央に収束し、消えた。
……。
…………。
音も、光も、意味も、重力さえも消失した、完全な「零」の静界。
鼓動の音さえも、この虚無に吸い込まれて響かない。自分が誰かも、メルミがどこにいるかも分からない。ゆりえが望んだ、永遠に続くはずの、暗く、甘い、無責任な静寂。
――だが。
その「零」の静寂を、掌の中の「硝子の飛礫(棘)」が許さなかった。
「……あ、……あつ……っ!」
暗闇の底で、がま口の中の棘が、突如として白色矮星のような狂暴な光を放った。それはもはや「熱い」という感覚を通り越し、細胞の一つ一つを直接焼き、蒸発させるような暴力的な純粋エネルギーだ。
ゆりえの掌から溢れ出したその高熱は、彼女を飲み込もうとしていた周囲の蜜を瞬時に沸騰させ、執着の象徴である肉の壁を内側から猛烈に炙り始める。
「やめて、……壊れちゃう、あたしたちが!!」
ゆりえの叫びは、膨張する熱波の咆哮にかき消された。 溶け合おうとする肉の「重力」と、すべてを拒絶して焼き尽くそうとする棘の「斥力」。 その矛盾が一点に集中し、ゆりえの体を回路にして限界まで圧縮された、その時。
――ピシャァァァンッ!!
空間そのものが耐えきれず悲鳴を上げ、音を立てて爆ぜた。 巨大な果実が超高圧で粉砕されたような、生々しく、そして乾いた破裂音。 二人を閉じ込めていた「腫瘍の部屋」は、共依存という名の病を、教皇の残したエゴの熱量によって内側からズタズタに切り裂かれ、熱風と共に四散した。
飛び散る肉の飛礫は、まるで呪縛から解き放たれた散華のように空を舞い、光を反射して消えていく。降り注ぐ残骸の中、二人を繋いでいた「赤い糸」が、激しい張力に耐えかねて千切れた。
糸は自ら意志を持つ生き物のように蠢き、ゆりえが握りしめていたがま口の中へ、吸い込まれるように消えていく。
「パチン」
瓦礫の中で、がま口が冷酷に、けれど確かに物語を区切る音を立てて閉まった。 その乾いた音と共に、ゆりえの掌を貫いていた傷跡が、まるで魔法のように消え去った。焼けた皮膚も、裂けた肉も、そこにはない。
「……はぁ、はぁ、……メルミ?」
ゆりえは、肉の残骸が積み上がった不毛な平野で、怯えた瞳で依存主を探した。 傷は消えた。しかし、掌の奥には、今なお白熱した鉄を握らされているような「幻の熱」がドクドクと脈打っている。
数歩先。メルミは立っていた。 あんなに密着していたのに、今の彼女は、ゆりえの手が届かないほど遠くに背中を向けている。
「メルミ、あたしたち、また助かったんだよね……?」
メルミは、ゆりえの後ろにある「バラ園」の残像を慈しむように一瞥し、それから前を見据える。
「……ゆり。アンタがここで止まれば、私はずっとアンタの『かわいい死体』のままでいられたのかもね」
その声は冷たいが、どこか遠い未来の娘を案じるような重みがある。
「な、何言ってるのよ。あたしは、あんたのために……」
「でも、アンタはまだ歩けるじゃない。……悪いけど、アンタが作り上げたこの甘い腫瘍の中にまで、私を付き合わせないでくれる? 私だって、アンタが思っているほど暇じゃないのよ」
メルミは一度だけ鼻を鳴らすと、短い足で、瓦礫の山を一人で降り始めた。 かつて同じ歩幅で歩いたはずの影が、今少しずつ亀裂となって、二人の間に横たわっている。
ゆりえは、がま口を強く握りしめた。 その中では、手に入れた『脈打つ赤の結び目』が、まだ生きている血管のように脈打ち、掌の「消えない熱」と共鳴していた。
(第6話・完)




