表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/25

第6話:恋人 ― 脈打つ密室と赤い糸の忘却 ― ③



メルミの全体重が、がま口を握りしめたゆりえの掌にのしかかる。 掌の中で硝子の棘が肉を焼き、さらに深く突き刺さった。だが、その鋭い痛みでさえ、今のゆりえにとっては全身を支配する蜜の快楽を深めるための「味付け」に過ぎない。


現実に引き摺り戻そうとする棘の熱量は、彼女を甘く溶かし続ける密室の陶酔の中に、無力に飲み込まれていった。


肉の壁がまつ毛を掠めるほどに迫り、すべてを飲み込もうとしたその刹那。

掌の衝撃と同期するように、一枚の額縁が「カチリ」と音を立てて焦点を結んだ。


「え?……」


その写真にあったのは、暴力的なまでの極彩色だった。

白、黄色、ピンク、赤、オレンジ――。

この世の全ての色彩を煮詰めたような、圧倒的なバラの海。

その中央に、バギーに揺られるメルミと、彼女を支えながら微笑む自分の姿がある。

あの日、確かに幸せだった。けれど、その幸せは、「何か」を前提にして、燃え尽きる直前の電球のように狂おしく輝いていた。


どこからともなく鼻腔を突くのは、弾けるような生の嬉しさと、それが指の間から零れ落ちていく絶望が混ざり合った、時間そのものの匂い。


「何でメルミがいるの!? 見せないで! こんな眩しいの光じゃないよ!」


ゆりえは叫んだ。その美しさが「決定的な何か」と形を結び、自分を確定させてしまう前に、彼女は脳のコンセントを力任せに引き抜いた。


……。

…………。


視界が急速に狭まり、極彩色の世界が闇に食われる。

テレビの主電源を切った後のように、一筋の光が中央に収束し、消えた。


……。

…………。


音も、光も、意味も、重力さえも消失した、完全な「零」の静界。

鼓動の音さえも、この虚無に吸い込まれて響かない。自分が誰かも、メルミがどこにいるかも分からない。ゆりえが望んだ、永遠に続くはずの、暗く、甘い、無責任な静寂。


――だが。


その「零」の静寂を、掌の中の「硝子の飛礫(棘)」が許さなかった。


「……あ、……あつ……っ!」


暗闇の底で、がま口の中の棘が、突如として白色矮星のような狂暴な光を放った。それはもはや「熱い」という感覚を通り越し、細胞の一つ一つを直接焼き、蒸発させるような暴力的な純粋エネルギーだ。


ゆりえの掌から溢れ出したその高熱は、彼女を飲み込もうとしていた周囲の蜜を瞬時に沸騰させ、執着の象徴である肉の壁を内側から猛烈に炙り始める。


「やめて、……壊れちゃう、あたしたちが!!」


ゆりえの叫びは、膨張する熱波の咆哮にかき消された。 溶け合おうとする肉の「重力」と、すべてを拒絶して焼き尽くそうとする棘の「斥力」。 その矛盾が一点に集中し、ゆりえの体を回路にして限界まで圧縮された、その時。


――ピシャァァァンッ!!


空間そのものが耐えきれず悲鳴を上げ、音を立てて爆ぜた。 巨大な果実が超高圧で粉砕されたような、生々しく、そして乾いた破裂音。 二人を閉じ込めていた「腫瘍の部屋」は、共依存という名の病を、教皇の残したエゴの熱量によって内側からズタズタに切り裂かれ、熱風と共に四散した。


飛び散る肉の飛礫は、まるで呪縛から解き放たれた散華のように空を舞い、光を反射して消えていく。降り注ぐ残骸の中、二人を繋いでいた「赤い糸」が、激しい張力に耐えかねて千切れた。


糸は自ら意志を持つ生き物のように蠢き、ゆりえが握りしめていたがま口の中へ、吸い込まれるように消えていく。


「パチン」


瓦礫の中で、がま口が冷酷に、けれど確かに物語を区切る音を立てて閉まった。 その乾いた音と共に、ゆりえの掌を貫いていた傷跡が、まるで魔法のように消え去った。焼けた皮膚も、裂けた肉も、そこにはない。


「……はぁ、はぁ、……メルミ?」


ゆりえは、肉の残骸が積み上がった不毛な平野で、怯えた瞳で依存主を探した。 傷は消えた。しかし、掌の奥には、今なお白熱した鉄を握らされているような「幻の熱」がドクドクと脈打っている。


数歩先。メルミは立っていた。 あんなに密着していたのに、今の彼女は、ゆりえの手が届かないほど遠くに背中を向けている。


「メルミ、あたしたち、また助かったんだよね……?」


メルミは、ゆりえの後ろにある「バラ園」の残像を慈しむように一瞥し、それから前を見据える。


「……ゆり。アンタがここで止まれば、私はずっとアンタの『かわいい死体』のままでいられたのかもね」


その声は冷たいが、どこか遠い未来の娘を案じるような重みがある。


「な、何言ってるのよ。あたしは、あんたのために……」


「でも、アンタはまだ歩けるじゃない。……悪いけど、アンタが作り上げたこの甘い腫瘍ゆりかごの中にまで、私を付き合わせないでくれる? 私だって、アンタが思っているほど暇じゃないのよ」


メルミは一度だけ鼻を鳴らすと、短い足で、瓦礫の山を一人で降り始めた。 かつて同じ歩幅で歩いたはずの影が、今少しずつ亀裂となって、二人の間に横たわっている。


ゆりえは、がま口を強く握りしめた。 その中では、手に入れた『脈打つ赤の結びノット』が、まだ生きている血管のように脈打ち、掌の「消えない熱」と共鳴していた。


(第6話・完)



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ